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十二.
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崖の上から奈津は落下防止用の丸太風の柵に両手をついて、太陽が落ちて森に影がかかるのをじっと見つめていた。太陽の動きがはっきりわかるようになってきた。森に夜が訪れる。やがて日は沈み、山の向こう側が、残り火のように赤く染まっている。
「黄昏時……か」
今日もまた夜が来た。今夜は何があっても絶対に起きまいと心に決めて、屋敷に戻る。
* * *
夕食の時間になった。座敷に置いた四角い卓を家族3人で囲んでいる。
卓の上に置いたガスコンロの上の土鍋がコトコト音を立てている。奈津は4人分にしては多い牛肉をどんどん放り込んでいく。下ごしらえは瑞穂が済ませてくれていたので後はちょっと火を通して食べるだけである。
「黄昏というのは、日没直後の、空に赤さが残る僅かな時間。万葉集に出てくる歌の中で「誰そ彼」と表現されるとおり、隣の人の顔も見えないくらいの時間帯ということだ。黄昏時というのは昼と夜の境界。魔物と遭遇する時間という意味で、逢魔時と呼んだりする」
「この間見た映画でそんな話が出てきたかなぁ。最近は古神道をモチーフにしたファンタジーも多いから、意外に一般常識だよ」
森の神木のところまで行った話や、そこで感じた妙な感覚のことを藤次に話してみると、返ってきたのがそんな話だった。
「古よりの考え方の一つとして、人間たちの暮らしている現世と常世や幽世と呼ばれる神域――すなわち永遠の世界という二律した世界が存在するという考え方がある。その境目――端境を人は様々なものに求めてきた。自然の山河、地形、水平線、森。そして一日の時間の中にも。がらりとその様相が変わるところに、神域に誘う入り口があるものと考えたんだ」
奈津は小鉢に卵を割って菜箸で手早く掻き混ぜると、沙奈の前に置いた。
「肉ばっかり食べるんじゃないよ。まず白菜、春菊、お豆腐と味わってから肉に行きなさい」
と、菜箸で白菜をつかんで、沙奈の小鉢に放り込む。佐奈は白菜の白くて固い部分は苦手なので、その部分は避けてやる。
「うぅ……。はぁい」
沙奈は、奈津が選って採った白菜の柔らかい葉の部分を口に入れた。
「お父さんも、もう煮えたよ」
奈津は藤次の小鉢に好物の豆腐を入れて前に置く。
「それにしても、春人さんはどうしたんだろう。先に食べてて、って言っていたけれど、一緒に食べたほうがいいのに」
言いながら、奈津は自分も小鉢に卵を割った。玉杓子で焼き豆腐をすくう。
「もしかしたら、私は神域に足を踏み入れたのかなぁ」
白ネギをかじりながら奈津はしみじみ思う。あの時見た白い誰かの姿は、向こう側の人だったのかもしれない。
「肉~」
土鍋に箸を入れようとした沙奈に、「行儀が悪い!」と奈津は菜箸でガードする。
「次は糸こんにゃく。肉は最後」
「肉ぅ~」
ぴしゃりと言った奈津に、泣きそうな顔を向ける沙奈と「おいおい。好きな物を好きなように好きなだけ食べさせろよ」と諫める藤次。
「お嬢ちゃんは意外に鍋奉行だな」
笑いながら春人が座敷に入ってきたので、奈津は照れ臭くなって頭を掻いた。
「もう出来ていますよ。一緒に食べましょう」
「ああ……ありがとう」
と言いながら春人は一つだけ誰も座っていない座布団に正座した。春人が奈津と同じように小鉢に卵を割って溶いてから、まず肉に手を付けようとしたので、奈津は「まずは野菜からです!」とピシャリと言った。
「分かった、分かった」
苦笑した春人がネギを取って小鉢に入れる。
「それにしても、なかなか面白いお話をされていましたね」
と春人は藤次に話しかける。
「黄昏の話ですか?」
と聞き返したのは奈津だった。「ああ」と春人は奈津に話を始めた。
「もともとは飾森神社の神体は裾野の森そのものだったんだ。日本中に、本殿や社を持たない神社はたくさんあるが、飾森神社は江戸時代の初めくらいに社を建てたと記録が残っている。明治になるまでは禁足地だったんだが、今は林道とかもできているし、ある程度は立ち入りもできる。もっとも、神社の保有している民有林は今でも立ち入り禁止にしているが」
「きんそくち?」
「足を踏み入れるのを禁止しているというところだな」
奈津の疑問に藤次が答えて、話は続けられた。
「階段の口の所に祠があったのに気付かなかったか? ああやって常世の者が簡単にこちらに入ってこられないように結界を張っているんだ。今日、君が歩いた道は、常世と現世をつなぐ場所であると同時に、その双方が重なり合う場所でもあったんだ。もう少し遅い時間になっていたら、何かに遭ったかもしれないな」
奈津は「迷信なんて信じない」「古いしきたりなんてバカバカしい」などと心底思えるほどにドライな性格でもない。もしも出会ってしまったらと思うと背筋に冷たいものが走る。同時に、すでに遭ってしまっていたのではないか、とも思えて仕方ない。
「……大丈夫さ。昼間だったら、そんなには出てこないから」
