おじさんの恋

椎名サクラ

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本編1

18-2

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 席に着いてから小声で確認した。

「ところでここ、どんな会社なんだ?」

「すんません、言ってなかったですか俺。外資系の会計事務所なんですよ、ここ。国内外でも有名な監査法人ってヤツらしくて、先方から連絡をもらったのでこれ以上分かってません」

 もっと調べておけと突っ込むところをスルーしてしまったのは『会計事務所』という言葉にドキリとしたせいだ。遥人が目指していた公認会計士が目指している場所だというだけでどうしてか泣きたくなった。今頃彼も、どこかの会計事務所に入って頑張っているだろうか。新卒採用ならもう二ヶ月が経ち、そろそろ仕事の雰囲気に慣れた頃だろうか。それとも……と考えてのめり込む前に慌てて消し去る。

 彼のことを考えるといつも辛い気持ちになる。自分から逃げ出したくせに心が伴わない。

 けれど今は仕事に集中だと何度も深呼吸をして気持ちを切り替える。元後輩はそんな隆則の行動を緊張しているだけだと捉えてなんとか落ち着かせようと話しかけてくれた。あまり長く待たされることなく担当者がやってきた。隆則とそう変わらない年齢だと思われる担当者と名刺を交換し、席に再度つくと仕事の話が始まった。隆則は持ってきたノートパソコンに慣れた手つきで内容を打ち込んでいく。

 どうやら勤怠や顧客の情報を一括管理できる独自システムを求めている。担当会計士が今まで個々にやっていた内容を可視化できるようにしたいが、有名なソフトウェアだとすぐにハッキングされるのではないかと危惧して独自のシステムを構築したいため、一から開発してくれる会社を探していたという。

(まぁ大きな会社だとよくあることだな)

 そう思いながらも、どこか違和感を覚えてしまうのはなぜだろうか。チラリと担当者を見ても、隆則に興味がないようで全く視線が合わない。

(なんでここで俺を指名したんだ?)

 疑問を抱きながらとにかく必要事項を打ち込んでいく。

「遅くなって申し訳ございません」

 大まかな説明の途中でブースに新たな声が入り、隆則は肩を震わせると同時に顔を上げた。

 低いのによく通る声。忘れるはずがない。

「前の予定が押してしまって、すみませんでした」

 元後輩が慌てて席を立ち、名刺交換の姿勢に入る。その様子をぼんやりと見つめながら唇が戦慄くのを感じたが動くことができない。

「五十嵐さんっ!」

 元後輩に肩を叩かれてから慌てて席を立つ。

「いっ……五十嵐です」

「水谷です、よろしくお願いします」

 交換した名刺には『アシスタント 水谷遥人』の文字が印字されている。

「この水谷が今回の窓口となります。申し訳ないです、すぐに出かけなければならないので続きは水谷からお伝えします。じゃあ後は任せた」

 担当者はポンと遥人の肩を叩くとそそくさとその場を離れた。

「概要はどこまでお伝えしてますか?」

「顧客情報と進捗の可視化のあたりです」

「ありがとうございます。では説明を続けさせていただきます」

 遥人がどんどんと内容を伝えていくが、隆則はそれに合わせて頭がぐちゃぐちゃになりタイプできなくなった。

 なぜ、という疑問が解消できないまま時間だけが過ぎていく。

「以上が今回お願いするシステムの内容となります。いかがでしょうか」

「一度、社に持ち帰って仕様書と見積もりをお出しいたします」

「助かります。個人的な要望ですが、システムは五十嵐さんに開発をお願いしたいと考えています」

「あの、なぜ五十嵐を希望されているかを伺っても」

 元後輩もずっと不思議に思っていただろう。隆則の名前など会計士が知りうるわけがないし、クライアントからプログラマーの指名など前代未聞だ。

「五十嵐さんとは知己で、彼の仕事ぶりは存じてます」

「あっ、そういうことなんですね。びっくりしましたよ」

 二人の間で朗らかな空気が漂い始めるが、隆則はとてもその中に入り込むことができず、硬い表情のままただ遥人の視線から逃げることしかできなかった。しかも時折、責めるような視線が隆則に向かってくるのは気のせいだろうか。気のせいにしたいが怖くてしっかりとその表情を見ることができない。怯えて震える心を隠しながらひたすら会話が終わるのを待っているが、着なれないスーツがより一層窮屈で逃げ出したくなる。ここから逃げたい。自分しかいないあの場所へと逃げ込んで、忘れてしまいたい。

 また期待するのは嫌だ。

 遥人が自分を好きなのだと、興味を覚えているのだと想像するのが苦しい。

 ただ会社のために自分が知っている人間を招いただけ、そうあって欲しいと願いながら早く終われと祈り続ける。

 元後輩は共通話題が存在することになにかを感じているのか無駄に長引かせようとしているし、遥人も笑顔で受け答えをしては時折隆則を見つめてくる。

「では三日後にメールでご連絡いたします」

「お待ちしてます」

 二人の会話が終わった合図に早々とパソコンを鞄にしまおうとした隆則の腕を、あの大きな手が掴んだ。

 ビクッと身体を震わせ恐る恐る見上げれば、最後に会った時よりもずっと大人びた雰囲気の遥人としっかりと目が合う。学生の頃には身に着けていなかった黒縁の眼鏡に短くなった髪。いかにも仕事のできる男を演出した容姿は自分が知っている遥人とは違い過ぎて逆に怖くなった。なぜ自分を掴むのかも分からないが、蛇に睨まれた蛙のように微動もできなくなる。

