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10~18
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10
昼過ぎ。力強い夏の日差しが、アスファルトを熱し上げる。
田舎道を古びたバスが走って来る。
バスの乗客は姉妹の二人だけ。空いてる座席は多いが、姉妹は隣り合って座っている。
鈴菜、頬杖をしながら窓の外を眺めている。その隣では祐美が鈴菜にもたれかかって眠っている。
「人間が少ないっていいなぁ」
眠っている祐美を見て、
「のんきな奴」
再び外を見る鈴菜。こうやってしゃべらない限りは妹も可愛いのにと思う。
車窓から見える景色。
田畑と山の緑が、流れていく。
「懐かしいなぁ。」
やがて停留所にバスが止まる。
バスが走り出すと姉妹が下りている。
「さあ、歩くよ」
「眠いよ」
「あんたずっと寝てたでしょ」
妹の手を引いて、停留所を離れる。
道の両側には田んぼが広がり、山の稜線がほど近くに見える。山の裾野からやけに緑の濃い森が広がっている。それはもう緑と言うより黒い。
周りを緑の森に囲まれているせいで、その違いは顕著だった。
「なんだろう?」
「お姉ちゃん。あそこ焦げてるの?」
「バカね。焦げてたら木なんか生えないでしょ」
鈴菜は祖母の顔を思い出す。すると、黒い森という話を思い出す。
縁側で祖母の傍らで寝転ぶ幼い鈴菜。
「黒い森にはね、口笛の嫌いなバケモノがいるのよ」
「あたし口笛できないよ。バケモモに食べられちゃう?」
「うふふ。ば、け、も、のよ。そうね。そうしたら、黒い森には入っちゃいけないわね」
「バケモモがいるから?」
「そう。口笛を吹けるようになった大人も、夜には吹かないようにしているからね」
「どうして?」
「夜になると黒い森が広がるからよ」
「じゃあ、おうちの明かりをつけておけば良いじゃない」
「そうね。でも、夜は決して明かりで染められないのよ。人間がどれだけ夜を明るくしても、夜は夜なの」
「よくわかんない」
「ふふふ。じゃあ、口笛の練習でもしましょうか。でも、夜に吹くのはダメよ」
現在の田舎道を祐美の手を握りながら、口笛を吹きながら歩き出す。
祐美もマネをして口笛を吹こうとするが、ヒューヒューという音しか聞こえてこない。
やがて、むくれてやめてしまう。
しばらく行くと祖母の家が見えてきた。古い民家でからぶき屋根に穴が開いているところがいくつかある。窓ガラスも障子も数枚破れており、板やダンボールが張ってある。中を見ると畳がところどころむしれている。
鈴菜と祐美が玄関に並んで立つ。声を合わせて中に声をかける。
「こんにちわー」
奥から伯母がやってくる。笑顔も見せずに祐美を見て、あからさまに嫌な顔をする。
「遅かったわね」
「すみません」
「子供だけ寄こすって、どういう神経してるんだか。しかも、こんな使えない小さな子まで連れて来て」
伯母は、身動きしない二人を見て、ため息をつく。
「いつまでそこにいる気? 靴を脱いで上がったらどうなの」
「あ、はい」
慌てて靴を脱ぐ。佑美もそれを真似する。
祖母とよく座っていた縁側を通る。
色あせ朽ちかけた縁側。それでなんとなく気がついた。
「おばあちゃんは、ずっと一人だったんだ」
奥の四畳半の和室の畳は、ホコリだらけでところどころむしれていた。
「ここあなたたちの部屋ね。掃除は勝手にして。荷物を置いたら、すぐに広間に来なさい」
そう言って捨て伯母は去っていった。
「私、あのオバサン嫌い」
「文句言ってないで、あとでここ掃除しよ」
11
広間を目の前にして鈴菜は柄の長い箒を持ち立ち尽くしていた。目の前には、くもの巣、ホコリで覆われた無残な部屋が広がっている。鈴菜の後ろで、伯母が腕組みをしながら見張っている。
「じゃあ、ここの掃除をして頂戴。成績優秀なお嬢様にこんなことをお頼みするのは気が引けちゃうんだけど、これも社会勉強だと思ってきっちりとやって欲しいのよね。私なんかがまだ学生だった頃は、こんなこと人に言われる前に、私がやりますって言うのが常識だったもんだけど、今はほら、時代が違うものね? 言われなきゃやらないんでしょ? 今の若い子って。でも、あなたは言われてもやらないのかしら?」
「わかりました!」
鈴菜は、箒を思い切り振り払う。あたりにホコリが舞い上がり、伯母と鈴菜を襲う。
埃で白くなる二人。
「もう! 何やってるのよ!」
伯母は肩を怒らせながら、その場から走り去っていった。鈴菜は軽く咳き込みながら見送る。
「伯母さんのところには、子供はいないって言うけど、あんな人の子供じゃ、大変だろうな」
箒を握りなおし、静かに掃いていく。その手がふと止まる。
「同じような子供だったりして」
噴出す鈴菜。
「あーあ」
鈴菜は、ふと広間の奥のふすまを見る。
鈴菜がふすまを開くと、そこは祖母が眠る部屋だった。鈴菜は居間の中に入っていく。
居間の奥に棺おけが置かれ、花が飾られていた。写真の祖母はひどく事務的な笑顔を見せていた。
鈴菜は、棺おけの小窓を開く。中に祖母が横たわっている。
鈴菜は:祖母の遺体を見る。
「本当に死んじゃったんだね。あたし、おばあちゃんとずっとここにいればよかったな……」
祖母の顔に触れる鈴菜。
祖母との思い出が頭の中をよぎる。
縁側にいるのは、幼い頃の鈴菜と祖母。
祖母が歌っている。
「黒い森には入ってはいけないよ 帰れなくなっちまう
黒い森では口笛を吹いてはいけないよ バケモノに取られちまう
