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前篇
39.腕時計(1)
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「今日は、なんだか濃い一日でしたね」
淹れたての(もちろん普通の)コーヒーをことりと置く。
外してテーブルの上に置いた、腕時計の前に。
元の世界にいた頃のシュウイチは紅茶派だったのだが、こちらの世界に来てからは、ほぼ毎日のようにコーヒーを飲むようになった。
あっちの世界にいる人が、コーヒーをよく飲む人だったから。
この腕時計も、誕生日にもらったものだ。
「リョウヤさんという方に会いましたよ。まさかこの世界で日本人の方と会えるなんて……今でもなんだか、夢みたいです。誰かと日本語を話したのも、久しぶりでした。時代は違うようでしたが」
僕、ちゃんと喋れてましたかね、と微笑む。
もちろんこの部屋にはシュウイチしかいない。
だが、あちらの世界に残してきた人に、こうして毎日話しかけるのがシュウイチの日課だった。この声はきっと届いてはいないだろうが、こうしているだけで自分の心も穏やかになれる。
誰もいない空間に話しかけているのだから、傍から見れば自分は異常者だろう。
だがそれでいい。これ以上おかしくならないためにも、この行動は必要なことだ。
自分の心は、自分で守る。
「小学生男児が2人もついてきましたけど。1人、撃退しちゃいました。ちょっと大人気なかったですかね」
10以上も年下の相手に。
細い針の先を清潔な布でふき取って消毒し、からんとガラスコップにしまう。
コーヒーに入れたものの他に、首裏に爪を立てながら、押しのけるふりをしながら、床に叩きつけた時に……と、様々な部位にちくっと刺しておいた。
そちらの方が早く回るからだ。
本人は、他の痛みに気を取られて刺されたことにも気付いてなさそうだったが。
「でも、ここまできたらなりふり構ってられませんよね。もう誰も、殺したくないですし」
自分のセリフに苦く笑った。
あちらの世界の誰かが聞いていたら、「中二病?」とでも馬鹿にされていそうだ。だが、事実だった。
あのまま手を出されていたら、きっと憎んで憎んで殺してしまっていた。
だから、そうなる前に退散させることができて、内心ではほっとしているのだ。
自分の心を壊す者に対して躊躇する気持ちは、5年前に置いてきた。
マティアスに言われた、インチキ魔術師というのもあながち間違いではない。元の世界では人を救うことを生業としていた自分が、どんな理由があったにせよ、悪意を持って人を死に至らしめた時点で医者としては失格だろう。
この手にかけた人間の顔は忘れない。あの3人の貴族。そしてもう1人の尊き命。
罪は、忘れない。生涯をかけて背負う。
けれども持っては帰らない。そう決めた。
「マティアスさんは何と言いますか、仮面をかぶってるような人でしたね。一瞬だけ剥がれ落ちましたけど、あれが元……なのかなぁ。ちょっと気性が荒っぽそうでした」
自分が輝ける場所を作ることには長けていそうだったが、逆にやり込められることに慣れていなさそうだった。
今日の出来事は、彼にとって人生最大の汚点だろう。もうここに来ることもないはずだ。あの手のタイプが、自ら恥を晒しに来るはずがない。
それでいい。もう自分に関わらないでほしい。あの手のタイプはどうにも苦手なのだ。
次に襲われたら今度こそ、手にかけてしまうと思う。
それはできれば、避けたいことだ。
「アレクシスさんは、随分とわかりやすい方でしたね。噂に聞いてた、冷血な氷の貴公子とかいうクソ寒いあだ名とは真逆でした。冷たい方ではあると思いますが……随分と、感情をコントロールできていないようで」
チェンバレー家の話はよく耳にしていた。
爵位がないというのに、この月桂館に出入りできるのだからかなりの家柄だ。
他者と情を交えず、己の利害を一番に考え事業を推し進めるその手腕に、傘下に入り潤う者もいれば、簡単に切り捨てられ露頭に迷う者もいる。
あらゆる階層の者から畏敬の念を抱かれ、同じく憎悪されてもいそうだ。
さぞや冷酷冷徹冷血の三拍子そろった男なのだろうと思いきや。
「思春期なんですかね。ああなるのは、リョウヤさんの前でだけかもしれませんが……」
だが全く微笑ましくはない。おぞましいだけだ。
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