おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

18-1

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 グーっと伸びをして首を回せばパキパキと音を鳴らすほど固まってしまった身体を軽くストレッチしながら、ようやく仕上がったシステムを見返して確認すると、いつものようにクライアントに電話で完了報告をしつつメールを送る。同時に事前に教えて貰っていたサーバーにプログラムを格納してやっと一段落したと立ち上がった。

「んー-、これでやっと眠れる」

 時間はまだ早く、陽日が天上を支配してその熱量をまき散らしている。

 なにか飲もうとテーブルの横に置いてある持ち運べるほど小さな冷蔵庫を開け、甘くミルクたっぷりのコーヒーのペットボトルを見つけてすぐに手を伸ばした。仕事で消費した糖分を補うためか、小型冷蔵庫の中にあるのは甘い飲み物ばかりだ。

 飲む端から糖分が吸収されるように元気が漲っていく。

「これでしばらくは休める!」

 引っ越しと同時に買い換えた、長時間座っていても苦にならないハイバックのパソコンチェアをくるりと回して立ち上がろうとして、隆則は一瞬にしてテンションが下がった。

「きったねー」

 今回は納期に余裕がなかったからだと言い訳しても弁当のプラスチック容器と仕様書の紙が10畳の部屋に散乱している現状は変わらない。

 相変わらず家事一切しないで生きている隆則は、食事は弁当か外食、洗濯はコインランドリーで乾燥まで任せ、スーパーよりもコンビニが友達という生活を続けている。チラリと見たベランダには指定日に出せなかったゴミ袋が山積みになっており、そろそろ隣近所からクレームが挿りそうな予感に小心者の小さな心臓が震えあがった。

 以前住んでいたマンションでいつでもゴミが出せるシステムだったにも拘らずベランダに山積みにしていた隆則である、曜日ごとに回収品目の違うゴミを指定時間まで出せずゴミ屋敷になりつつあった。

「そろそろ人間の生活をしないと……」

 この部屋に越してから時間はゆっくりなようであっという間に一年半以上も過ぎていた。カレンダーはもう六月に変わっており、間もなくやってくるであろう梅雨を前にせめてベランダのゴミ袋だけでも処理しなければならない。

「また大家さんにどやされる……」

 年配夫婦の大家は口やかましくはないが、大量に寄ってくるカラス問題で周辺の家から届くクレームに対処しきれず、あまりゴミを貯めないよう懇願されている。隆則だって迷惑をかけたいわけではないが、納期がタイトな仕事が続いてしまって昼夜どころか曜日さえ分からない状態でずっと仕事を続けてしまったので、なかなかゴミを出すタイミングが合わなくなってしまう。

「今週は人間らしい生活だ!」

 鼓舞してまずはと部屋を片付けていく。口酸っぱく言われてしまったので、ちゃんとプラスチック容器と割りばしは別々の袋に入れ、仕様書はシュレッダーにかける。脱ぎ散らかした服はランドリーバッグに入れてと、以前よりもスムーズに動けるようになった。遥人のやり方を真似てだが、以前よりも狭い部屋のおかげですぐに床は姿を現しワイパーで軽く埃を取り除く。

「これでよし! さて次は……」

 電子カレンダーで今日の日付を確認して振り込みをしなければとまたパソコンに向かおうとしてふと立ち止まった。

「もう六月か……」

 遥人は無事卒業できたのだろうか。ちゃんと資格を取れたのだろうか。なるべく彼のことを考えないようにして過ごした月日の中で、振り込みの日にはどうしてもあの時間を思い出してしまう。いつもそばにいて自分を気遣ってくれていた存在は今、どうしているだろうか、と。同時に下肢がズンと甘く痺れる。

 どうしても遥人のことを思い出すと身体が寂しくなる。

 狂ったように抱かれて温かい温もりに包まれながら眠りについた日々が未だに忘れられない。

「今頃、あの子とどうしてるのかな」

 ふんわりとした淡い色合いのトップスしか思い出せない相手と今も仲良くしているだろうか。遥人の顔は今でもはっきりと思い出すし、あの逞しい腕も節張った指も、優しく低い声音も全部忘れられずにいる隆則は、離れた日から一度も温もりを感じることなく過ごしていた。性欲が募ればあのデリヘルボーイを呼べばいいと割り切っていたはずなのに、『俺以外に触らせないでくださいね』という言葉の鎖が未だに絡みついて解けない。電話をしようと番号を出しても、通話ボタンを押せなくてはスマートフォンを放り出して彼に抱かれたことを思い出しては自分を慰めるしかなかった。

 遥人に開発され新たな性感帯となってしまった胸の粒を弄りながら、蕾の中を暴れまわる淫具で凌ぎ続けていた。

「……はぁ」

 きっともう誰かに抱かれるなんてないだろう。

 一年半も離れているのに、心の中で未だに遥人が傍にいて、散ったはずの恋の花は萎れることなくそこにある。根は心臓を余すことなく張り巡らし、他の根が忍び寄る隙間すらない状態だ。早く枯れろと除草剤を撒き続けているはずなのに、彼に愛された時間が作り出す養分があまりにも強く、未だに心を縛り続けている。