黒い森では嘘をついてはいけないよ 嘘もみーんな取られちまう
黒い森では生きていてはいけないよ バケモノに殺されちまう」
「どうして?」
「古い古いお話さ。黒い森に迷い込むと黒いおっかないバケモノに襲われて、食べられちゃうのさ。そうして死んだ後も黒い森に閉じ込められて、ずーっと出られなくなってしまうんだと」
「鈴、嘘つかないから大丈夫だよね?」
「どうかしら? そういえば、昔偉いお坊さんが、黒いバケモノを大きな岩に閉じ込めたって言うけど、あら? どうだったかしら。確かその岩の前で口笛を吹き続けて、朝になる前に口笛が途切れてバケモノを退治することが……」
何か、騒がしい音が祖母の声をさえぎった。
「サボってるんじゃないよ! 時間がないんだからね!」
遠くから声が聞こえる。
「広間の掃除が終わったら、こっちに来て頂戴! サボってるヒマなんかヒマなんか無いんだから」
鈴菜は現実に引き戻される。
鈴菜はここぞとばかりに執拗に伯母にいびられる。
「あんたそんなことも出来ないの?」
箒で畳を掃いては言われ、
「あんたそんなことも出来ないの?」
床を雑巾で拭いても言われ、
「あんたそんなことも出来ないの?」
天井のクモの巣をハタキではらっても言われ、
「あんたそんなことも出来ないの?」
お茶碗を洗う時にも言われる。
そして、とうとう鈴菜は爆発する。
「もう嫌!」
掃除道具を投げ捨て家を飛び出す。
「なんでここまで言われなきゃならないのよ! もう、うんざり。そんなに人の仕事が気になるなら自分でやればいいじゃないの! ずっと張り付いて指図ばかりして何様のつもりよ!」
12
山道に走り込んでいく鈴菜。
「もういや! もういや! 学校も塾も家も、あたしの居場所なんてないもの!あたしは世界から嫌われてるのよ! 何であたしがこんな目に合わなきゃ行けないのよ! 空き地だって、あたしだけの場所だったのに……。もう、岩井和也のバカ!」
じっと右手に広がる森を見る。鈴菜は意を決して森の中に入って行く。
振り返らずに森を進んでいく。徐々に緑から黒に変わって行く森。
少し開けた辺りに座り込む鈴菜。こぼれ落ちる涙を隠すように膝を抱え、頭をうずめる。
「このままここで死んじゃいたい。そうしたら何もかも楽になって、あたしは幸せになれるのに」
近づいて来る足音に顔を上げる。
立ち上がり、周囲を見回す。周りには誰もいない。
再び振り返ると、鈴菜の祖母が立っている。
「鈴ちゃん」
「おばあちゃん?」
鈴菜は祖母に近づいていく。
「おばあちゃん? なんで?」
びっくりした顔の鈴菜に祖母が話かける。
「鈴ちゃんは、いつも泣いているね」
「おばあちゃん、生きてるの?」
祖母は首を横に振る。
「誰かにいじめられたのかい?」
「あたしには居場所がないのよ。だからみんなが追い出そうとするの。それだけ」
「それはいけないね」
「そうでしょ? おばあちゃんもそう思うでしょ?」
祖母は鈴菜を見つめる。
「いけないのは、鈴ちゃんのほうよ」
「え?」
鈴菜は祖母に詰め寄る。どうして昔みたいに優しくしてくれないのかと。
「なんであたしが悪いのよ」
「ここは自分の場所じゃないって決めつけているじゃないの。そんな人を、仲間として扱えるほど人間はうまく出来てないのよ」
「じゃあ、どうすれば良かったって言うの?」
「人間なんてね、自分がいる所が居場所なのよ」
「違うわよ!」
「何が違うの?」
「あたしは、みんなから無視をされるために生まれて来たんじゃない! あたしには、あたしを必要とする居場所があるはずよ!」
「でも、もしそこでうまくいかなかったら、そこは自分の場所じゃないってまた言うのかい?」
「それは……」
「いつでも元気な人なんていないように、いつもうまくいく人もいないのよ。誰もが苦しむ時があるの」
「でも、こんなのひどいじゃない! 不公平すぎるわよ」
「人間はね、決して平等にはなれないのよ。でも、苦しんで他人により辛くあたるより、その分、他人に優しくなれたらステキじゃないの」
「そんなのおかしいわよ。人にひどいことをされたら、別の誰かに優しくなんてなれるわけが無いわ」
「自分に与えられるものは不平等でも、自分からあげられる気持ちは平等に出来るでしょう?」
「あたしが間違ってるっていうの?」
「間違ってる間違ってないの話じゃないわ。人間の世の中っていうのはね、そんなにキレイなものじゃないのよ。だからこそ大切にしなきゃならないものがあるの」
「大切なもの? 何よ?」
「自分よ」
「え? そんなの当たり前じゃない」
「当たり前だけど、それは難しいのよ。今の鈴ちゃんは自分を大事にしてるようには見えないけどねぇ」
「そんなこと……」
「死にたいだなんて、心が死んでいる証拠よ」
「それは……」
「だけど、それは助けを求めてることでもあるの。助けて、助けてって心が叫んでいるのよ」
「助け?」
祖母はゆっくりとうなづく。
「ここはあの世に近い所よ。黒い森があるからね」
「ここが黒い森。覚えてるわ。口笛を吹いちゃいけないんでしょ?」
祖母は笑いながらため息をつく。
「まったく。おばあちゃんの話をいい加減に聞いているんだから。口笛を吹いちゃいけないのは、夜よ。夜は黒いバケモノの動く範囲が広がるからね。黒い森に迷い込んだら、口笛だけが頼りよ。決して忘れないでね」
「大丈夫。そんな所には行かないから」
「もし黒い森の中に迷い込んで死んだりしたら、あっちから出て行くことは出来ないのだからね」
「行かないって」
「黒い森は、死を呼び寄せるのよ」
