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二十.
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足を止めた時、奈津は自分がとんでもないことをしでかしたことに気付いた。深い森の中。生を感じられない静寂の中で、奈津はたった一人になっていた。
めくらっぽうに走ったために、自分がどうやってここに来たのかさえ分からない。目の前にも後ろにも、右にも左にも同じ景色が広がり、どちらから来たのか、どちらに向かえばよいのかさえ分からない。目印のロープの所まで戻ることができるとは思えなかった。
変化と言えば、走る前より暗くなったこととか、周りの樹木の間隔が狭くなっていることとか。よく走っている時に頭をぶつけなかったものだと思う。
「誰か! 誰かいませんかー!」
声を上げてみるが、当然のことながら返答はない。
……私はここで死ぬのだろうか。
死を意識しながらも、どこか現実味を伴わない。今はまだ、それほど疲れていないから、死というのをそんなにリアルに感じられないのかもしれない。
しかし、立ち止まり、戸惑っている間にも、目に見えて辺りの景色が闇に溶けていく。さすがに不安を掻き立てられ、出がけに春人から渡された懐中電灯のスイッチを入れた。
「とにかく、さっきの所に戻らなきゃ」
「やめておけ」
背後から声を掛けられ、はっと振り向きざま懐中電灯の光を向ける。
「眩しいな」
黄色いヘルメットがライトの光を反射して良く目立つ。眩しくて手で奈津の懐中電灯を遮っているのは、さっきはぐれたばかりの春人だった。
「春人さん。良かった……」
「良くない。君を追いかけるのがやっとで、俺だって帰り道が分からなくなった」
「そ……それじゃぁ」
「ああ。本格的に、遭難だ」
「そうなんだ……」
「冗談のつもりなら笑えないぞ」
いきなり両手でほっぺたを引っ張られた。「いひゃいです」と奈津は抗議する。春人はしばらく強張った表情をしていたが、やがて相好を崩し、
「とりあえず無事でよかった。今晩はここで過ごして、明日、助けを求められる場所を探そう」
「でも……日が沈むのが早くありませんか」
「この時期の日の入りは7時過ぎだ。で、今の時間は8時を過ぎたばかりだ」
「そんな……森に入って、もう4時間以上も経つんですか? 私と春人さんは、そんなに長い時間はぐれていたんですか?」
「いや。せいぜい10分ほどだろう。確かに、時間の感覚が狂ったような気がするな」
「せいぜい2時間ほどだと思っていました。こんな状況だからか……時間が経つのは早いですね」
軽口を叩いてから、自分たちが遭難していることを思い出した。春人が来たことで安心して、状況は何も変わっていないのに、ほっとしてわずかな間とはいえ自分が置かれた状況さえ忘れてしまっていたことに気付く。
「……そうだな。俺もそのくらいだと思っていた。時間の感覚がおかしく感じるのは確かだ」
「まさか……この森の中だけ時間の進み方が違うとか?」
「そんなわけ……」
――無いとは続かなかった。
「この間話した、現世と常世のことは覚えているか。今、この森の中は、俺達が知っている世界じゃないのかもしれない。時の流れだって、俺達が知らないものだとしても、不思議はないさ」
「そんな。いくらなんでも、物理法則までは変わらないでしょう。でないと、私はふわふわと宙を浮いていなければなりません。……浮いてたら、ウチがすぐに見つかっていいんですけれどね」
くくっと春人が押し殺したような声で笑う。
それから懐中電灯の明かりがリュックサックに向けられ、その中から、青っぽいレジャーシートを取り出された。地面の上に敷いたシートに腰かけるように春人に促されたので、おとなしくそれに従う。奈津が座った左隣に、春人も腰を下ろす。
「準備がいいですね」
「毛布があればいいんだが。まぁ、この時期だ。凍死することはないだろう。天気も今晩から明日にかけては崩れることはないはずだ」
500mlのペットボトルも渡された。本当に何でも出てくる魔法のリュックだ。
「1本ずつしか用意していないから大切に飲むように」
と念を押されてから、掌を広げるように言われ、奈津は右手を差し出した。その上に、缶に入ったドロップが出される。ガラガラと音を立てて出てきたのは黄色かった。口に入れると予想通りレモンの味だった。
「……すみませんでした」
ガリガリと口の中でドロップを噛み砕き、ペットボトルの水を一口含んで、飲み込んだ。水分は大切にしなければ……と、それ以上は飲まずに蓋を閉める。それから、春人の方に向き直り、謝罪の言葉を口にした。
「私が勝手に走り出したりしなければ……」
「まぁ、それはその通りだ。無事に戻ったら、妹ともども正座で説教だからな」
「覚悟します……」
本当に、沙奈と一緒に帰れたら……。何時間だって正座でも何でもする。だから、神様、どうか沙奈とまた会わせてください。どうか一緒に家に帰らせてください。日本には神様が八百万もいるそうだから、1人くらいは私のお願いを聞いてくれてもいいじゃないか、と思ってから、ここだって神社の所領だったことを思い出す。いわば神様のお膝元だ。
「……さっき言ったことの意味を教えてくれませんか?」
奈津はぽつりと尋ねた。
