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前篇
落ちる(3)
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「どうにも、見えん。物は物だ」
「視野狭すぎ」
「……あの花瓶を、馬鹿にしていたのはどこのどいつだ?」
「は? 馬鹿になんかしてねーし。モンモンの花瓶だって、見方によっちゃあいい面もあるんだと思う。ただ、俺がまだそれに気付けてないだけで。ああいうのを好む人のことをとやかく言うつもりはないよ、人それぞれだもん」
アレクシスは、まだ火が赤く唸る煙草を咥えなおすこともできなかった。部屋に、煙が充満し始める。
「窓、開けていい?」
「あ──、ああ」
数歩離れた距離にいたリョウヤがアレクシスの直ぐ隣にきて、窓の枠をかたんと外した。
片手で、大きな窓を押し開く。
その瞬間、周囲に滞っていた煙が渦を巻き、勢いよく引っ張られて行った。リョウヤが開け放った窓の、外側へと。
代わりに些細な不純物でさえも、ぱっと溶かしてまるめて清純なものへと変えてしまうような、青々とした空気が入り込んできた。
頭一つ分以上、低い位置にある黒いつむじ。
透明感のある白いカーテンがふわりと風でなびき、真横にいるリョウヤの黒髪を攫う──何故今、自分は目を細めたのか。
アレクシスは、新鮮な空気を目を細めて享受するリョウヤの横顔から、目が逸らせなかった。
「人それぞれなんだよアレク……だからそれさ、吸うのやめたら?」
「──は?」
「だって不味いんだろ?」
リョウヤの視線は外に注がれていたが、「それ」が何を指しているのかはすぐにわかった。
「葉巻が、か」
「うん。初めて見た時から、死ぬほど不味そうに吸ってんなって思ってた」
こてんとリョウヤが首を傾げ、アレクシスを見あげた。
「ちげーの?」
唇が、「ち」の形で止まる。違うのか、違わない、のか。
これまで、己の嗜好について真面目に考えたことがなかった。貴族社会で生き抜くための嗜みなのだから、快も不快もない。ただ周囲に合わせて口に含んでいただけだ。
不味い、わけではないはずだった。だというのに答えることができなかった。
「……あんたって時々、無理してるように見えるね」
ふとリョウヤが目を伏せた。黒い睫毛が、象牙色の頬に影を作る。
「前にも言ったけどさ、俺はおかしいと思ったことにはこれからも反論するよ。理不尽は到底受け入れられないし、やられっぱなしは絶対に、絶対に御免だ。でも……でもさ」
リョウヤは、何かを決心したかのように再び顔を上げた。嘘偽りのない、真っすぐな顔だった。
「成り上がりは、言っちゃ駄目な言葉だった。もう二度と言わない。ごめん」
見事に、面食らう。
「どういう風の吹きまわしだ」
こいつは頭がおかしいのかと思った。自分を乱暴に扱う相手に謝るか、普通。
「別に、悪いなと思ったから謝っただけ。地雷の上でタップダンスぶちかました自覚はあったしね。そりゃ、あんたはクソ野郎の人でなしだし、プライドも高いしすぐに怒って手も足も出る癇癪持ちのおこちゃまクソ野郎だけど」
「謝る気があるのか?」
「でも──でも、あの言葉は言っちゃ駄目だった。あの時俺は、あんたをわざと傷つけようとした。シュウイチさんの前で見え張って、あんたを頭ごなしに否定した。あれは反論じゃない。そういうのは……違う」
リョウヤは破片をきゅっと手で包み込むと、祈るように目を伏せた。
「だからごめん。本当に、悪かった」
その声は、微かに震えている。アレクシスはというと、あっけにとられて二の句が継げなくなっていた。その沈黙をどう捉えたのか、リョウヤはこわごわとまぶたを上げて。
「罰……ある?」
