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十九.
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ほんの少し、森の中に入るとすぐに得体の知れない気持ち悪さが襲ってきた。それが、森特有の土や樹木の匂いとか、木々の間の日陰の多さのせいでひんやりとしているためとか……理由の付くものだったのか、あるいは心霊的なものだったのかは分からない。
何かに見られているような不思議な感覚から逃げられない。ねちっとした絡みつくような視線から逃れられないような嫌な気分。
それは、あたかも、森そのものが、突如侵入してきた異分子に対して警戒をしているかのように思えた。
「足元には十分に気を付けろよ。山は意外と体力を使うから」
傾斜をのぼりながら春人が言う。
この間も、沙奈の名前を大きな声で呼びながらである。声を発すれば、その分の空気を肺の中に送り込まなければならない。ひんやりとした空気が胸いっぱいに広がって、胸の中が痛く感じた。
「……先が見通せない上に、思ったよりも進むのに手間取るな」
春人が呟いたのは森に入ってから1時間ほど経ってからだった。100mのロープがようやく限界まで伸びたところだった。
木々をかわしながら歩いていたので時間がかかったし、近くで物音があると沙奈ではないかとあたりを調べる。
足元が異様に悪くて、歩きにくかったのも理由の一つだった。
ここ数日雨なんてなかった筈なのに、足元の土は泥が乾いたような粘り気のある柔らかいもので、足を上げるのも辛かった。
「これなら、沙奈も疲れて動けなくなっているかもしれませんね」
奈津は、佐奈が初日に階段を登り切れなくなったのを思い出した。全部登り切った奈津でさえこれなのだから、沙奈の足では30m歩くのもやっとに違いない。しらみつぶしに探せばきっとすぐに見つかるだろうと、希望が湧いた。
いや、そんなものを、希望と思わなければ、足が止まってしまいそうだった。
「大丈夫か? 君が疲れているんじゃないのか?」
足を止めて振り返った春人が声をかけてくる。
「大丈夫です」
「ならいいが……。こういう時こそ、自分の身を最優先に考えるんだ」
そう言って奈津に背を向けた春人が足を止めたままで、
「君はもしかして、君の妹も森に喰われたと思っているんじゃないか?」
「……そうではないことを祈っています」
「君も、君の妹も、宮瀬の家とは何の関係もない人間だ。森からお呼びはかからないさ」
奈津はその含みのある物言いに、初めて春人に対する微かな不審を感じた。森に消えた者が、自発的に森の中に入っていったとは限らない。誰かが置いていった可能性だって……。
そのことに思い至った瞬間、奈津の背中に冷たいものが走った。総毛だつ、という感覚を初めて知ったような気がした。数歩前を、同じ黄と黒のロープを掴んで歩く春人の背中が異様に恐ろしく感じ、思わず目を逸らした。
その視界の端に、人の影を捕らえた。まさかと思いつつ、そちらに顔を向けて目を凝らす。
比較的大きな樹の下に、人の姿があった。下から見上げる形なので足元は見えず、男女の区別もつかない。しかし、白いシャツに黒いズボンを履いた人が確かにいた。
「春人さん! 人がいます!」
「人……? あれは……近づくな!」
彩智が指を向けて、その存在を知らせると、春人もその存在に気付いて鋭い声を発した。それは驚きよりも焦ったような声だった。
「どうしてですか! 彩智を見ているかも!」
言ってから奈津はロープを離し、斜面を駆け上がる。
「すみませーん! 人を探しているんです! 小さな女の子なんですが見かけませんでしたかー!」
叫びながら近寄る。木の下の人影は微動だにもしない。
「おい! 勝手なことはしないって約束はどうした!」
後ろから追いかけてくる春人の声は無視する。沙奈を見ているかもしれないじゃないか。どうして声をかけたらいけないんだ!
奈津は、白いシャツの手首をつかんだ。
「すいま――」
ずるりという音がしたような気がした。掴んだ瞬間、軍手を通して冷たい汁が掌を濡らした。ぐにゃっとした感触はとても形容しがたい。柔らかいを通りこえて僅かに触れただけで崩れていく――感触。すぐに気づいた。これは腐った肉の感触だ。
俯いていたので、奈津の視線は自然と黒いズボンの先に向いている。その足は靴を履いていなかった。靴は見当たらなかった。足先は地面についてはいなかった。その足の指は両足とも全て無くなって、足の甲が半分くらいになって、骨が露出していた。
「い……嫌ぁ!」
顔を上げた奈津は、その人の顔を正面から見てしまった。生前、男だったのか女だったのかさえ分からないその顔は、干からびて崩れて、生前の原形をとどめていなかった。
そして、その顔には眼球がなく、ぽっかりと開いた眼窩が、奈津を見下していた。
首を吊った死体だった。それも、死んでから、相当の時間が経った。声を上げて掴んだ手を振り払った瞬間、首が千切れて、首から下がどさりと地面に音を立てて落ちた。そのはずみで、首を吊ったロープに残されていた頭部も、ころりと転げ落ちた。
奈津は見てしまった。
頭部がスローモーションのように落ちていく様を。
そして、もはや生を失っているはずの、その顔が一瞬動き、唇がにやりと嗤ったように見えた。