祖母は鈴菜の足元を指差す。
鈴菜の足元から奥側が徐々に黒くなっている。飛び退く鈴菜。
「ここは、もう入り口よ。心配して見にきて良かったわ」
「でも、あたしには帰る場所なんかない。どこにいてもみんながあたしをいらないって言うもの。死んでもいいのよ」
「誰もがみんな自分だけの場所を求めるものよ。でもね、そうやって探しながら生きるのが人間なのよ」
「自分の場所なんて無いの? おばあちゃんは見つけたの?」
祖母は笑顔を見せる。
「ええ」
「死んだから?」
祖母は声を出して笑った。
「いいえ。生きているうちに見つけることが出来たわ」
「教えて、おばあちゃんの居場所って何だったの?」
「おじいちゃんの家で暮らすことよ」
「そんなこと? 本当にそんなことが、おばあちゃんの居場所だって言うの?」
「まあ、おばあちゃんの生き方をバカにして。私にはね、それが一番だったのよ」
「幸せだった?」
祖母はうっすらと笑みを浮かべる。
「ほら、急がないと夜になるわよ」
黒い森に背を向けて歩き出す二人。しばらく歩くと祖母の姿は消えており、鈴菜は一人で山道を降りていた。
13
外はすっかり暗くなってしまった。祐美が畳に寝転がりながら、口笛を吹く練習をしている。
明かりの届かない暗闇が揺れ動く。口笛が止む度に寄り集まって行く。
いつのまにか部屋の隅に黒い人影が立っている。
人の気配に気がつく祐美。
「お姉ちゃん? 帰ったの?」
人影はしゃべらない。木々の葉が揺れるような、ノイズのような音がするだけだった。それでも佑美の耳には言葉として届いているようだった。
「……(お、ねえ、ちゃん、よ)」
「何?」
「……(どうしたの?)」
「どうしたの? じゃないわよ。みんな、お姉ちゃんを捜して大変だったのよ!」
「……(大変だった?)」
「お父さんたちもすぐ来るって。まぁ、何にしても良かったわ」
「……(良かった?)」
「もう!あの伯母さんの手伝いするの本当に大変なんだから、キライよあの伯母さん」
「……(じゃあ、行かない?)」
「どこへ?」
「……(嫌な人のいない所)」
「外はもう暗いわよ」
「……(まだ大丈夫。行こう)」
「……うん」
祐美が手を伸ばすと黒い影が彼女を包み込む。そして、佑美は何かに手を引かれるようにそのまま暗くなった外に向かって歩いていく。
14
緑の森の中を鈴菜が歩いている。その側に祖母が再び現れる。
「辛いことを感じられれば、幸せもその分大きくなるわよ」
「幸せなんて、感じないわ」
「それは、なんて不幸なことなのかしらね」
「おばあちゃん、これからどこに行くの?」
「わからないわ」
「一緒に行ってもいい?」
「あなたが来るのは、まだまだ先よ」
「でも、私、学校でみんなに無視されてて、この世にいないのと同じように扱われてるのよ」
「何言ってるの。おばあちゃんなんか実の息子二人から無視されても生きていたわよ」
「おばあちゃんみたいに強くないもん」
「辛い思い出をいい思い出に変えられる人が、本当の幸せな人だと思うのよ。鈴ちゃんはそんな生き方ができると思うわ」
「無理よ」
「夜が深くなってきたわね。これ以上ここにいると、黒い怪物にさらわれちゃうわよ」
「森の外で夜に口笛を吹いちゃいけないよ。あいつに狙われるからね」
森の切れる辺りで、祖母はもう一度、鈴菜に注意をした。
「うん」
森から出る鈴菜。振り返り祖母を見る。
「どうしたの?」
「死んだからさ。死んだ人間は、森から出られないって約束なのよ」
「じゃあ、お別れなの?」
「そうね」
「もう少し一緒にいてもいい?」
「ダメよ。黒い森が広がって来るからね」
「口笛が吹ければ大丈夫なんでしょ?」
「無理に黒い森を刺激してはいけないわ。それに寝ないで朝まで吹き続けるなんて無理でしょう?」
「そうか、そうよね」
祖母は森の外を指差す。鈴菜、つられるようにそっちを見る。
「村はあっちよ」
「おばあちゃん」
振り返った先には、誰もいなかった。
森を離れて行く鈴菜の視界の隅に何かを手を引かれた妹の姿が見えた。驚いてそちらに顔を再び向けるとそこには森が広がるだけだった。
「祐美? まさかね……」
15
懐中電灯が、ゆらゆら揺れて漁り火のよう。
大人たちが話をしている。
「杉野さんのとこのお孫さんだってよ」
「どこの子だ?」
「森にさらわれたんじゃないのか?」
「あんなの昔話じゃないか」
鈴菜の姿を見つけて、大人の一人が駆け寄ってくる。鈴菜は驚いて身をすくませる。
「君、杉野さんのとこの孫かい?」
「え? あ、はい」
「良かった。いたぞ」
大人たちが集まってくる。あっという間に取り囲まれる鈴菜。
「あの、どうしたんですか?」
「なんだ? 本人はまったくしらねぇのか?」
「人騒がせな子だなぁ。森にさらわれたのかと思ったぞ」
「昔話だって言ったろうが」
大人たちが安堵する一方で、鈴菜は不安を感じ始めていた。
「森にさらわれるって?」
「古い話だ。夜に口笛を吹くと黒いバケモノがやってきて、良い物やるからついて来いって人をさらっていくんだ」
「口笛が嫌いなくせに口笛吹くと寄ってくるだなんて、なんつう天邪鬼だかな」
大人たちは笑う。
鈴菜の脳裏に、森に入っていく妹の姿がよぎる。
突然、走り出す鈴菜。
「なんだぁ? 都会の子は礼儀も知らねえんだなぁ」
16
鈴菜が走って帰って来る。
「子供がいなくなったって?」
伯母が不機嫌そうな顔をしている。
「あんたのことよ! 恥をかかせないでよね!」
鈴菜、祐美を探し回る。
台所。いない。
奥の部屋、いない。
