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前篇
腕時計(2)
しおりを挟む「一番気掛かりなのは、リョウヤさんですね」
怒り狂った男に連れて行かれたリョウヤは、大丈夫だっただろうか。あそこで止めに入れば、あの鬼畜男が更に激高するであろうことはわかっていた。
名前を呼び、リョウヤが振り向いた瞬間に見せた、あの表情。
アレクシスも、そして後ろのソファに座っていたマティアスも、見ることはできなかっただろう。
見ているこっちの胸が、痛むほどだった。
できることなら縋らせてあげたかった。しかしここに閉じ込められているシュウイチにできることは限られている。
また会いましょうと、声をかけることしかできなかった事実が、歯痒い。
それに、触れた手はとても熱かった。枷に隠れて見え辛かったが、袖からちらりとのぞいた腕も赤くなっていた。
荒れているどころではない。掻きむしった痕のようにも見えた。
その理由が痒いから掻いただけ、ならまだいいのだが。
『こんなの全然へーきだよ。犬に突っ込まれてるぐらいどうってことないって!』
朗らかに笑っていた。朗らかすぎた。あの顔は、少々気になる。
「大丈夫だと言ってる人ほど、大丈夫じゃないんですよ……」
シュウイチもよく言われたものだ。
昔から無理してしまうところがあって、なんでも大丈夫ですよと請け負った挙句、家でぶっ倒れてしまうことが。「いいから休め」と、「もう、貴方って人は……困った人ね」と、何度ベッドに放り投げられたことか。
この世界では誰もそんなことは言ってくれないので、1人でベッドに潜り込んでいる。なるべく、無理をしないように。
そう、この腐った世界において無理は禁物だ。
他でもない己の心の安寧のために、よく食べ、よく寝て、よく泣き、よく笑わなければならない。
シュウイチとて、最初は何を食べてもろくに味を感じなかった。
食べたものを吐かなくなったのも、しっかりと睡眠が取れるようになったのも、ここに来てから数年経ってからだった。
真夜中に涙が止まらなくなった時は、ついにおかしくなったのかと思ったほどだ。特別、涙腺が緩い方でもなかったはずなのに。
この世界は、線引きした命に厳しい。
よく笑うことは、未だに難しかった。
けれども本来の感情は、なるべく表に出すようにしている。それでも無意識のうちに……否、故意に本来の感情を抑え込み、無理を繰り返しているのであれば。
「大人のふりをした子どもはまだいいですがね。それこそDV野郎や脳内お花畑野郎みたいに」
シュウイチは、まだ辛うじて本来の体をなしている腕時計を撫でた。
毎日時刻は合わせているが、表面の塗装はだいぶ剥げ落ち、針は先端が折れ曲がっていて、革のベルトもボロボロで、ガラスもひび割れている。
この5年の過酷な生活で、高級品として店頭に並んでいた頃の面影はない。
動いていること自体、奇跡だった。
機械式で本当によかった。クォーツ式であれば、この世界にない電池を死に物狂いで作る羽目になっていた。機械式は高いからいらないですよと遠慮したのに、特別なものをあげたいからとこれを渡されたのだ。
高卒の土木業だ。バイト時代の給料と合わせたって、さほど貯まっていなかっただろうに。
それが、こんな形で心を守ってくれるようになるとは。
この時計のように、目に見える傷ならまだいい。あとどれくらい持ち堪えられるかも、おおよそわかる。
問題は、見えにくい内面の劣化だ。
あえて見せないようにしているということは、隠すことにももう慣れてしまっているのか、あるいは。
いつだって孤独は、人を狂わすいい燃料だ。
悲しいほどに。
「子供のふりをした大人が、一番厄介なんですよ……」
チクタク、チクタク。
折れた細い秒針はあと何度、時を刻むことができるのだろう。
────────────────
明日から主役CPの話に戻ります。
6
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