それはただの見間違いだったに違いない。しかし、小学校5年生の女の子が見るには衝撃が強すぎた。その瞬間に頭が真っ白になった。ここが、一度迷い込んだら抜け出すことも出来ない深い森の中であることも、春人との約束も、沙奈のことさえも、全て頭の中から吹き飛んでいた。悲鳴にならない悲鳴を上げて、ただひたすらその場から逃げ出していた。
* * *
何かに見られているような不思議な感覚から逃げられない。ねちっとした絡みつくような視線から逃れられないような嫌な気分。
それは、あたかも、森そのものが、突如侵入してきた異分子に対して警戒をしているかのように思えた。
「足元には十分に気を付けろよ。山は意外と体力を使うから」
傾斜をのぼりながら春人が言う。
この間も、沙奈の名前を大きな声で呼びながらである。声を発すれば、その分の空気を肺の中に送り込まなければならない。ひんやりとした空気が胸いっぱいに広がって、胸の中が痛く感じた。
「……先が見通せない上に、思ったよりも進むのに手間取るな」
春人が呟いたのは森に入ってから1時間ほど経ってからだった。100mのロープがようやく限界まで伸びたところだった。
木々をかわしながら歩いていたので時間がかかったし、近くで物音があると沙奈ではないかとあたりを調べる。
足元が異様に悪くて、歩きにくかったのも理由の一つだった。
ここ数日雨なんてなかった筈なのに、足元の土は泥が乾いたような粘り気のある柔らかいもので、足を上げるのも辛かった。
「これなら、沙奈も疲れて動けなくなっているかもしれませんね」
奈津は、佐奈が初日に階段を登り切れなくなったのを思い出した。全部登り切った奈津でさえこれなのだから、沙奈の足では30m歩くのもやっとに違いない。しらみつぶしに探せばきっとすぐに見つかるだろうと、希望が湧いた。
いや、そんなものを、希望と思わなければ、足が止まってしまいそうだった。
「大丈夫か? 君が疲れているんじゃないのか?」
足を止めて振り返った春人が声をかけてくる。
「大丈夫です」
「ならいいが……。こういう時こそ、自分の身を最優先に考えるんだ」
そう言って奈津に背を向けた春人が足を止めたままで、
「君はもしかして、君の妹も森に喰われたと思っているんじゃないか?」
「……そうではないことを祈っています」
「君も、君の妹も、宮瀬の家とは何の関係もない人間だ。森からお呼びはかからないさ」
奈津はその含みのある物言いに、初めて春人に対する微かな不審を感じた。森に消えた者が、自発的に森の中に入っていったとは限らない。誰かが置いていった可能性だって……。
そのことに思い至った瞬間、奈津の背中に冷たいものが走った。総毛だつ、という感覚を初めて知ったような気がした。数歩前を、同じ黄と黒のロープを掴んで歩く春人の背中が異様に恐ろしく感じ、思わず目を逸らした。
その視界の端に、人の影を捕らえた。まさかと思いつつ、そちらに顔を向けて目を凝らす。
比較的大きな樹の下に、人の姿があった。下から見上げる形なので足元は見えず、男女の区別もつかない。しかし、白いシャツに黒いズボンを履いた人が確かにいた。
「春人さん! 人がいます!」
「人……? あれは……近づくな!」
彩智が指を向けて、その存在を知らせると、春人もその存在に気付いて鋭い声を発した。それは驚きよりも焦ったような声だった。
「どうしてですか! 彩智を見ているかも!」
言ってから奈津はロープを離し、斜面を駆け上がる。
「すみませーん! 人を探しているんです! 小さな女の子なんですが見かけませんでしたかー!」
叫びながら近寄る。木の下の人影は微動だにもしない。
「おい! 勝手なことはしないって約束はどうした!」
後ろから追いかけてくる春人の声は無視する。沙奈を見ているかもしれないじゃないか。どうして声をかけたらいけないんだ!
奈津は、白いシャツの手首をつかんだ。
「すいま――」
ずるりという音がしたような気がした。掴んだ瞬間、軍手を通して冷たい汁が掌を濡らした。ぐにゃっとした感触はとても形容しがたい。柔らかいを通りこえて僅かに触れただけで崩れていく――感触。すぐに気づいた。これは腐った肉の感触だ。
俯いていたので、奈津の視線は自然と黒いズボンの先に向いている。その足は靴を履いていなかった。靴は見当たらなかった。足先は地面についてはいなかった。その足の指は両足とも全て無くなって、足の甲が半分くらいになって、骨が露出していた。
「い……嫌ぁ!」
顔を上げた奈津は、その人の顔を正面から見てしまった。生前、男だったのか女だったのかさえ分からないその顔は、干からびて崩れて、生前の原形をとどめていなかった。
そして、その顔には眼球がなく、ぽっかりと開いた眼窩が、奈津を見下していた。
首を吊った死体だった。それも、死んでから、相当の時間が経った。声を上げて掴んだ手を振り払った瞬間、首が千切れて、首から下がどさりと地面に音を立てて落ちた。そのはずみで、首を吊ったロープに残されていた頭部も、ころりと転げ落ちた。
奈津は見てしまった。
頭部がスローモーションのように落ちていく様を。
そして、もはや生を失っているはずの、その顔が一瞬動き、唇がにやりと嗤ったように見えた。
それはただの見間違いだったに違いない。しかし、小学校5年生の女の子が見るには衝撃が強すぎた。その瞬間に頭が真っ白になった。ここが、一度迷い込んだら抜け出すことも出来ない深い森の中であることも、春人との約束も、沙奈のことさえも、全て頭の中から吹き飛んでいた。悲鳴にならない悲鳴を上げて、ただひたすらその場から逃げ出していた。
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