「まるでたまには出てきそうな物言いですね……」
「むつかしい、はなし、わかんない!」
それを横でずっと聞いていた沙奈がぶすっとした顔で言った。
* * *
「黄昏時……か」
今日もまた夜が来た。今夜は何があっても絶対に起きまいと心に決めて、屋敷に戻る。
* * *
夕食の時間になった。座敷に置いた四角い卓を家族3人で囲んでいる。
卓の上に置いたガスコンロの上の土鍋がコトコト音を立てている。奈津は4人分にしては多い牛肉をどんどん放り込んでいく。下ごしらえは瑞穂が済ませてくれていたので後はちょっと火を通して食べるだけである。
「黄昏というのは、日没直後の、空に赤さが残る僅かな時間。万葉集に出てくる歌の中で「誰そ彼」と表現されるとおり、隣の人の顔も見えないくらいの時間帯ということだ。黄昏時というのは昼と夜の境界。魔物と遭遇する時間という意味で、逢魔時と呼んだりする」
「この間見た映画でそんな話が出てきたかなぁ。最近は古神道をモチーフにしたファンタジーも多いから、意外に一般常識だよ」
森の神木のところまで行った話や、そこで感じた妙な感覚のことを藤次に話してみると、返ってきたのがそんな話だった。
「古よりの考え方の一つとして、人間たちの暮らしている現世と常世や幽世と呼ばれる神域――すなわち永遠の世界という二律した世界が存在するという考え方がある。その境目――端境を人は様々なものに求めてきた。自然の山河、地形、水平線、森。そして一日の時間の中にも。がらりとその様相が変わるところに、神域に誘う入り口があるものと考えたんだ」
奈津は小鉢に卵を割って菜箸で手早く掻き混ぜると、沙奈の前に置いた。
「肉ばっかり食べるんじゃないよ。まず白菜、春菊、お豆腐と味わってから肉に行きなさい」
と、菜箸で白菜をつかんで、沙奈の小鉢に放り込む。佐奈は白菜の白くて固い部分は苦手なので、その部分は避けてやる。
「うぅ……。はぁい」
沙奈は、奈津が選って採った白菜の柔らかい葉の部分を口に入れた。
「お父さんも、もう煮えたよ」
奈津は藤次の小鉢に好物の豆腐を入れて前に置く。
「それにしても、春人さんはどうしたんだろう。先に食べてて、って言っていたけれど、一緒に食べたほうがいいのに」
言いながら、奈津は自分も小鉢に卵を割った。玉杓子で焼き豆腐をすくう。
「もしかしたら、私は神域に足を踏み入れたのかなぁ」
白ネギをかじりながら奈津はしみじみ思う。あの時見た白い誰かの姿は、向こう側の人だったのかもしれない。
「肉~」
土鍋に箸を入れようとした沙奈に、「行儀が悪い!」と奈津は菜箸でガードする。
「次は糸こんにゃく。肉は最後」
「肉ぅ~」
ぴしゃりと言った奈津に、泣きそうな顔を向ける沙奈と「おいおい。好きな物を好きなように好きなだけ食べさせろよ」と諫める藤次。
「お嬢ちゃんは意外に鍋奉行だな」
笑いながら春人が座敷に入ってきたので、奈津は照れ臭くなって頭を掻いた。
「もう出来ていますよ。一緒に食べましょう」
「ああ……ありがとう」
と言いながら春人は一つだけ誰も座っていない座布団に正座した。春人が奈津と同じように小鉢に卵を割って溶いてから、まず肉に手を付けようとしたので、奈津は「まずは野菜からです!」とピシャリと言った。
「分かった、分かった」
苦笑した春人がネギを取って小鉢に入れる。
「それにしても、なかなか面白いお話をされていましたね」
と春人は藤次に話しかける。
「黄昏の話ですか?」
と聞き返したのは奈津だった。「ああ」と春人は奈津に話を始めた。
「もともとは飾森神社の神体は裾野の森そのものだったんだ。日本中に、本殿や社を持たない神社はたくさんあるが、飾森神社は江戸時代の初めくらいに社を建てたと記録が残っている。明治になるまでは禁足地だったんだが、今は林道とかもできているし、ある程度は立ち入りもできる。もっとも、神社の保有している民有林は今でも立ち入り禁止にしているが」
「きんそくち?」
「足を踏み入れるのを禁止しているというところだな」
奈津の疑問に藤次が答えて、話は続けられた。
「階段の口の所に祠があったのに気付かなかったか? ああやって常世の者が簡単にこちらに入ってこられないように結界を張っているんだ。今日、君が歩いた道は、常世と現世をつなぐ場所であると同時に、その双方が重なり合う場所でもあったんだ。もう少し遅い時間になっていたら、何かに遭ったかもしれないな」
奈津は「迷信なんて信じない」「古いしきたりなんてバカバカしい」などと心底思えるほどにドライな性格でもない。もしも出会ってしまったらと思うと背筋に冷たいものが走る。同時に、すでに遭ってしまっていたのではないか、とも思えて仕方ない。
「……大丈夫さ。昼間だったら、そんなには出てこないから」
「まるでたまには出てきそうな物言いですね……」
「むつかしい、はなし、わかんない!」
それを横でずっと聞いていた沙奈がぶすっとした顔で言った。
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