おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

17

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 怒りに任せたまま隆則の行方を捜しまわったが、どうしてもその所在を見つけることができなかった。カレンダーに書いてあった会社に問い合わせもしたが、どの企業もコンプライアンスの関係で居場所を教えてはくれなかった。

 一番仕事を引き受けていた担当者に隆則との関係を訊かれて口ごもった。

「恋人です」

 そう言いたくて、けれど自分がゲイだと負い目を持っている隆則のことだ、どんなに親しい間柄でも隠していたに違いないと、何も言えなくなって電話を切った。

 気落ちしたまま、せめてちゃんと大学には通おうと家を出ようとする足が重い。もし出かけている間に隆則が帰ってきたらと考えると一歩もこの部屋から離れたくなかったが、手紙の内容を思い出すたびに引きずるように大学に行くしかなかった。

 あの人が自分に望んでいるのはきちんと大学を出ること、希望の仕事に就くことだ。それを疎かにして「お前のせいだ」って言っても困らせてしまうだけだと分かっているからできなかった。言葉少なにいつも遥人のことを応援しているのを肌で感じていたし、資格試験の次のステップに進めるのが分かるたびにあまり見せてはくれない笑顔を浮かべて喜んでくれた。そんな彼を裏切るような行動は遥人にはできなかった。

 全く頭に入ってこない講義を受け、ゼミの教授の部屋へと向かう。ほぼほぼ学祭の準備が終わり後は当日を迎えるだけとなった今、ここに来る用は何もないが、藁にもすがりたい気持ちだったのかもしれない。誰かに聞いて欲しい、もし分かるのならあの人の気持ちを教えて欲しい。

 どうして隆則が自分から離れたのかが本当に分かっていない遥人はもう八方塞がりだった。

 一体自分の何が悪かったのか、何が足りなかったのか、どうすれば良かったのか……そしてどうしたらもう一度あの人に会えるのか。

 分からないことだらけで頭がぼんやりとしてしまう。

 これが最終の論文試験を終えた後で良かったとすら思ってしまう。

 すでに講義を終えていた教授は、今までにない遥人の様子に目を見開きながら、だが何も言わず狭い研究室の小さな机に突っ伏す遥人に常備しているコーヒーのペットボトルを差し出した。

「すみません……」

 絞り出すように礼を言うのがやっとだ。

「ここしばらく殺気立っていたけれど、今日はそのスイッチが切れたのかい?」

「……バレてました?」

 隠していたつもりだ。隆則のクライアントに電話で教えて貰えばすぐにでも居場所を教えて貰えると思っていたのに、記憶をたどって検索したどの会社も何も教えてくれなくて苛立ってしまっていたのを必死で隠していたつもりだ。特にゼミの女性陣に知られてしまったら「そら見たことか」と笑われるのは目に見えていたし、彼女たちのアドバイスがあまりにも抽象的過ぎたせいだと責任転嫁してしまいそうで怖かった。

「私で役に立てるかわからないが、悩みを聞くことくらいはできるよ。年上の彼女のことかい?」

 すでに遥人の恋人の情報が教授の耳にまで伝わっていたとは知らず、驚いて顔を上げた。コーヒーの入った紙コップを片手にデスクに凭れかかる教授の姿が、逆光のせいか酷く頼もしく映る。まもなく50歳になろうとしている教授は未だ独身で研究に心血を注いだらこの年になってっしまったと笑いながら言うほど気安い性格だが、こういう時は頼りがいのある年上の男に見えるのはなぜだろうか。