居間にもいない。
縁側に履物がある。
トイレも見るがいない。
「変よ」
もう一度、縁側の履物を見る。伯母がうんざり顔でやってくる。
「手伝いを投げ出して、こんな時間までどこで遊んでたのよ」
「祐美! 祐美、どこ? いないの?」
「まったく姉妹そろって出来損ないなんだから」
「子供がいないからって、私たちに八つ当たりしないで!」
「な、なんですって!」
飛び掛ってきそうな勢いの伯母を無視して、鈴菜は縁側から外に飛び出す。履物を履くのも忘れている。
夜の村は静まり返っている。
田舎の夜は暗さが都会の何倍も深い。
「森だ」
鈴菜はその中に走り出す。
伯母が背中の方でわめいているが、鈴菜を引き止めることはできなかった。
17
鈴菜は森の中を走りながら妹に呼びかける。
「祐美! 祐美ー!」
何度も足を取られながら鈴菜は森の奥へと進んでいく。
「鈴ちゃん。ここに来てはいけないって言ったのに」
肩で息をしている鈴菜の後ろから、祖母が現れる。
「おばあちゃん。祐美を見なかった?」
「祐美ちゃん? そういえばさっき子供が森のバケモノに連れて行かれたわね」
「どっちに行ったかわかる?」
「どうする気?」
「追いかけて返してもらうわ」
「無理よ。話なんか通じるわけが無いわ」
「じゃあ、口笛を吹くわ」
「やめなさい。あなたまで狙われちゃうじゃないの」
「だけど、このままじゃ祐美が」
「大事なの?」
「わかんない」
「自分を大事にしなさい」
「でも、こんなの自分を大事にしたことにならないよ。ケンカもするけど、憎たらしい妹だけど、いなくなったら悲しいもん」
にっこりと笑う祖母。
「そう。そういう気持ちなら、おばあちゃんが助けてあげてもいいわ」
「どうするの?」
「黒い森へ行きましょう」
「でも、そんなことしたら……」
「死んでいる人のことなんて心配しないで。それから、おばあちゃんが合図をしたら口笛を思いっきり吹いて頂戴ね」
「わかった」
「こっちよ」
祖母の霊に導かれるように鈴菜は黒い森へ向かう。
18
手入れが行き届いているのに、明るくなく、緑のない白と黒の影絵のような森。
影が落ちない。遠近感もない。
「何ここ……。何か変な感じがする」
「早く祐美ちゃんを探しましょう」
「見つけてもバケモノがいたらどうするの?」
「それはね、二人で同時に口笛を吹くのよ。そうするとバケモノはどっちの音なのかわからなくなって消えてしまうのよ」
「何だやっつけられるんじゃない」
「それは難しいかもね」
「どうして?」
「普通の人間にはそこまで長く口笛を吹くことなんて出来ないでしょう?」
「そっか」
黒い森の中を進んでいく二人。
木々に避けられるように広場があった。
その周りでは白い人影たちが石を積み上げている。しかし、石は積み上がることなく、他の霊によって石は奪われてしまう。しかし、奪われたことに気がつかずに、別の例の積んだ石を再び拾いに行く。
「何をしているのかしら?」
「バケモノに騙されているんだろうね。あそこ! あそこを見てごらん」
広場の中央には、大きな岩がそびえ立っている。
その側に一人祐美がぼーっと立っている。
「祐美!」
「待って鈴ちゃん」
「何?」
「バケモノがいないかよく見て」
鈴菜たちは広場を見回す。バケモノと呼ばれるようなものの姿は無い。
見れば祐美は岩に話しかけている。
「何してるのかしら?」
「バケモノに化かされているんだね」
「叩けば正気に戻るんじゃない?」
「まあ、乱暴だねぇ。とにかく行って見ましょう」
「バケモノはいないの?」
「ほとんどの場合、夜は森の外を出歩いてるのよ。口笛を吹く人間を探しにね。昔話では、そうだったわ」
「退治できないの?」
「昔、お坊さんが朝まで口笛を吹き続けたって言うけど、それも失敗だったようね」
祐美の側に近づいていく二人。
「祐美、祐美」
妹の体をゆすって起こそうとする。
寝ぼけたような祐美に平手打ちをする。
「あぁ、おねえちゃん」
黒い森がざわつき始める。
風が吹いていないのに、木々のざわめく音が聞こえてくる。祖母の顔は緊張している。
「さあ、急いでここを離れましょう」
「うん」
妹の手を取って鈴菜は走り出す。しかし、祖母がついてこない。
「おばあちゃん?」
「私は残るわ。誰かが残らないとバケモノにみんな捕まってしまうわ。だから私が身代わり」
「身代わりって、おばあちゃんはどうなるの?」
「私はもう死んでいるんだから大丈夫よ。心配しないで。それよりも、二人とももっと仲良くして頂戴ね。たった二人の姉妹なんですから」
「おばあちゃんいじめられたりするの?」
「そんなこと無いわよ」
黒いもやのような物が空から岩に向かって降りてくる。
岩の中から黒い液体のような物が、地面に流れ落ちる。
それが徐々に形を成してくる。
「口笛を思い切り吹きなさい!」
祖母と共に口笛を吹く鈴菜。
間に挟まれるような形で口笛を受けてバケモノが霧消する。
「さあ、アレが形を取り戻す前に森を出なさい」
岩の上に再びもやが現れる。
「おばあちゃんは?」
「祐美ちゃんの代わりが必要なのよ」
「だったらあたしが」
「私はもう死んでるのよ。行きなさい。戻ってきたら、狙われるわよ」
「アレは死んじゃったの?」
「いいえ。黒い森の中で形を取り戻して戻って来るのよ」
「また口笛を吹いて追い返せばいいじゃない」
「ずっと追いかけて来るのよ? 何度やっても同じなの。だから、行きなさい。死んでいる私の方が目につきやすいだろうから」
祖母に促され、森を離れていく二人。その背中で、祖母の口笛が響く。