「さっき?」
「佐奈は……森に呼ばれていないって。春人さんが言う森と神様は同じ意味なんですか」
「そうだな……」
* * *
めくらっぽうに走ったために、自分がどうやってここに来たのかさえ分からない。目の前にも後ろにも、右にも左にも同じ景色が広がり、どちらから来たのか、どちらに向かえばよいのかさえ分からない。目印のロープの所まで戻ることができるとは思えなかった。
変化と言えば、走る前より暗くなったこととか、周りの樹木の間隔が狭くなっていることとか。よく走っている時に頭をぶつけなかったものだと思う。
「誰か! 誰かいませんかー!」
声を上げてみるが、当然のことながら返答はない。
……私はここで死ぬのだろうか。
死を意識しながらも、どこか現実味を伴わない。今はまだ、それほど疲れていないから、死というのをそんなにリアルに感じられないのかもしれない。
しかし、立ち止まり、戸惑っている間にも、目に見えて辺りの景色が闇に溶けていく。さすがに不安を掻き立てられ、出がけに春人から渡された懐中電灯のスイッチを入れた。
「とにかく、さっきの所に戻らなきゃ」
「やめておけ」
背後から声を掛けられ、はっと振り向きざま懐中電灯の光を向ける。
「眩しいな」
黄色いヘルメットがライトの光を反射して良く目立つ。眩しくて手で奈津の懐中電灯を遮っているのは、さっきはぐれたばかりの春人だった。
「春人さん。良かった……」
「良くない。君を追いかけるのがやっとで、俺だって帰り道が分からなくなった」
「そ……それじゃぁ」
「ああ。本格的に、遭難だ」
「そうなんだ……」
「冗談のつもりなら笑えないぞ」
いきなり両手でほっぺたを引っ張られた。「いひゃいです」と奈津は抗議する。春人はしばらく強張った表情をしていたが、やがて相好を崩し、
「とりあえず無事でよかった。今晩はここで過ごして、明日、助けを求められる場所を探そう」
「でも……日が沈むのが早くありませんか」
「この時期の日の入りは7時過ぎだ。で、今の時間は8時を過ぎたばかりだ」
「そんな……森に入って、もう4時間以上も経つんですか? 私と春人さんは、そんなに長い時間はぐれていたんですか?」
「いや。せいぜい10分ほどだろう。確かに、時間の感覚が狂ったような気がするな」
「せいぜい2時間ほどだと思っていました。こんな状況だからか……時間が経つのは早いですね」
軽口を叩いてから、自分たちが遭難していることを思い出した。春人が来たことで安心して、状況は何も変わっていないのに、ほっとしてわずかな間とはいえ自分が置かれた状況さえ忘れてしまっていたことに気付く。
「……そうだな。俺もそのくらいだと思っていた。時間の感覚がおかしく感じるのは確かだ」
「まさか……この森の中だけ時間の進み方が違うとか?」
「そんなわけ……」
――無いとは続かなかった。
「この間話した、現世と常世のことは覚えているか。今、この森の中は、俺達が知っている世界じゃないのかもしれない。時の流れだって、俺達が知らないものだとしても、不思議はないさ」
「そんな。いくらなんでも、物理法則までは変わらないでしょう。でないと、私はふわふわと宙を浮いていなければなりません。……浮いてたら、ウチがすぐに見つかっていいんですけれどね」
くくっと春人が押し殺したような声で笑う。
それから懐中電灯の明かりがリュックサックに向けられ、その中から、青っぽいレジャーシートを取り出された。地面の上に敷いたシートに腰かけるように春人に促されたので、おとなしくそれに従う。奈津が座った左隣に、春人も腰を下ろす。
「準備がいいですね」
「毛布があればいいんだが。まぁ、この時期だ。凍死することはないだろう。天気も今晩から明日にかけては崩れることはないはずだ」
500mlのペットボトルも渡された。本当に何でも出てくる魔法のリュックだ。
「1本ずつしか用意していないから大切に飲むように」
と念を押されてから、掌を広げるように言われ、奈津は右手を差し出した。その上に、缶に入ったドロップが出される。ガラガラと音を立てて出てきたのは黄色かった。口に入れると予想通りレモンの味だった。
「……すみませんでした」
ガリガリと口の中でドロップを噛み砕き、ペットボトルの水を一口含んで、飲み込んだ。水分は大切にしなければ……と、それ以上は飲まずに蓋を閉める。それから、春人の方に向き直り、謝罪の言葉を口にした。
「私が勝手に走り出したりしなければ……」
「まぁ、それはその通りだ。無事に戻ったら、妹ともども正座で説教だからな」
「覚悟します……」
本当に、沙奈と一緒に帰れたら……。何時間だって正座でも何でもする。だから、神様、どうか沙奈とまた会わせてください。どうか一緒に家に帰らせてください。日本には神様が八百万もいるそうだから、1人くらいは私のお願いを聞いてくれてもいいじゃないか、と思ってから、ここだって神社の所領だったことを思い出す。いわば神様のお膝元だ。
「……さっき言ったことの意味を教えてくれませんか?」
奈津はぽつりと尋ねた。
「さっき?」
「佐奈は……森に呼ばれていないって。春人さんが言う森と神様は同じ意味なんですか」
「そうだな……」
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