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前篇
18.羨望(1)
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* * *
途中の廊下で、石炭の入った重そうなバケツを両手で持ち、よたよたと階段を上るメイドを見かけた。恰幅が良く、横幅もある年配の女性だ。階段が狭く見える。今は昼休憩の時間帯らしく辺りには人はいない。
ふうふうと肩で息をする女性は時折階段に躓き、しょっちゅう転びかけている。数段上がっては途中で休憩を挟む姿に見ていられなくなり、持っていた本を脇に挟んで、通り過ぎ様に後ろからぱっと取る。
「え……あ、あの、奥様」
「何階?」
「あ、い、いえ……自分で運びますので」
「いーよ、よたよたのぼってられると邪魔だし。俺の方がまだ早いから貸して」
それでもメイドはおろおろとするばかりで放そうとしない。毎日ピカピカに磨かれている手すりは、手をかけてもつるんと滑る。もしもここで転んでしまったら、このふくよかな体じゃ自分の体すら支えられないだろう。
そもそもバケツを持っていない状態であっても、階段を上るのはキツそうだ。
「……俺みたいな穢れた稀人に、大事なバケツ触られたくない?」
「えっ、あ、いえ、そんなことはっ」
「すきあり、えいっ」
「あ」
慌てて手を振ったメイドの隙をみてバケツを奪い取る。ずっしりと重いが、取り返されないようにひょいひょいっと数段上がり、振り返る。
「で、何階?」
「4階です……」
手すりに体重を預けてひいひい言っている年配のメイドは、奪い返す気力もないようだ。
「最上階じゃん。じゃあ先に行って廊下に置いておくね」
この手足枷がなければもっと早く上がれるというのに、やはり簡単にはいかない。腕が引き千切れそうになりながらも、長い長い階段をなんとか登り切って下を確認してみると、メイドの姿はまだ見えない。ただ、ダンダンと太ましそうな足音や、ふうふうと荒い息が聞こえてくるので向かってきてはいるのだろう。
かなり時間がかかりそうだ。
がん、と重すぎるバケツを肩から落ちるように置いて、ぐるりと腕を回してから再び階段を下っていく。次は、アレクシスの部屋を担当しているメイドに、本を取ってもらえるようお願いしなければ。
「あ、あの、奥様……」
「え?」
か細い声に呼び止められ、数段降りたところで振り返る。心もとなさそうに立っているメイドは確かキャシーとかいう名前だ。なぜ覚えているかというと、毎朝リョウヤの部屋へと乱入し、ざっと適当な掃除している女性たちの1人だったからだ。
キャシーは呼び止めたというのにリョウヤと目を合わせようとせず、おろおろと視線をさ迷わせ、ついに俯いてしまった。もじりとクラシカルなロングエプロンの裾を握りしめるしおらしい姿は、普段の彼女とは程遠い。
あの日の朝までは何を話しかけても、ツンとすまし顔でリョウヤの全てを無視していたというのに。
「あの、その、か……か、」
キャシーが人気のない時を見計らい、こうしてリョウヤをわざわざ探して話しかけてきた理由はわかっていた。しどろもどろに、あの花瓶は……と聞こえる。なんというか、理解していたのならなんでもない顔をして素知らぬふりを通せばいいのに。別に、恩を売ろうと思って行動したわけでもないのだから。
だがまあ、知らぬままは恐ろしいのだろう。リョウヤの真意がわからなければなおさら。
「──誰かに、言った?」
キャシーがぱっと顔を上げた。もうこの時点でその目は潤み、泣き出しそうだ。
「いえ……いいえ、まだ、誰にも、あの私……」
「そう、じゃあ気にしなくていーよ」
「え……」
「俺も、誰かにバラそうとか考えてないし。あれは俺が廊下にぶん投げた。そういうことだから」
それ以上話すことはないのでさっさと降りようとしたのだが、「あの! どうして……」と再び呼び止められた。どうして、と聞かれれば理由を話さなければならないのだが、正直言うと、大した理由はない。ただ。
「……見てられなかったから。あんたの顔」
「わ、私の、顔が、でしょうか……?」
「そう。すっげー顔してたよ? こんなん」
頬を軽くつねりながらくいっと下げて、あの朝の真似をする。キャシーはあの花器を落とした瞬間、この世の終わりとばかりに青ざめていた。リョウヤが強く言い返してしまった瞬間、色を無くしたルディアナみたいに。
腹の立つことを言われたからといってあれは言い過ぎた。
18歳になったばかりの、女の子相手に。
「それに、あんなの1つ落としたぐらいでああだこうだ言われるなんて、馬鹿らしいと思っただけ。部屋のものは全部外に出すつもりだったしね、もしかしたら俺が壊してたかもだし、ついでだよついで。黙っときなよ」