「出て、行かれました」

「一緒に住んでいたのか……君のアパートに?」

「違います、あの人名義のマンションで一緒に住んでいて……手紙一枚だけおいて最低限の荷物だけ持ち出して……」

「ほう、それはまた稀有なパターンだ。水谷君を追い出せばいいのに自分が出ていくとは」

「あの人、なんかいつも自信なさそうで……仕事はいつもスケジュールがいっぱいになるほど依頼が来るくらい凄いのに、いつも下を向いて何も教えてくれないんです……」

「そもそも、二人が知り合ったきっかけは何だ?」

 掻い摘んでた隆則との今までを話した。相手が男という部分だけ伏せてありのままに。自分がしたこと、思ったこと。頼りない隆則を囲い込みたくて自分だけを見て欲しくてしてきたことやそれをゼミの女性陣からコテンパンに非難されたことまで、何一つ隠すことなく伝えた。

「うん、それは水谷君が悪いね」

「……俺のどこがいけなかったんでしょうか」

「その人は君のペットか何かなのか?」

「違います、恋人ですっ!」

「けれど君の愛し方は人間に対するものではないね。だって君、相手のことを想ってと言いながらどこも想っていないじゃないか。自分がしたいことだけを押し付けて自己満足して終わっていないか?」

「え?」

「だってそうだろう、自分がこうしたいってことばかりを押し付けている。これなら愛せるって条件を無意識に提示して、相手を雁字搦めにして自己満足に浸っているようにしか聞こえなかった。オナニーと同じだ」

「そんなっ!」

「普通の、しかも成人した人間なら一定の自己が存在する。得手不得手があるとしても君の話じゃ35年も生きてきた立派な大人だ。確固たる意志があるはずなのにそれを押さえつけてしまっているね。君の話では自己肯定感が低いようだから、自分の気持ちよりも君の要求を受け入れて息苦しくなったのかもしれない」

「でも隆則さんは何もできなくて、俺がしてあげないとっ!」

 叫んではっとした。今まで隠し続けていた相手の性別を言わないでいるつもりが興奮して名前を出してしまった。

 教授はにやりと笑い、だが静かに目を伏せた。

「成人男性なら余計に矜持があるはずだ。まぁこれは私の想像でしかないがね。ただ一つ言えるのは、愛というのは会計学と似ていて、バランスシートは崩れてはいけないんだよ。与えるならきちんと与えられなければ互いのバランスが崩れてしまう。バランスが崩れてしまったらそれはもう会計として完成していない。恋人としての関係が成立しないんじゃないかな」

 もし愛情をバランスシートに例えるなら、与え過ぎても貰い過ぎてもいけない。対象でなければ成立しない。

 自分と隆則はどうだっただろうかと振り返って、はっとした。与えることに喜びを見出して、隆則が何をしたかったのか、遥人に何をしてやりったかったのかを気付こうとしなかった。同時に自分の理想だけを押し付けていた。自分に頼らなければ生きていけない、そんな人形のような人になれと全てを奪って勝手に与えて満足していた。

「俺……」

「思い当たる節があるみたいだね。なら改善はできる」

「……隆則さんはどうして自分から出ていったんだろう」

 そんな身勝手な相手なら教授の言うように遥人を追い出せばいい。自分勝手なことばかりして自己満足して飛べないように平気で鳥の翼を千切ろうとする相手など放り出せばいいのに、隆則が取ったのは自分が出ていく選択肢だった。

「んー、そこが面白いところだ。君にとって何が最善かをちゃんと考えている。君の夢を叶えたいが側にはいられない。だから水谷君が苦労しないよう環境を変えず自分から身を引いたとしか思えないね。随分と愛されている」

「愛されて……いるんでしょうか。最初に『好きだ』と言われてからそのあと一度も言ってくれなかったし、何も話してくれない。嫌なことがあったら言ってくれてもいいのに……」

「愛していなければ自分名義の家を君に任せてちゃんと生活費も振り込んで消えるようなことはしないだろう。しかも大学を卒業するまではいていいとまでいう。とても懐の深い相手だ、私ではできないね」

「そういう、ものなんでしょうか」

「好きだが傍にいられない、そう感じたよ。次は君が相手の愛情に応える番だ。自分勝手なやり方ではなく、きちんと話し合ってすり合わせをして、どうすれば心地よい関係になるかを模索しなさい」