リョウヤの視線の先には、アレクシスが指で挟むだけになっていた葉巻煙草の赤が、リョウヤの黒に反射してよく燃えていた。
その目に宿るのは、諦めか。
これまでのアレクシスであれば、視界にする入らなかった気付きだ。
リョウヤは思ったことをハッキリと口にするが、その実、従順だ。今だって、あれほどの無体を強いたアレクシスから逃げるでもなく、ただそこにぼうっと突っ立っている。
以前と同じように、煙草の先を押し付けたのならどんな顔をするのだろう。
変わらず、ああいえばこういう態度を貫くのだろうか。
そんなことを考えながらも、アレクシスは──目まぐるしく、この煙草の先を押し付けない言い訳を探していた。
リョウヤの手のひらの真ん中。生涯消えないであろう火傷の痕が残っているその上には、今は陶物の破片がある。
アレクシスが好んで集めた……アレクシスの、ひとつが。
「──ふん。おまえごときに使う煙草はない」
「え?」
「なにをしたっておまえの口は塞げないからな。時間と労力の無駄だ。もう二度と……しない」
あえて眉間にしわを寄せ、吐き捨てた。リョウヤの、どんぐりのような目が零れ落ちそうなぐらいまんまるになった。まんまるく咲いた、花みたいに。
目の奥が引っ張られ、きゅうっと耳の奥が絞られた。妙な感覚に戸惑い、ばっとリョウヤから視線を外す。
しかし視界の端ではリョウヤの表情を伺っていた。リョウヤは、じわじわとその口許を緩めると。
「……なんだよ、あんたやっと気付いたの? 遅すぎだろ」
笑みとまではいかないが、片鱗が見えた──どくんと、心臓の鼓動がひとつ、大きく弾けた。
「はいこれ、返すね」
手渡された陶物の破片を反射的に受け取る。軽く握れば、リョウヤの体温で、あたたまっていた。冷えた手のひらに、じんわりと染みる。
右手には葉巻、左手には欠片。両手が塞がってしまった。
「なあ、もうちょっとここにあるの見てもいい?」
「……いちいち聞くな。好きにしろ」
アレクシスは葉巻を窓枠のくぼみに置き、火を消した。
「視野狭すぎ」
「……あの花瓶を、馬鹿にしていたのはどこのどいつだ?」
「は? 馬鹿になんかしてねーし。モンモンの花瓶だって、見方によっちゃあいい面もあるんだと思う。ただ、俺がまだそれに気付けてないだけで。ああいうのを好む人のことをとやかく言うつもりはないよ、人それぞれだもん」
アレクシスは、まだ火が赤く唸る煙草を咥えなおすこともできなかった。部屋に、煙が充満し始める。
「窓、開けていい?」
「あ──、ああ」
数歩離れた距離にいたリョウヤがアレクシスの直ぐ隣にきて、窓の枠をかたんと外した。
片手で、大きな窓を押し開く。
その瞬間、周囲に滞っていた煙が渦を巻き、勢いよく引っ張られて行った。リョウヤが開け放った窓の、外側へと。
代わりに些細な不純物でさえも、ぱっと溶かしてまるめて清純なものへと変えてしまうような、青々とした空気が入り込んできた。
頭一つ分以上、低い位置にある黒いつむじ。
透明感のある白いカーテンがふわりと風でなびき、真横にいるリョウヤの黒髪を攫う──何故今、自分は目を細めたのか。
アレクシスは、新鮮な空気を目を細めて享受するリョウヤの横顔から、目が逸らせなかった。
「人それぞれなんだよアレク……だからそれさ、吸うのやめたら?」
「──は?」
「だって不味いんだろ?」
リョウヤの視線は外に注がれていたが、「それ」が何を指しているのかはすぐにわかった。
「葉巻が、か」
「うん。初めて見た時から、死ぬほど不味そうに吸ってんなって思ってた」
こてんとリョウヤが首を傾げ、アレクシスを見あげた。
「ちげーの?」
唇が、「ち」の形で止まる。違うのか、違わない、のか。
これまで、己の嗜好について真面目に考えたことがなかった。貴族社会で生き抜くための嗜みなのだから、快も不快もない。ただ周囲に合わせて口に含んでいただけだ。