「五十嵐さん、この後少し時間をいただけますか? 久しぶりですしゆっくり食事をしながら話をしましょう」

 優しい声音なのに、レンズ越しの目は笑っていない。むしろこのまま隆則を食い潰そうとするかのような獰猛さを孕んでいる。

「ぁ……」

「支度をしてきますのでここで待っていてください。すみません、この後五十嵐さんをお借りします」

「わかりました。では自分はここで失礼します。今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ご足労いただきありがとうございます」

 早々と元後輩を笑顔で追い出す遥人に、元後輩も気にしまいとしているのか隆則に「明日連絡をします」とだけ言いおいてブースから出ていった。

「まっ待て!」

 伸ばした手をまた遥人に掴まれる。

「待っていてくれますよね……隆則さん」

 恐ろしいまでに低い声に喉が硬くなりすぎて開いた口から空気を漏らすことすらできなくなった隆則は小さく頷くことしかできなかった。それだけで満足したのか今まで厳しかった視線がふわりと和らいで隆則の知っている遥人の物へと戻る。

「すぐに戻ります」

 デスクの上に出した資料やパソコンを素早く片付けて颯爽とブースを出ていくワイシャツを纏った後ろ姿は別人のようで、あの頃の遥人はもういないのだと知らしめるようでもあった。シャツ越しにでも逞しさが透けて見えるが、以前よりもわずかに細くなったような気がする。

(大丈夫……大丈夫だ、ただ食事をするだけ……何も起きない)

 期待しないよう自分に言い聞かせて、いつ遥人が戻ってくるかわからないからと慌ててパソコンを片付ける。着てきた服も詰め込んだ鞄は異様に膨らんでいてみっともなくて、どうにか細くならないかと何度も形を変えるために左右を叩いて整えようと無駄な行動をするのは、動揺しすぎて余裕がないから。雰囲気の変わった遥人にあれから時間が止まったかのように変わらない自分が恥ずかしい。

 今日だってスーツを買わなければ着古したアイロンもかかっていないシャツにチノパンというラフな格好で幻滅されたことだろう。

(服、買っておいてよかった)

 これ以上彼に嫌われたくないと思ってしまうのは、まだ好きだからだ。

 離れてもう一年以上も経つのに、心までもがあの時から止まってちっとも整理がついていない。仕事を必死で詰め込んで忘れる努力をしたはずなのに、あの瞬間から何一つ成長していない自分がいるだけだ。心も身体も。

 未だ彼に恋をしたまま枯れずに根を張り続ける遥人への想いを抜き取れないでいる。

 根こそぎ抜いてしまったなら今、これほどまでに動揺しないだろう。むしろ立派になった彼の成長を喜び笑顔で声を交わせた。

(なんでこんなにも俺って駄目なんだろう)

 期待しない、絶対に期待なんかするなと自分に強く言い聞かせていると、言葉通り最短で戻ってきたのだろう淡い色の上着を羽織って手には薄いカバンが握られている。まもなく梅雨に入ろうとしている気候に見合ったさわやかさを醸し出す遥人に反して、打ち合わせと事前に伝えたせいで重い色を纏って重いカバンを肩に下げる自分とは酷く不釣り合いだ。

(もともと遥人は格好良かったからな、釣り合ってなくて当然だ)

 自分を納得させ何とかいつもの自分を取り戻そうと必死になる。誰にも愛されず恋人なんて夢のまた夢、一人で薄暗い部屋の中を静かにキーボードの音だけ鳴らしてひっそりと生きていく、そんな自分に早く戻れ。一時の奇跡にしがみ付くのではなく、ありのままの現状を見つめろ。どう考えたって遥人の隣に自分は相応しくない。きっと彼も分かっているはずだ。今はきっとあの子と幸せな日々を過ごしているはずなんだから。

 そう何度も自分の心に訴えかける。

「では行きましょうか」

「ぅん……」

 俯けばずっと切っていない前髪が視界から彼を隠し、綺麗に磨き抜かれた靴だけを目で追って後に着く。

 先導する遥人の足を追い続けビルを出るとその足が止まった。右足はまっすぐ前を向いているが左足は横になっている。

 どうしたのだろうかと顔を上げればこちらを振り向く遥人の肩があった。

「……はぁ」

 ため息にまたビクついた。日が長くなった季節の沈みゆく太陽が照らすビル街にあって、隆則はどこまでも異質だろう。いくらお仕着せのようなスーツを身に着けていても浮いている実感はある。誰もがスーツを身に着け格好よく闊歩する街の中の異物を、遥人も違和感を持って見ているに違いない。
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