「あ……」
まだ何か言いたそうにしているメイドに背を向け、階段を降りていく。
もしかしたらあの花瓶は、彼女の数年分の給料ほどの値段だったのかもしれない。確かに背も高く、立体的な蔓柄も見たことがない代物で、普通の花瓶ではなさそうな感じはした。
だが、花瓶は花瓶だ。
キャシーばかりが悪いわけではないと思う。支えとなっていたものも古かったようだし、ちょっと腕がぶつかってしまっただけでネジが緩んだ脆い壁も悪い。
それに、リョウヤはもとより底辺の存在だとこの館の主人から蔑まれているのだ。今更何かを仕出かしたところで、これ以上アレクシスからの評価も下がりようがない。
だったら、自分がひっ被った方が事は落ち着くと思っただけだ。それ以外でもそれ以下でもない。
途中で、リョウヤがバケツを奪ったメイドとすれ違った。
「バケツ、上に置いておいたから」
「も、申し訳ありません、有難う、ご、ございましたぁ」
「……いーよ、ついでだったし」
驚いた。ここに連れてこられてから、初めて感謝を述べられたかもしれない。相変わらずぜえはあと息を乱すメイドはまだ3階の途中で、あんまりにも遅くてちょっとだけ笑ってしまった。
一旦踊り場に出て、ふう、と息を吐いて天井を仰ぎ見る。
透明感の強いクリスタルガラスでできたシャンデリアは、どの角度から見てもキラキラと輝いている。粒の揃った宝石がぶら下がっているみたいだった。アーチ型の高くて大きな窓にはめ込まれている異国情緒あふれるステンドグラスも、アレクシスが他国から輸入したものらしい。こんな大きなものを割らずに運ぶだけでも大変なのに、屋敷に相応しいものを外国の著名な画家にデザインさせ、それを元に職人にあえて造らせた特注品らしい。
この壮麗な大階段は手すりさえも装飾が美しいし、一階部分の吹き抜けは階段も含めて大理石で埋め尽くされている。上の部分に、金箔で浮き彫りが施された眩い数本の柱なんて一体なんのためにあるのか。
ただ支えるためであれば、あそこまで煌びやかにする必要もないだろうに。
本当に、住む世界が違うのだ。天地がひっくり返っても、リョウヤには手が届かないと思っていた華やかな世界だ。こんな絢爛豪華な階段の踊り場に、リョウヤがぼうっとつっ立っていること自体が異質に思える。
何やら下が騒がしくなり、客室から誰かが出てきたのが見えてぱっと腰を落とし、手すりに隠れた。
先ほど、挨拶とも呼べないような挨拶を交わしたルディアナと、アレクシスだ。
途中の廊下で、石炭の入った重そうなバケツを両手で持ち、よたよたと階段を上るメイドを見かけた。恰幅が良く、横幅もある年配の女性だ。階段が狭く見える。今は昼休憩の時間帯らしく辺りには人はいない。
ふうふうと肩で息をする女性は時折階段に躓き、しょっちゅう転びかけている。数段上がっては途中で休憩を挟む姿に見ていられなくなり、持っていた本を脇に挟んで、通り過ぎ様に後ろからぱっと取る。
「え……あ、あの、奥様」
「何階?」
「あ、い、いえ……自分で運びますので」
「いーよ、よたよたのぼってられると邪魔だし。俺の方がまだ早いから貸して」
それでもメイドはおろおろとするばかりで放そうとしない。毎日ピカピカに磨かれている手すりは、手をかけてもつるんと滑る。もしもここで転んでしまったら、このふくよかな体じゃ自分の体すら支えられないだろう。
そもそもバケツを持っていない状態であっても、階段を上るのはキツそうだ。
「……俺みたいな穢れた稀人に、大事なバケツ触られたくない?」
「えっ、あ、いえ、そんなことはっ」
「すきあり、えいっ」
「あ」
慌てて手を振ったメイドの隙をみてバケツを奪い取る。ずっしりと重いが、取り返されないようにひょいひょいっと数段上がり、振り返る。
「で、何階?」
「4階です……」
手すりに体重を預けてひいひい言っている年配のメイドは、奪い返す気力もないようだ。
「最上階じゃん。じゃあ先に行って廊下に置いておくね」
この手足枷がなければもっと早く上がれるというのに、やはり簡単にはいかない。腕が引き千切れそうになりながらも、長い長い階段をなんとか登り切って下を確認してみると、メイドの姿はまだ見えない。ただ、ダンダンと太ましそうな足音や、ふうふうと荒い息が聞こえてくるので向かってきてはいるのだろう。
かなり時間がかかりそうだ。
がん、と重すぎるバケツを肩から落ちるように置いて、ぐるりと腕を回してから再び階段を下っていく。次は、アレクシスの部屋を担当しているメイドに、本を取ってもらえるようお願いしなければ。
「あ、あの、奥様……」
「え?」