不味い、わけではないはずだった。だというのに答えることができなかった。
「……あんたって時々、無理してるように見えるね」
ふとリョウヤが目を伏せた。黒い睫毛が、象牙色の頬に影を作る。
「前にも言ったけどさ、俺はおかしいと思ったことにはこれからも反論するよ。理不尽は到底受け入れられないし、やられっぱなしは絶対に、絶対に御免だ。でも……でもさ」
リョウヤは、何かを決心したかのように再び顔を上げた。嘘偽りのない、真っすぐな顔だった。
「成り上がりは、言っちゃ駄目な言葉だった。もう二度と言わない。ごめん」
見事に、面食らう。
「どういう風の吹きまわしだ」
こいつは頭がおかしいのかと思った。自分を乱暴に扱う相手に謝るか、普通。
「別に、悪いなと思ったから謝っただけ。地雷の上でタップダンスぶちかました自覚はあったしね。そりゃ、あんたはクソ野郎の人でなしだし、プライドも高いしすぐに怒って手も足も出る癇癪持ちのおこちゃまクソ野郎だけど」
「謝る気があるのか?」
「でも──でも、あの言葉は言っちゃ駄目だった。あの時俺は、あんたをわざと傷つけようとした。シュウイチさんの前で見え張って、あんたを頭ごなしに否定した。あれは反論じゃない。そういうのは……違う」
リョウヤは破片をきゅっと手で包み込むと、祈るように目を伏せた。
「だからごめん。本当に、悪かった」
その声は、微かに震えている。アレクシスはというと、あっけにとられて二の句が継げなくなっていた。その沈黙をどう捉えたのか、リョウヤはこわごわとまぶたを上げて。
「罰……ある?」
リョウヤの視線の先には、アレクシスが指で挟むだけになっていた葉巻煙草の赤が、リョウヤの黒に反射してよく燃えていた。
その目に宿るのは、諦めか。
これまでのアレクシスであれば、視界にする入らなかった気付きだ。
リョウヤは思ったことをハッキリと口にするが、その実、従順だ。今だって、あれほどの無体を強いたアレクシスから逃げるでもなく、ただそこにぼうっと突っ立っている。
以前と同じように、煙草の先を押し付けたのならどんな顔をするのだろう。
変わらず、ああいえばこういう態度を貫くのだろうか。
そんなことを考えながらも、アレクシスは──目まぐるしく、この煙草の先を押し付けない言い訳を探していた。
リョウヤの手のひらの真ん中。生涯消えないであろう火傷の痕が残っているその上には、今は陶物の破片がある。
アレクシスが好んで集めた……アレクシスの、ひとつが。
「──ふん。おまえごときに使う煙草はない」
「え?」
「なにをしたっておまえの口は塞げないからな。時間と労力の無駄だ。もう二度と……しない」
あえて眉間にしわを寄せ、吐き捨てた。リョウヤの、どんぐりのような目が零れ落ちそうなぐらいまんまるになった。まんまるく咲いた、花みたいに。
目の奥が引っ張られ、きゅうっと耳の奥が絞られた。妙な感覚に戸惑い、ばっとリョウヤから視線を外す。
しかし視界の端ではリョウヤの表情を伺っていた。リョウヤは、じわじわとその口許を緩めると。
「……なんだよ、あんたやっと気付いたの? 遅すぎだろ」
笑みとまではいかないが、片鱗が見えた──どくんと、心臓の鼓動がひとつ、大きく弾けた。
「はいこれ、返すね」
手渡された陶物の破片を反射的に受け取る。軽く握れば、リョウヤの体温で、あたたまっていた。冷えた手のひらに、じんわりと染みる。
右手には葉巻、左手には欠片。両手が塞がってしまった。
「なあ、もうちょっとここにあるの見てもいい?」
「……いちいち聞くな。好きにしろ」
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