昼過ぎ。力強い夏の日差しが、アスファルトを熱し上げる。
田舎道を古びたバスが走って来る。
バスの乗客は姉妹の二人だけ。空いてる座席は多いが、姉妹は隣り合って座っている。
鈴菜、頬杖をしながら窓の外を眺めている。その隣では祐美が鈴菜にもたれかかって眠っている。
「人間が少ないっていいなぁ」
眠っている祐美を見て、
「のんきな奴」
再び外を見る鈴菜。こうやってしゃべらない限りは妹も可愛いのにと思う。
車窓から見える景色。
田畑と山の緑が、流れていく。
「懐かしいなぁ。」
やがて停留所にバスが止まる。
バスが走り出すと姉妹が下りている。
「さあ、歩くよ」
「眠いよ」
「あんたずっと寝てたでしょ」
妹の手を引いて、停留所を離れる。
道の両側には田んぼが広がり、山の稜線がほど近くに見える。山の裾野からやけに緑の濃い森が広がっている。それはもう緑と言うより黒い。
周りを緑の森に囲まれているせいで、その違いは顕著だった。
「なんだろう?」
「お姉ちゃん。あそこ焦げてるの?」
「バカね。焦げてたら木なんか生えないでしょ」
鈴菜は祖母の顔を思い出す。すると、黒い森という話を思い出す。
縁側で祖母の傍らで寝転ぶ幼い鈴菜。
「黒い森にはね、口笛の嫌いなバケモノがいるのよ」
「あたし口笛できないよ。バケモモに食べられちゃう?」
「うふふ。ば、け、も、のよ。そうね。そうしたら、黒い森には入っちゃいけないわね」
「バケモモがいるから?」
「そう。口笛を吹けるようになった大人も、夜には吹かないようにしているからね」
「どうして?」
「夜になると黒い森が広がるからよ」
「じゃあ、おうちの明かりをつけておけば良いじゃない」
「そうね。でも、夜は決して明かりで染められないのよ。人間がどれだけ夜を明るくしても、夜は夜なの」
「よくわかんない」
「ふふふ。じゃあ、口笛の練習でもしましょうか。でも、夜に吹くのはダメよ」
現在の田舎道を祐美の手を握りながら、口笛を吹きながら歩き出す。
祐美もマネをして口笛を吹こうとするが、ヒューヒューという音しか聞こえてこない。
やがて、むくれてやめてしまう。
しばらく行くと祖母の家が見えてきた。古い民家でからぶき屋根に穴が開いているところがいくつかある。窓ガラスも障子も数枚破れており、板やダンボールが張ってある。中を見ると畳がところどころむしれている。
鈴菜と祐美が玄関に並んで立つ。声を合わせて中に声をかける。
「こんにちわー」
奥から伯母がやってくる。笑顔も見せずに祐美を見て、あからさまに嫌な顔をする。
「遅かったわね」
「すみません」
「子供だけ寄こすって、どういう神経してるんだか。しかも、こんな使えない小さな子まで連れて来て」
伯母は、身動きしない二人を見て、ため息をつく。
「いつまでそこにいる気? 靴を脱いで上がったらどうなの」
「あ、はい」
慌てて靴を脱ぐ。佑美もそれを真似する。
祖母とよく座っていた縁側を通る。
色あせ朽ちかけた縁側。それでなんとなく気がついた。
「おばあちゃんは、ずっと一人だったんだ」
奥の四畳半の和室の畳は、ホコリだらけでところどころむしれていた。
「ここあなたたちの部屋ね。掃除は勝手にして。荷物を置いたら、すぐに広間に来なさい」
そう言って捨て伯母は去っていった。
「私、あのオバサン嫌い」
「文句言ってないで、あとでここ掃除しよ」
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広間を目の前にして鈴菜は柄の長い箒を持ち立ち尽くしていた。目の前には、くもの巣、ホコリで覆われた無残な部屋が広がっている。鈴菜の後ろで、伯母が腕組みをしながら見張っている。
「じゃあ、ここの掃除をして頂戴。成績優秀なお嬢様にこんなことをお頼みするのは気が引けちゃうんだけど、これも社会勉強だと思ってきっちりとやって欲しいのよね。私なんかがまだ学生だった頃は、こんなこと人に言われる前に、私がやりますって言うのが常識だったもんだけど、今はほら、時代が違うものね? 言われなきゃやらないんでしょ? 今の若い子って。でも、あなたは言われてもやらないのかしら?」
「わかりました!」
鈴菜は、箒を思い切り振り払う。あたりにホコリが舞い上がり、伯母と鈴菜を襲う。
埃で白くなる二人。
「もう! 何やってるのよ!」
伯母は肩を怒らせながら、その場から走り去っていった。鈴菜は軽く咳き込みながら見送る。
「伯母さんのところには、子供はいないって言うけど、あんな人の子供じゃ、大変だろうな」
箒を握りなおし、静かに掃いていく。その手がふと止まる。
「同じような子供だったりして」
噴出す鈴菜。
「あーあ」
鈴菜は、ふと広間の奥のふすまを見る。
鈴菜がふすまを開くと、そこは祖母が眠る部屋だった。鈴菜は居間の中に入っていく。
居間の奥に棺おけが置かれ、花が飾られていた。写真の祖母はひどく事務的な笑顔を見せていた。
鈴菜は、棺おけの小窓を開く。中に祖母が横たわっている。
鈴菜は:祖母の遺体を見る。
「本当に死んじゃったんだね。あたし、おばあちゃんとずっとここにいればよかったな……」
祖母の顔に触れる鈴菜。
祖母との思い出が頭の中をよぎる。
縁側にいるのは、幼い頃の鈴菜と祖母。
祖母が歌っている。
「黒い森には入ってはいけないよ 帰れなくなっちまう
黒い森では口笛を吹いてはいけないよ バケモノに取られちまう
黒い森では嘘をついてはいけないよ 嘘もみーんな取られちまう
黒い森では生きていてはいけないよ バケモノに殺されちまう」
