古への守(もり)

弐式

文字の大きさ
21 / 26

二十.

しおりを挟む
 足を止めた時、奈津は自分がとんでもないことをしでかしたことに気付いた。深い森の中。生を感じられない静寂の中で、奈津はたった一人になっていた。

 めくらっぽうに走ったために、自分がどうやってここに来たのかさえ分からない。目の前にも後ろにも、右にも左にも同じ景色が広がり、どちらから来たのか、どちらに向かえばよいのかさえ分からない。目印のロープの所まで戻ることができるとは思えなかった。

 変化と言えば、走る前より暗くなったこととか、周りの樹木の間隔が狭くなっていることとか。よく走っている時に頭をぶつけなかったものだと思う。

「誰か! 誰かいませんかー!」

 声を上げてみるが、当然のことながら返答はない。

 ……私はここで死ぬのだろうか。

 死を意識しながらも、どこか現実味を伴わない。今はまだ、それほど疲れていないから、死というのをそんなにリアルに感じられないのかもしれない。

 しかし、立ち止まり、戸惑っている間にも、目に見えて辺りの景色が闇に溶けていく。さすがに不安を掻き立てられ、出がけに春人から渡された懐中電灯のスイッチを入れた。

「とにかく、さっきの所に戻らなきゃ」

「やめておけ」

 背後から声を掛けられ、はっと振り向きざま懐中電灯の光を向ける。

「眩しいな」

 黄色いヘルメットがライトの光を反射して良く目立つ。眩しくて手で奈津の懐中電灯を遮っているのは、さっきはぐれたばかりの春人だった。

「春人さん。良かった……」

「良くない。君を追いかけるのがやっとで、俺だって帰り道が分からなくなった」

「そ……それじゃぁ」

「ああ。本格的に、遭難だ」

「そうなんだ……」

「冗談のつもりなら笑えないぞ」

 いきなり両手でほっぺたを引っ張られた。「いひゃいです」と奈津は抗議する。春人はしばらく強張った表情をしていたが、やがて相好を崩し、

「とりあえず無事でよかった。今晩はここで過ごして、明日、助けを求められる場所を探そう」

「でも……日が沈むのが早くありませんか」

「この時期の日の入りは7時過ぎだ。で、今の時間は8時を過ぎたばかりだ」

「そんな……森に入って、もう4時間以上も経つんですか? 私と春人さんは、そんなに長い時間はぐれていたんですか?」

「いや。せいぜい10分ほどだろう。確かに、時間の感覚が狂ったような気がするな」

「せいぜい2時間ほどだと思っていました。こんな状況だからか……時間が経つのは早いですね」

 軽口を叩いてから、自分たちが遭難していることを思い出した。春人が来たことで安心して、状況は何も変わっていないのに、ほっとしてわずかな間とはいえ自分が置かれた状況さえ忘れてしまっていたことに気付く。

「……そうだな。俺もそのくらいだと思っていた。時間の感覚がおかしく感じるのは確かだ」

「まさか……この森の中だけ時間の進み方が違うとか?」

「そんなわけ……」

 ――無いとは続かなかった。

「この間話した、現世と常世のことは覚えているか。今、この森の中は、俺達が知っている世界じゃないのかもしれない。時の流れだって、俺達が知らないものだとしても、不思議はないさ」

「そんな。いくらなんでも、物理法則までは変わらないでしょう。でないと、私はふわふわと宙を浮いていなければなりません。……浮いてたら、ウチがすぐに見つかっていいんですけれどね」

 くくっと春人が押し殺したような声で笑う。

 それから懐中電灯の明かりがリュックサックに向けられ、その中から、青っぽいレジャーシートを取り出された。地面の上に敷いたシートに腰かけるように春人に促されたので、おとなしくそれに従う。奈津が座った左隣に、春人も腰を下ろす。

「準備がいいですね」

「毛布があればいいんだが。まぁ、この時期だ。凍死することはないだろう。天気も今晩から明日にかけては崩れることはないはずだ」

 500mlのペットボトルも渡された。本当に何でも出てくる魔法のリュックだ。

「1本ずつしか用意していないから大切に飲むように」

 と念を押されてから、掌を広げるように言われ、奈津は右手を差し出した。その上に、缶に入ったドロップが出される。ガラガラと音を立てて出てきたのは黄色かった。口に入れると予想通りレモンの味だった。

「……すみませんでした」

 ガリガリと口の中でドロップを噛み砕き、ペットボトルの水を一口含んで、飲み込んだ。水分は大切にしなければ……と、それ以上は飲まずに蓋を閉める。それから、春人の方に向き直り、謝罪の言葉を口にした。

「私が勝手に走り出したりしなければ……」

「まぁ、それはその通りだ。無事に戻ったら、妹ともども正座で説教だからな」

「覚悟します……」

 本当に、沙奈と一緒に帰れたら……。何時間だって正座でも何でもする。だから、神様、どうか沙奈とまた会わせてください。どうか一緒に家に帰らせてください。日本には神様が八百万もいるそうだから、1人くらいは私のお願いを聞いてくれてもいいじゃないか、と思ってから、ここだって神社の所領だったことを思い出す。いわば神様のお膝元だ。

「……さっき言ったことの意味を教えてくれませんか?」

 奈津はぽつりと尋ねた。

「さっき?」

「佐奈は……森に呼ばれていないって。春人さんが言う森と神様は同じ意味なんですか」

「そうだな……」

     *     *     *
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

視える僕らのシェアハウス

橘しづき
ホラー
 安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。    電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。    ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。 『月乃庭 管理人 竜崎奏多』      不思議なルームシェアが、始まる。

どうしてそこにトリックアートを設置したんですか?

鞠目
ホラー
N県の某ショッピングモールには、エントランスホールやエレベーター付近など、色んなところにトリックアートが設置されている。 先日、そのトリックアートについて設置場所がおかしいものがあると聞いた私は、わかる範囲で調べてみることにした。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...