 困ったな、と思いながらも遥人との時間を思い出しては人生に訪れた僅かな幸福をじっくりと振り返っては何度も噛み締める。それだけで幸せは蘇り、再び養分として茎を太くしていく。

 結局、隆則は遥人を忘れられないまま時間だけが過ぎ去っていった。

 今月も念のために送金したほうがいいのだろうか。

 もしかしたら資格試験に落ちているかもしれないし、単位を落としてしまっているかもしれない。そう心配するフリをして本当は最後に残った繋がりを断ち切れないでいた。そんなに心配なら一度だけでもマンションに行って様子を見ればいいのだが、その勇気すら隆則にはなかった。もしまだ遥人がいたなら、また恋の花が蕾を膨らましそうで怖くなる。

 けれどいい加減どこかで区切りを付けなければとも思う。繋がって嬉しいのは隆則だけで、もしかしたら遥人にとっては迷惑かもしれない。

 未だあの部屋にいるかどうか管理会社に確認してもらう方法もあるが、すでに誰も住んでいないとなったら、それはそれで寂しくなってしまう。どの方法も怖くて、ひたすら現状を維持しているしかなかった。

「考えるのはやめよう。今はとにかくゴミをちゃんとしないと」

 ベランダに置いてあるゴミを品目別に分けようとしたとき、スマートフォンが鳴った。しかもそのメロディは無茶ばかりを押し付けてくる元後輩のからの連絡を示している。

「げっ」

 画面に表示されているのは元後輩の番号で、メールではなく電話をしてくるということは絶対に無理難題に決まっている。

 せっかく仕事が終わったばかりだというのに……。だが無視などできない隆則はため息をつきながら通話ボタンを押した。

『あ、五十嵐さんやっと出た!』

「……今度はなんだよ」

 名乗りもしない相手にぞんざいな対応をする。

『明日って時間ありますか? ちょっと凄いところからうちにシステムの依頼があったんですけど、プログラマーは五十嵐さんを指名しているんですよ』

「……なんだそれ?」

 IT業界ではそこそこ知名度はあるが、一般的に隆則のことを知っている人間は少ない。後輩のところに入ってきたということはITとは別の業種だろうが、フリーのプログラマーをわざわざ指名するなど初めてだ。

『こっちもよく分かってないんですけど、明日ヒアリングに行くんですよ。で、五十嵐さんにも立ち会って欲しいって言われてるんです』

「そこ、本当に大丈夫なのか?」

『外資ですけど名前が通った会社ですから。ここ獲得できたら何人かうちの人間常駐させることできるんで、協力お願いします!』

 常駐ということは継続的な契約になるから後輩や会社にとっては美味しい相手なのだろう。

『もしかして今、デスマ中っすか?』

「いや納品したばっか……あっ」

『やった! では明日の16時から打ち合わせがありますんで! 場所はですね……』

 相変わらず強引に一方的に話が進められ、クレームを言うより先に場所をメモしてしまう。変わらず押しに弱い隆則は諾の返事もしないまま新しい仕事に就くことになってしまった。言いたいことだけ言って切れた電話相手に「今度会ったら覚えてろよ」と呟きながら、着ていく服がないことに気づいた。この一年ずっと服なんか買っていなくて、下着だって何日も同じものを履き続けるような生活だ。

「あー……とりあえず風呂入るか」

 明日の夕方から打ち合わせなら、これからコインランドリーに行って洗った服を身に着け、早めに家を出て新しいのを買ってから出席すればいいかと予定を立てていく。

 クライアントの前に出るためのきちんとした服が一枚もない。就職活動で着ていたスーツなどもうとうの昔にカビが生え廃棄してしまった。

「外資系って言ってたな……普段着じゃさすがに辛いよな」

 プログラマーの隆則が客前に出ることは稀だ。普通は営業とSEがクライアントの要望をヒアリングして仕様書を作り、それに則ってプログラムを作成していく。プログラマーが分業して作ることもあるし一人で作ることもあるが、人前に出なくていいのが楽でSEになるのを拒んでいた隆則にとって、初めて会う人との打ち合わせは何を話していいのかわからないし、どんな格好が正解なのかも理解できない。

「とりあえずスーツとネクタイでいけばなんとかなるか」

 次に着る機会があるかわからないが、無駄に緊張が募る。

 相手に失礼のないよう、元後輩が困らないよう、とりあえず店に入れるようにとさっぱりした身体でコインランドリーに向かい、なんとか店に入れる条件を整えた隆則は、紳士服量販店で店員に捕まり、つま先から頭のてっぺんまで一式揃えさせられた。

(やっぱり店なんか怖くていやだ! 服は通販が一番だ!)

 話しかけられておどおどとまともに対応できなかった自分のコミュニケーション能力のなさに心の中で泣きながら、指定された場所へと向かう。高層ビルの中腹階にある受付に向かうとすでに元後輩がそこにいた。

「五十嵐さん来てくれた……良かった。コミュ障だから来ないかもと思ってましたよ」

「今度なんか驕れ」

「なんでも驕ります、ファミレスでいいですか?」

「……もう少し高価なものはないのか?」

 元後輩もスーツ姿であったことにほっとして気が緩む。時間五分前にテーブルの上にある電話で担当部署にかけ、中のオープンな商談ブースへと案内される。
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