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前篇
見えなかったもの(3)
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「では、も、申し上げます。だ、旦那様が、以前、マティアス様と、その……奥様を」
己を鼓舞するように、エプロンの前掛けをキャシーが握りしめた。
「奥様を2人がかりで……した日に、わ、わたし、マティアス様に、どうかおやめになってくださいと……奥様に、酷いことなさらないでくださいと、言おうとしたら……奥様に、じゃ、邪魔だと、突き飛ばされて」
決意も空しく、あっという間にしゃくりあげ始めたキャシーはまだ10代だと聞いた。確か、ルディアナと同い年だ。10代の女性に、リョウヤは特に甘い気がする。
「最初は、その……驚きすぎて、やっぱり嫌われてしまったのかなって、混乱、したのですけれども……でも、これまでの奥様のことを色々考えたら、きっと奥様は私のことを、かっ、庇おうと……して、くださったんだって、思って」
ほろほろと、キャシーが涙を流す。リョウヤのために泣いているのか。キャシーの話を右から左に流しているような顔をしておきながら、アレクシスはしかと、彼女のたどたどしい話に耳を傾けていた。
俯き加減になっていたキャシーが、ばっと顔を上げた。
「お、奥様は! 誰にも、気を使わせないために……誰かを庇うためにご自分が、誰にも気を、使っていないようなフリをするお方です。旦那様……」
気を使わせないよう、気を使っていないフリをする、か。
随分と的を射た発言だと思った。
キャシーは、わかっているのだ。こんな小娘さえわかるようなことを見てこなかったのは、アレクシスだ。
「誰かのために、ご自分の評価を平気でお下げになる、お方です。確かに、て、貞淑な奥方とは、言い難いかもしれませんっ……ですが、旦那様は誤解なさっています。奥様は、優しいお方です」
誤解、か。リョウヤは未だに花瓶のことを話さない。アレクシスが知っていることを知らない。故意に、アレクシスに誤解させようとしているままだ。
確かにその言動も行動も、貞淑な妻とは程遠い。しかしそこがリョウヤの本質ではない。
「ですから旦那様、どうか、どうか、奥様に、やっ──優しく、してあげて、ください……っ」
最後は震えていて、ほとんど消え入りそうな声だった。
もういいと言う前に、涙を散らしながらがばっと一礼をして去っていくキャシーの背中は、怒りにだろうか、ガチガチに強張っていた。
仕事を切られることを覚悟の上で、アレクシスに物申しに来たのだろう。肩が下がる。
「旦那様。キャシーは今後どういたしましょうか。まだ日も浅く時折ミスが目立ちますが、ああ見えて仕事は丁寧で、統率力もあり行動も早く、思い切りのいいメイドです。家政婦長は随分と目をかけているのですが……」
「……これの傍に、戻せ」
おまえに任せるとは、もう言えなかった。
「そうでございますか。では、奥様には最低限のお食事さえ与えていればいいというご命令は、継続されますか?」
アレクシスの返答などわかり切っているだろうに。また、ため息が漏れた。
「これが食べやすいものを出せ。どうしても吐くというのであれば、一日に何度かに分けて小出しにしてもいい……落ち着いてきたら、僕と同じものを」
「かしこまりました」
どことなく、クレマンの声は嬉しそうだ。
「ふん。こうも頻繁に体調を崩されれば、孕むものも孕めんからな」
取ってつけたように落とす。これはもはや、アレクシスの癖だった。
「はい、その通りでございますね」
クレマンの髭が柔らかく下がっていることすら気に食わなくて、肘起きに肘を付き、頬を支えた。それでも視線の先には、もうずっとリョウヤがいる。
「徐々にですが、奥様のそういうところを、使用人もわかってきたようです」
怒りに任せてリョウヤを馬車から引きずり下ろした時も、いつもであれば素早くアレクシスの命令に従う御者のユリエットも前に出てきて、アレクシスに何かを訴えようとしてきた。
憤怒も露わに睨みつけて黙らせたが。
キャシーと同じようなことを、言おうとしていたのかもしれない。
「奥様は本当に、弱さというものを見せようとしないお方ですね」
それが故意か無意識かは判断しかねますが、とクレマンは続けた。
現に、倒れてしまうほどの高熱が出ていることを、リョウヤは一切伝えてこなかった。そういったところを見せないよう、ギリギリまで踏ん張っていたのだろう。
確かに体は熱く、顔も耳まで赤かったが、それはアレクシスの与える快楽に染まっているからだとばかり思っていた。これは完全にアレクシスの失態だった……仮に、怒りで頭に血が昇っていたあの状態で、リョウヤから調子が悪いと訴えられていても、行為を中断していたかはわからないが。
「……困った方、ですね」
今の一言は、アレクシスに対しても向けられたものだろう。
わかっている、と。
アレクシスは完全に這い出てきた苦虫を噛み潰した。