か細い声に呼び止められ、数段降りたところで振り返る。心もとなさそうに立っているメイドは確かキャシーとかいう名前だ。なぜ覚えているかというと、毎朝リョウヤの部屋へと乱入し、ざっと適当な掃除している女性たちの1人だったからだ。
キャシーは呼び止めたというのにリョウヤと目を合わせようとせず、おろおろと視線をさ迷わせ、ついに俯いてしまった。もじりとクラシカルなロングエプロンの裾を握りしめるしおらしい姿は、普段の彼女とは程遠い。
あの日の朝までは何を話しかけても、ツンとすまし顔でリョウヤの全てを無視していたというのに。
「あの、その、か……か、」
キャシーが人気のない時を見計らい、こうしてリョウヤをわざわざ探して話しかけてきた理由はわかっていた。しどろもどろに、あの花瓶は……と聞こえる。なんというか、理解していたのならなんでもない顔をして素知らぬふりを通せばいいのに。別に、恩を売ろうと思って行動したわけでもないのだから。
だがまあ、知らぬままは恐ろしいのだろう。リョウヤの真意がわからなければなおさら。
「──誰かに、言った?」
キャシーがぱっと顔を上げた。もうこの時点でその目は潤み、泣き出しそうだ。
「いえ……いいえ、まだ、誰にも、あの私……」
「そう、じゃあ気にしなくていーよ」
「え……」
「俺も、誰かにバラそうとか考えてないし。あれは俺が廊下にぶん投げた。そういうことだから」
それ以上話すことはないのでさっさと降りようとしたのだが、「あの! どうして……」と再び呼び止められた。どうして、と聞かれれば理由を話さなければならないのだが、正直言うと、大した理由はない。ただ。
「……見てられなかったから。あんたの顔」
「わ、私の、顔が、でしょうか……?」
「そう。すっげー顔してたよ? こんなん」
頬を軽くつねりながらくいっと下げて、あの朝の真似をする。キャシーはあの花器を落とした瞬間、この世の終わりとばかりに青ざめていた。リョウヤが強く言い返してしまった瞬間、色を無くしたルディアナみたいに。
腹の立つことを言われたからといってあれは言い過ぎた。
18歳になったばかりの、女の子相手に。
「それに、あんなの1つ落としたぐらいでああだこうだ言われるなんて、馬鹿らしいと思っただけ。部屋のものは全部外に出すつもりだったしね、もしかしたら俺が壊してたかもだし、ついでだよついで。黙っときなよ」
「あ……」
まだ何か言いたそうにしているメイドに背を向け、階段を降りていく。
もしかしたらあの花瓶は、彼女の数年分の給料ほどの値段だったのかもしれない。確かに背も高く、立体的な蔓柄も見たことがない代物で、普通の花瓶ではなさそうな感じはした。
だが、花瓶は花瓶だ。
キャシーばかりが悪いわけではないと思う。支えとなっていたものも古かったようだし、ちょっと腕がぶつかってしまっただけでネジが緩んだ脆い壁も悪い。
それに、リョウヤはもとより底辺の存在だとこの館の主人から蔑まれているのだ。今更何かを仕出かしたところで、これ以上アレクシスからの評価も下がりようがない。
だったら、自分がひっ被った方が事は落ち着くと思っただけだ。それ以外でもそれ以下でもない。
途中で、リョウヤがバケツを奪ったメイドとすれ違った。
「バケツ、上に置いておいたから」
「も、申し訳ありません、有難う、ご、ございましたぁ」
「……いーよ、ついでだったし」
驚いた。ここに連れてこられてから、初めて感謝を述べられたかもしれない。相変わらずぜえはあと息を乱すメイドはまだ3階の途中で、あんまりにも遅くてちょっとだけ笑ってしまった。
一旦踊り場に出て、ふう、と息を吐いて天井を仰ぎ見る。
透明感の強いクリスタルガラスでできたシャンデリアは、どの角度から見てもキラキラと輝いている。粒の揃った宝石がぶら下がっているみたいだった。アーチ型の高くて大きな窓にはめ込まれている異国情緒あふれるステンドグラスも、アレクシスが他国から輸入したものらしい。こんな大きなものを割らずに運ぶだけでも大変なのに、屋敷に相応しいものを外国の著名な画家にデザインさせ、それを元に職人にあえて造らせた特注品らしい。
この壮麗な大階段は手すりさえも装飾が美しいし、一階部分の吹き抜けは階段も含めて大理石で埋め尽くされている。上の部分に、金箔で浮き彫りが施された眩い数本の柱なんて一体なんのためにあるのか。
ただ支えるためであれば、あそこまで煌びやかにする必要もないだろうに。
本当に、住む世界が違うのだ。天地がひっくり返っても、リョウヤには手が届かないと思っていた華やかな世界だ。こんな絢爛豪華な階段の踊り場に、リョウヤがぼうっとつっ立っていること自体が異質に思える。
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