「どうして?」
「古い古いお話さ。黒い森に迷い込むと黒いおっかないバケモノに襲われて、食べられちゃうのさ。そうして死んだ後も黒い森に閉じ込められて、ずーっと出られなくなってしまうんだと」
「鈴、嘘つかないから大丈夫だよね?」
「どうかしら? そういえば、昔偉いお坊さんが、黒いバケモノを大きな岩に閉じ込めたって言うけど、あら? どうだったかしら。確かその岩の前で口笛を吹き続けて、朝になる前に口笛が途切れてバケモノを退治することが……」
何か、騒がしい音が祖母の声をさえぎった。
「サボってるんじゃないよ! 時間がないんだからね!」
遠くから声が聞こえる。
「広間の掃除が終わったら、こっちに来て頂戴! サボってるヒマなんかヒマなんか無いんだから」
鈴菜は現実に引き戻される。
鈴菜はここぞとばかりに執拗に伯母にいびられる。
「あんたそんなことも出来ないの?」
箒で畳を掃いては言われ、
「あんたそんなことも出来ないの?」
床を雑巾で拭いても言われ、
「あんたそんなことも出来ないの?」
天井のクモの巣をハタキではらっても言われ、
「あんたそんなことも出来ないの?」
お茶碗を洗う時にも言われる。
そして、とうとう鈴菜は爆発する。
「もう嫌!」
掃除道具を投げ捨て家を飛び出す。
「なんでここまで言われなきゃならないのよ! もう、うんざり。そんなに人の仕事が気になるなら自分でやればいいじゃないの! ずっと張り付いて指図ばかりして何様のつもりよ!」
12
山道に走り込んでいく鈴菜。
「もういや! もういや! 学校も塾も家も、あたしの居場所なんてないもの!あたしは世界から嫌われてるのよ! 何であたしがこんな目に合わなきゃ行けないのよ! 空き地だって、あたしだけの場所だったのに……。もう、岩井和也のバカ!」
じっと右手に広がる森を見る。鈴菜は意を決して森の中に入って行く。
振り返らずに森を進んでいく。徐々に緑から黒に変わって行く森。
少し開けた辺りに座り込む鈴菜。こぼれ落ちる涙を隠すように膝を抱え、頭をうずめる。
「このままここで死んじゃいたい。そうしたら何もかも楽になって、あたしは幸せになれるのに」
近づいて来る足音に顔を上げる。
立ち上がり、周囲を見回す。周りには誰もいない。
再び振り返ると、鈴菜の祖母が立っている。
「鈴ちゃん」
「おばあちゃん?」
鈴菜は祖母に近づいていく。
「おばあちゃん? なんで?」
びっくりした顔の鈴菜に祖母が話かける。
「鈴ちゃんは、いつも泣いているね」
「おばあちゃん、生きてるの?」
祖母は首を横に振る。
「誰かにいじめられたのかい?」
「あたしには居場所がないのよ。だからみんなが追い出そうとするの。それだけ」
「それはいけないね」
「そうでしょ? おばあちゃんもそう思うでしょ?」
祖母は鈴菜を見つめる。
「いけないのは、鈴ちゃんのほうよ」
「え?」
鈴菜は祖母に詰め寄る。どうして昔みたいに優しくしてくれないのかと。
「なんであたしが悪いのよ」
「ここは自分の場所じゃないって決めつけているじゃないの。そんな人を、仲間として扱えるほど人間はうまく出来てないのよ」
「じゃあ、どうすれば良かったって言うの?」
「人間なんてね、自分がいる所が居場所なのよ」
「違うわよ!」
「何が違うの?」
「あたしは、みんなから無視をされるために生まれて来たんじゃない! あたしには、あたしを必要とする居場所があるはずよ!」
「でも、もしそこでうまくいかなかったら、そこは自分の場所じゃないってまた言うのかい?」
「それは……」
「いつでも元気な人なんていないように、いつもうまくいく人もいないのよ。誰もが苦しむ時があるの」
「でも、こんなのひどいじゃない! 不公平すぎるわよ」
「人間はね、決して平等にはなれないのよ。でも、苦しんで他人により辛くあたるより、その分、他人に優しくなれたらステキじゃないの」
「そんなのおかしいわよ。人にひどいことをされたら、別の誰かに優しくなんてなれるわけが無いわ」
「自分に与えられるものは不平等でも、自分からあげられる気持ちは平等に出来るでしょう?」
「あたしが間違ってるっていうの?」
「間違ってる間違ってないの話じゃないわ。人間の世の中っていうのはね、そんなにキレイなものじゃないのよ。だからこそ大切にしなきゃならないものがあるの」
「大切なもの? 何よ?」
「自分よ」
「え? そんなの当たり前じゃない」
「当たり前だけど、それは難しいのよ。今の鈴ちゃんは自分を大事にしてるようには見えないけどねぇ」
「そんなこと……」
「死にたいだなんて、心が死んでいる証拠よ」
「それは……」
「だけど、それは助けを求めてることでもあるの。助けて、助けてって心が叫んでいるのよ」
「助け?」
祖母はゆっくりとうなづく。
「ここはあの世に近い所よ。黒い森があるからね」
「ここが黒い森。覚えてるわ。口笛を吹いちゃいけないんでしょ?」
祖母は笑いながらため息をつく。
「まったく。おばあちゃんの話をいい加減に聞いているんだから。口笛を吹いちゃいけないのは、夜よ。夜は黒いバケモノの動く範囲が広がるからね。黒い森に迷い込んだら、口笛だけが頼りよ。決して忘れないでね」
「大丈夫。そんな所には行かないから」
「もし黒い森の中に迷い込んで死んだりしたら、あっちから出て行くことは出来ないのだからね」
「行かないって」
「黒い森は、死を呼び寄せるのよ」
祖母は鈴菜の足元を指差す。
鈴菜の足元から奥側が徐々に黒くなっている。飛び退く鈴菜。