「はい……でもどこにいるのかわからないです」

 隆則がどこにいるのか皆目見当もつかない。どういうところが好きなのか、遥人と出会うまでどんな場所によく行っていたのか、何も知らない。それどころか、どうしてあんなにも自信がないのかも聞いてこなかった。目の前にいた隆則には多くの苦い過去があったはずなのに、自分は目を向けようともしなかった。ただ甲斐甲斐しく世話をしている自分に満足し、他の男に身体を許したことに怒って、全てが自分のものになったと歓喜していただけだ。そこには隆則の意思はどこにもなかった。

 セックスだって辛いから頻度を減らして欲しいと乞われなければ気付かないほど、自分の欲望をただ忠実にぶつけていただけだ。受け止める隆則がどう思っているのか、遥人とするのをどう感じているのか、深く考えたことはなかった。

「……自分がこんなにも浅慮な人間だったと思わなかった」

「気付けたなら成長するだけだ。それに見つける方法はあるんだが、今の君には無理だな」

「どっ、どういう方法ですか!」

 縋りついた遥人に、教授は人の悪そうな笑みを浮かべた。嫌な予感しかしないが、隆則に会うためならなんだってしたかった。

「そうだなぁ教えて欲しかったらまずは私からの課題をクリアしてからにしようか」

「……課題?」

「当然一つではないよ。まず最初は、学祭のシフトから私を削除しなさい。平気で目上の人間を使うその根性から叩き直そうか」

 ポンと肩に手を置かれ、デスクに置いてあったシフト表をちらつかせてくる教授に、遥人は「はい」としか言えず素直に従うしかなかった。

 そして隆則に近づくための言いながら教授は様々な要求を遥人に突きつけた。

 公認会計士の試験に受かったと報告をすれば、次には某英語力テストで高得点を叩き出せと言われた。英語は必須科目だが試験で合格ラインを取るためだけの勉強しかしてこなかった遥人にとっては意外な要求だった。

「なぜそれが必要なんですか?」

「簡単に言えば、君が相手に見合った位置にいる必要性があるからだ。今までのように囲われていては嫌だろう。だったらより高みを目指さないと。それに、ただの会計事務所だとできない方法だからね」

 隆則と釣り合う人間とはどんなものなのだろうか。そして教授が考えている方法が、一般の会計事務所ではできないというのはどういうことだろうか。分からないがただひたすら隆則のためにと苦手なリーディングもスピーチも必死で鍛えた。必要な教材を買う費用は隆則から振り込んでもらっている生活費から賄っている現状を打破したいとも思い始めていた。

 今遥人が何不自由なく生活できているお金は、隆則が死にそうになりながら仕事をして得たものだ。本来なら自分のために使うはずなのに、その大半を遥人に送っている。水道も電気もガスだってタダではない。使えばそれだけ金がかかり隆則の負担になる。だから最小限にしてあまり隆則の負担にならないよう生活しながらも、彼に甘えての日々であると意識しながら勉強に打ち込んでいった。

 ちゃんと就職して稼いで、自分に使って貰った分くらいは返せるようにしなければ顔が立たない。

 教授の言うとおりだ、隆則が残してくれている優しさがなければ大学を卒業だってできない自分が一体何を驕っていたのだろうか。アルバイトをいくつも掛け持ちして過ごしていた過去に、その一瞬だけ手を差し伸べてくれた人は何人もいたが、ここまで遥人のために尽くしてくれた人はいない。当たり前なんかじゃない。

 毎月、当然のように振り込まれるのを確認する度に「あの人はまだ自分に気持ちがある」と希望を持ちながら、ひたすら勉学に打ち込んだ。同時にいつ隆則が帰ってきてもいいように家の管理も手を抜かなかった。

「もう一度隆則さんとここで生活するんだ」

 何度も自分に言い聞かせ、今彼はどこで何をしているのだろうかと隆則へと向かう気持ちを強くしていった。
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