────────────────
今晩、もう数話投稿できるかもしれません。
己を鼓舞するように、エプロンの前掛けをキャシーが握りしめた。
「奥様を2人がかりで……した日に、わ、わたし、マティアス様に、どうかおやめになってくださいと……奥様に、酷いことなさらないでくださいと、言おうとしたら……奥様に、じゃ、邪魔だと、突き飛ばされて」
決意も空しく、あっという間にしゃくりあげ始めたキャシーはまだ10代だと聞いた。確か、ルディアナと同い年だ。10代の女性に、リョウヤは特に甘い気がする。
「最初は、その……驚きすぎて、やっぱり嫌われてしまったのかなって、混乱、したのですけれども……でも、これまでの奥様のことを色々考えたら、きっと奥様は私のことを、かっ、庇おうと……して、くださったんだって、思って」
ほろほろと、キャシーが涙を流す。リョウヤのために泣いているのか。キャシーの話を右から左に流しているような顔をしておきながら、アレクシスはしかと、彼女のたどたどしい話に耳を傾けていた。
俯き加減になっていたキャシーが、ばっと顔を上げた。
「お、奥様は! 誰にも、気を使わせないために……誰かを庇うためにご自分が、誰にも気を、使っていないようなフリをするお方です。旦那様……」
気を使わせないよう、気を使っていないフリをする、か。
随分と的を射た発言だと思った。
キャシーは、わかっているのだ。こんな小娘さえわかるようなことを見てこなかったのは、アレクシスだ。
「誰かのために、ご自分の評価を平気でお下げになる、お方です。確かに、て、貞淑な奥方とは、言い難いかもしれませんっ……ですが、旦那様は誤解なさっています。奥様は、優しいお方です」
誤解、か。リョウヤは未だに花瓶のことを話さない。アレクシスが知っていることを知らない。故意に、アレクシスに誤解させようとしているままだ。
確かにその言動も行動も、貞淑な妻とは程遠い。しかしそこがリョウヤの本質ではない。
「ですから旦那様、どうか、どうか、奥様に、やっ──優しく、してあげて、ください……っ」
最後は震えていて、ほとんど消え入りそうな声だった。
もういいと言う前に、涙を散らしながらがばっと一礼をして去っていくキャシーの背中は、怒りにだろうか、ガチガチに強張っていた。
仕事を切られることを覚悟の上で、アレクシスに物申しに来たのだろう。肩が下がる。
「旦那様。キャシーは今後どういたしましょうか。まだ日も浅く時折ミスが目立ちますが、ああ見えて仕事は丁寧で、統率力もあり行動も早く、思い切りのいいメイドです。家政婦長は随分と目をかけているのですが……」
「……これの傍に、戻せ」
おまえに任せるとは、もう言えなかった。
「そうでございますか。では、奥様には最低限のお食事さえ与えていればいいというご命令は、継続されますか?」
アレクシスの返答などわかり切っているだろうに。また、ため息が漏れた。
「これが食べやすいものを出せ。どうしても吐くというのであれば、一日に何度かに分けて小出しにしてもいい……落ち着いてきたら、僕と同じものを」
「かしこまりました」
どことなく、クレマンの声は嬉しそうだ。
「ふん。こうも頻繁に体調を崩されれば、孕むものも孕めんからな」
取ってつけたように落とす。これはもはや、アレクシスの癖だった。
「はい、その通りでございますね」
クレマンの髭が柔らかく下がっていることすら気に食わなくて、肘起きに肘を付き、頬を支えた。それでも視線の先には、もうずっとリョウヤがいる。
「徐々にですが、奥様のそういうところを、使用人もわかってきたようです」
怒りに任せてリョウヤを馬車から引きずり下ろした時も、いつもであれば素早くアレクシスの命令に従う御者のユリエットも前に出てきて、アレクシスに何かを訴えようとしてきた。
憤怒も露わに睨みつけて黙らせたが。
キャシーと同じようなことを、言おうとしていたのかもしれない。
「奥様は本当に、弱さというものを見せようとしないお方ですね」
それが故意か無意識かは判断しかねますが、とクレマンは続けた。
現に、倒れてしまうほどの高熱が出ていることを、リョウヤは一切伝えてこなかった。そういったところを見せないよう、ギリギリまで踏ん張っていたのだろう。
確かに体は熱く、顔も耳まで赤かったが、それはアレクシスの与える快楽に染まっているからだとばかり思っていた。これは完全にアレクシスの失態だった……仮に、怒りで頭に血が昇っていたあの状態で、リョウヤから調子が悪いと訴えられていても、行為を中断していたかはわからないが。
「……困った方、ですね」
今の一言は、アレクシスに対しても向けられたものだろう。
わかっている、と。
アレクシスは完全に這い出てきた苦虫を噛み潰した。
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今晩、もう数話投稿できるかもしれません。
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