「ここは、もう入り口よ。心配して見にきて良かったわ」
「でも、あたしには帰る場所なんかない。どこにいてもみんながあたしをいらないって言うもの。死んでもいいのよ」
「誰もがみんな自分だけの場所を求めるものよ。でもね、そうやって探しながら生きるのが人間なのよ」
「自分の場所なんて無いの? おばあちゃんは見つけたの?」
祖母は笑顔を見せる。
「ええ」
「死んだから?」
祖母は声を出して笑った。
「いいえ。生きているうちに見つけることが出来たわ」
「教えて、おばあちゃんの居場所って何だったの?」
「おじいちゃんの家で暮らすことよ」
「そんなこと? 本当にそんなことが、おばあちゃんの居場所だって言うの?」
「まあ、おばあちゃんの生き方をバカにして。私にはね、それが一番だったのよ」
「幸せだった?」
祖母はうっすらと笑みを浮かべる。
「ほら、急がないと夜になるわよ」
黒い森に背を向けて歩き出す二人。しばらく歩くと祖母の姿は消えており、鈴菜は一人で山道を降りていた。
13
外はすっかり暗くなってしまった。祐美が畳に寝転がりながら、口笛を吹く練習をしている。
明かりの届かない暗闇が揺れ動く。口笛が止む度に寄り集まって行く。
いつのまにか部屋の隅に黒い人影が立っている。
人の気配に気がつく祐美。
「お姉ちゃん? 帰ったの?」
人影はしゃべらない。木々の葉が揺れるような、ノイズのような音がするだけだった。それでも佑美の耳には言葉として届いているようだった。
「……(お、ねえ、ちゃん、よ)」
「何?」
「……(どうしたの?)」
「どうしたの? じゃないわよ。みんな、お姉ちゃんを捜して大変だったのよ!」
「……(大変だった?)」
「お父さんたちもすぐ来るって。まぁ、何にしても良かったわ」
「……(良かった?)」
「もう!あの伯母さんの手伝いするの本当に大変なんだから、キライよあの伯母さん」
「……(じゃあ、行かない?)」
「どこへ?」
「……(嫌な人のいない所)」
「外はもう暗いわよ」
「……(まだ大丈夫。行こう)」
「……うん」
祐美が手を伸ばすと黒い影が彼女を包み込む。そして、佑美は何かに手を引かれるようにそのまま暗くなった外に向かって歩いていく。
14
緑の森の中を鈴菜が歩いている。その側に祖母が再び現れる。
「辛いことを感じられれば、幸せもその分大きくなるわよ」
「幸せなんて、感じないわ」
「それは、なんて不幸なことなのかしらね」
「おばあちゃん、これからどこに行くの?」
「わからないわ」
「一緒に行ってもいい?」
「あなたが来るのは、まだまだ先よ」
「でも、私、学校でみんなに無視されてて、この世にいないのと同じように扱われてるのよ」
「何言ってるの。おばあちゃんなんか実の息子二人から無視されても生きていたわよ」
「おばあちゃんみたいに強くないもん」
「辛い思い出をいい思い出に変えられる人が、本当の幸せな人だと思うのよ。鈴ちゃんはそんな生き方ができると思うわ」
「無理よ」
「夜が深くなってきたわね。これ以上ここにいると、黒い怪物にさらわれちゃうわよ」
「森の外で夜に口笛を吹いちゃいけないよ。あいつに狙われるからね」
森の切れる辺りで、祖母はもう一度、鈴菜に注意をした。
「うん」
森から出る鈴菜。振り返り祖母を見る。
「どうしたの?」
「死んだからさ。死んだ人間は、森から出られないって約束なのよ」
「じゃあ、お別れなの?」
「そうね」
「もう少し一緒にいてもいい?」
「ダメよ。黒い森が広がって来るからね」
「口笛が吹ければ大丈夫なんでしょ?」
「無理に黒い森を刺激してはいけないわ。それに寝ないで朝まで吹き続けるなんて無理でしょう?」
「そうか、そうよね」
祖母は森の外を指差す。鈴菜、つられるようにそっちを見る。
「村はあっちよ」
「おばあちゃん」
振り返った先には、誰もいなかった。
森を離れて行く鈴菜の視界の隅に何かを手を引かれた妹の姿が見えた。驚いてそちらに顔を再び向けるとそこには森が広がるだけだった。
「祐美? まさかね……」
15
懐中電灯が、ゆらゆら揺れて漁り火のよう。
大人たちが話をしている。
「杉野さんのとこのお孫さんだってよ」
「どこの子だ?」
「森にさらわれたんじゃないのか?」
「あんなの昔話じゃないか」
鈴菜の姿を見つけて、大人の一人が駆け寄ってくる。鈴菜は驚いて身をすくませる。
「君、杉野さんのとこの孫かい?」
「え? あ、はい」
「良かった。いたぞ」
大人たちが集まってくる。あっという間に取り囲まれる鈴菜。
「あの、どうしたんですか?」
「なんだ? 本人はまったくしらねぇのか?」
「人騒がせな子だなぁ。森にさらわれたのかと思ったぞ」
「昔話だって言ったろうが」
大人たちが安堵する一方で、鈴菜は不安を感じ始めていた。
「森にさらわれるって?」
「古い話だ。夜に口笛を吹くと黒いバケモノがやってきて、良い物やるからついて来いって人をさらっていくんだ」
「口笛が嫌いなくせに口笛吹くと寄ってくるだなんて、なんつう天邪鬼だかな」
大人たちは笑う。
鈴菜の脳裏に、森に入っていく妹の姿がよぎる。
突然、走り出す鈴菜。
「なんだぁ? 都会の子は礼儀も知らねえんだなぁ」
16
鈴菜が走って帰って来る。
「子供がいなくなったって?」
伯母が不機嫌そうな顔をしている。
「あんたのことよ! 恥をかかせないでよね!」
鈴菜、祐美を探し回る。
台所。いない。
奥の部屋、いない。
居間にもいない。
縁側に履物がある。
トイレも見るがいない。
「変よ」
もう一度、縁側の履物を見る。伯母がうんざり顔でやってくる。
