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第六章
夫が帰って来ない
しおりを挟む――夫が帰って来ない。
はぁ、とため息をつくと、メイドのハンナが目の前にカップを置いた。夜も遅いからと、中身は紅茶ではなくカモミールティーだ。
「旦那様はもうじき帰って来ますよ」
「……そうかしら?」
ルーナは口を突き出して眉を寄せた。夫であるレオンハルトは仕事だとかで、デート中だったにも関わらず、妻をほっぽり出して王宮へ行ってしまった。
帰って来たら、うんと拗ねて困らせて、機嫌を取ってもらうつもりだった。
なのに、もう夕食時も過ぎて、ルーナは湯浴みまで終えてしまった。
まさか今夜は帰らないつもりだろうか?
「……今頃王女様と楽しく過ごして、私のことなんか忘れてしまっているかも」
急ぎの仕事であれば仕方ない。仕方ないけれど、今日という日を楽しみにしていた分、落胆が大きくて。思わず去り際に可愛くない態度を取ってしまった。
年上なのに、お姉さんなのに。
理解のない妻のルーナに呆れて、レオンハルトは今頃王女様にデレデレ鼻の下を伸ばしているかもしれない。
だって、レオンハルトは元は王女のことが好きだったのだ。
「……王女様、とっても綺麗だったわ」
こんな綺麗な人を、私は殺してしまうのかしら。
初めてナディア王女に会った時、ルーナは他人事のようにそう思った。
金色の絹のようなサラサラの髪に、アクアマリンの瞳。動くたびに花が舞うような可憐さは、まさに春の妖精のようだった。本当に、綺麗だった。
レオンハルトがかつて王女を愛していたと、はっきりと明言されたわけではない。だが王女のことを愛していなければ、王女を守る為に魔女と結婚しようなどと思うまい。
今はルーナを好きだと言ってくれたけれど……仕事であろうとその王女に会いに行ったのだと思うと、胸が張り裂けそうに痛むのだ。
「まさか。旦那様は奥様にくびったけじゃありませんか」
「……レオンが? 私に?」
「えぇ、いつも仏頂面で無愛想な旦那様が百面相するのはいつも奥様がいらっしゃる時だけですわ」
「百面相……ふふ」
ハンナの言う通り、夫は歳の割に落ち着いている。悪く言えば仏頂面、良く言えば冷静沈着。
初めて会った時の印象は、「綺麗な顔だけど、つまらなさそう」だった。
だけど、レオンハルトと過ごすうちに、レオンハルトは案外面白い人間であると気付いた。
からかえばムキになって怒るし、ルーナに冷たくしようと努めていても、ルーナが大袈裟に悲しむと露骨に動揺する。
レオンハルトは実は優しくて、素直な少年なのだ。しかしいかんせん不器用で、……でも、その不器用なところにルーナは惹かれていった。
「可愛いわよね……レオンって」
真っ赤な林檎のように顔を赤らめる夫を思い出すと自然と笑みが溢れた。
冷たくなりきれないこの優しい少年が、心からの笑顔で自分に笑いかけてくれたらどんなに嬉しいだろうか。そう思ったが最後、レオンハルトをどんどん好きになってしまった。
何か裏があるだろうことは分かっていた。じゃないと、魔女である自分と結婚しようなど、普通は思わないだろうから。
レオンハルトが自分を愛するつもりはなくても、結婚してくれるだけで御の字だった。
結婚して父親を安心させることが、なによりの親孝行だと思っていたから。
せめて友人くらいにはなりたいと、積極的にレオンハルトに話しかけたり、食事に誘ったりしているうちに、本当に好きになってしまった。
レオンハルトも、そのうち満更ではないような態度を取るから……つい、両思いになったんだと浮かれてしまった。
そして知ってしまった。王女様と夫の、ただならぬ関係……。
「旦那様は浮気なんてされるような方じゃありませんよ。あの方、貴族っぽくありませんし……」
「えぇ、そうね……」
王女が相手じゃなかったら、ルーナも自信を持って頷けただろう。
だが、屯所で見た、レオンハルトと王女が見つめ合う姿を思い出すと、自信がなくなってしまうのだ。
レオンハルトは王女の騎士だった。
恐ろしい"魔女"と結婚するくらい、命すら投げ出してしまうくらい、王女のことを大切に思っていたはず――。
そんな相手に、勝てるだろうか。
王女様を殺すと神殿で告げられ、国民全員に忌み嫌われている、王国の敵の"魔女"が、国民全員から愛されている王国の宝である王女に――。
「奥様……奥様らしくありません」
「ハンナ……?」
「奥様は、いつでも明るく笑っていなければいけません」
「……手厳しいわね」
「ツェーリンゲン公爵様も、そう仰っていらっしゃったじゃないですか」
お父様は、ルーナに「いつも笑っていなさい」と言った。そうすれば、闇が祓えるからと。心の隙間から入り込んでくる闇に呑み込まれる前に、笑って闇を祓いなさいと。いつも明るくいれば、負けないからと。
「そうね……」
急に父に会いたくなった。
ルーナを産んだと同時に亡くなってしまった母。恨んでもよかったはずなのに、父はルーナを愛して慈しんで育ててくれた。
父の愛はルーナをいつも強くしてくれる。
「……帰ってくるわよね」
「はい、今に大慌てで帰ってらっしゃいますよ」
「埋め合わせは何にしてもらおうかしら? 楽しみだわ」
ルーナとハンナは顔を見合わせてくすくす笑い合った。ルーナの提案に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるレオンハルトを想像すると面白かった。
そのうち帰ってくるだろう。
楽観的に思い直したルーナであったが、その予想を裏切り、夜を明かしても、結局レオンハルトは帰って来なかった。
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