「手伝いを投げ出して、こんな時間までどこで遊んでたのよ」
「祐美! 祐美、どこ? いないの?」
「まったく姉妹そろって出来損ないなんだから」
「子供がいないからって、私たちに八つ当たりしないで!」
「な、なんですって!」
飛び掛ってきそうな勢いの伯母を無視して、鈴菜は縁側から外に飛び出す。履物を履くのも忘れている。
夜の村は静まり返っている。
田舎の夜は暗さが都会の何倍も深い。
「森だ」
鈴菜はその中に走り出す。
伯母が背中の方でわめいているが、鈴菜を引き止めることはできなかった。
17
鈴菜は森の中を走りながら妹に呼びかける。
「祐美! 祐美ー!」
何度も足を取られながら鈴菜は森の奥へと進んでいく。
「鈴ちゃん。ここに来てはいけないって言ったのに」
肩で息をしている鈴菜の後ろから、祖母が現れる。
「おばあちゃん。祐美を見なかった?」
「祐美ちゃん? そういえばさっき子供が森のバケモノに連れて行かれたわね」
「どっちに行ったかわかる?」
「どうする気?」
「追いかけて返してもらうわ」
「無理よ。話なんか通じるわけが無いわ」
「じゃあ、口笛を吹くわ」
「やめなさい。あなたまで狙われちゃうじゃないの」
「だけど、このままじゃ祐美が」
「大事なの?」
「わかんない」
「自分を大事にしなさい」
「でも、こんなの自分を大事にしたことにならないよ。ケンカもするけど、憎たらしい妹だけど、いなくなったら悲しいもん」
にっこりと笑う祖母。
「そう。そういう気持ちなら、おばあちゃんが助けてあげてもいいわ」
「どうするの?」
「黒い森へ行きましょう」
「でも、そんなことしたら……」
「死んでいる人のことなんて心配しないで。それから、おばあちゃんが合図をしたら口笛を思いっきり吹いて頂戴ね」
「わかった」
「こっちよ」
祖母の霊に導かれるように鈴菜は黒い森へ向かう。
18
手入れが行き届いているのに、明るくなく、緑のない白と黒の影絵のような森。
影が落ちない。遠近感もない。
「何ここ……。何か変な感じがする」
「早く祐美ちゃんを探しましょう」
「見つけてもバケモノがいたらどうするの?」
「それはね、二人で同時に口笛を吹くのよ。そうするとバケモノはどっちの音なのかわからなくなって消えてしまうのよ」
「何だやっつけられるんじゃない」
「それは難しいかもね」
「どうして?」
「普通の人間にはそこまで長く口笛を吹くことなんて出来ないでしょう?」
「そっか」
黒い森の中を進んでいく二人。
木々に避けられるように広場があった。
その周りでは白い人影たちが石を積み上げている。しかし、石は積み上がることなく、他の霊によって石は奪われてしまう。しかし、奪われたことに気がつかずに、別の例の積んだ石を再び拾いに行く。
「何をしているのかしら?」
「バケモノに騙されているんだろうね。あそこ! あそこを見てごらん」
広場の中央には、大きな岩がそびえ立っている。
その側に一人祐美がぼーっと立っている。
「祐美!」
「待って鈴ちゃん」
「何?」
「バケモノがいないかよく見て」
鈴菜たちは広場を見回す。バケモノと呼ばれるようなものの姿は無い。
見れば祐美は岩に話しかけている。
「何してるのかしら?」
「バケモノに化かされているんだね」
「叩けば正気に戻るんじゃない?」
「まあ、乱暴だねぇ。とにかく行って見ましょう」
「バケモノはいないの?」
「ほとんどの場合、夜は森の外を出歩いてるのよ。口笛を吹く人間を探しにね。昔話では、そうだったわ」
「退治できないの?」
「昔、お坊さんが朝まで口笛を吹き続けたって言うけど、それも失敗だったようね」
祐美の側に近づいていく二人。
「祐美、祐美」
妹の体をゆすって起こそうとする。
寝ぼけたような祐美に平手打ちをする。
「あぁ、おねえちゃん」
黒い森がざわつき始める。
風が吹いていないのに、木々のざわめく音が聞こえてくる。祖母の顔は緊張している。
「さあ、急いでここを離れましょう」
「うん」
妹の手を取って鈴菜は走り出す。しかし、祖母がついてこない。
「おばあちゃん?」
「私は残るわ。誰かが残らないとバケモノにみんな捕まってしまうわ。だから私が身代わり」
「身代わりって、おばあちゃんはどうなるの?」
「私はもう死んでいるんだから大丈夫よ。心配しないで。それよりも、二人とももっと仲良くして頂戴ね。たった二人の姉妹なんですから」
「おばあちゃんいじめられたりするの?」
「そんなこと無いわよ」
黒いもやのような物が空から岩に向かって降りてくる。
岩の中から黒い液体のような物が、地面に流れ落ちる。
それが徐々に形を成してくる。
「口笛を思い切り吹きなさい!」
祖母と共に口笛を吹く鈴菜。
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「さあ、アレが形を取り戻す前に森を出なさい」
岩の上に再びもやが現れる。
「おばあちゃんは?」
「祐美ちゃんの代わりが必要なのよ」
「だったらあたしが」
「私はもう死んでるのよ。行きなさい。戻ってきたら、狙われるわよ」
「アレは死んじゃったの?」
「いいえ。黒い森の中で形を取り戻して戻って来るのよ」
「また口笛を吹いて追い返せばいいじゃない」
「ずっと追いかけて来るのよ? 何度やっても同じなの。だから、行きなさい。死んでいる私の方が目につきやすいだろうから」
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