大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

2.非日常はすぐそこに

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 程なくして届けられた紅茶のカップを傾けて、焔さんはフードを下ろした。三つ編みにされた黒髪がさらりと揺れるところまで、本当に綺麗な人だ。

「最後に会ったのが、路地裏が閉店する日だから……。そろそろ2ヶ月というところかな」
「そうですね、すごく久しぶりな気がします」
「そうだね。……うん、梨里さんが元気そうで、安心したよ」

 そう言って机向こうで優しい笑みを見せる彼に、自然と肩の力が抜ける。私も上手に笑えているだろうか。

「焔さんもお元気そうで、私も安心しました。今日はお買い物ですか?」
「うん、本屋を何件か回ってきたんだ。……癖で路地裏にも寄ってしまって、ちょっと寂しくなってしまったよ」

 少し恥ずかしそうにはにかむ彼に、少しだけ胸が苦しくなる。
 そんな彼を見ていられなくて、視線を落としたカップの中には、寂しそうな自分の顔。

「ありがとうございます。……それだけ、路地裏のこと気に入ってくれていたんですね」

 自分の大切だった場所を、そうして懐かしく思ってくれていることが、嬉しい。
 照れ隠しにまた一口、コーヒーを飲む。
 それからしばらく、お互いに最近読んだ本の話をしていたのだけれど、ふと自然な流れのまま、焔さんがついに、その話題を出してきた。

「そういえば、仕事、まだ見つかってないのかな?」

 一瞬、私の動きが不自然に止まる。さっき手早く片付けた求人雑誌は、ばっちり見られていたようだ。
 ……やっぱり、気になる、よね……。
 閉店のときも気にされていたし、聞かれるかもとは思っていたけれど、やっぱりその話題になってしまうのか。
 もう、正直に話しちゃっても、いいかぁ……。
 逡巡したのは僅かの間だけ。私は諦めて、静かに息を吐いた。

「……はい。実は、見つかっていないんです」
「君ぐらいの歳で、きちんと仕事もできる女性なら、色々と職はあると思うのだけど……。何か、こだわりがあるのかな」

 鋭い。正論だ。
 確かに、世の中にはいろんな仕事があって、選ばなければ職はいくらでもある。

「選ばなかったら、沢山ありますよね」

 静かに答える私の言葉の続きを、彼はじっと待ってくれているようだった。
 その優しい雰囲気に誘われたのか、私自身疲れてしまっていたのか判断はつかないけれど。

「……私、すごく、我が儘なんです」

 ぽつりぽつりと、私は胸の内をこぼしてしまっていた。

「私には、苦手なことが沢山あって……。そういうのを気にしないで仕事ができる職業に就きたくて、でも、やるからには好きなことに関係していて欲しいし……。すごく都合が良かったのが、図書館の職員、だったんです」
「うん」
「本も好きで、苦手なものも気にしなくて良さそうで……。でも、実際に働いてみた図書館では、やっぱり仕事がうまくいかなくて。そんなときに、佐久間さんに声を掛けてもらって、路地裏で働いていました」
「路地裏では、すごく楽しそうにしていたね」
「はい。人も少なくて、静かで、本当にわたしにとって、とてもいい場所でした。……だから、なのかな。もう、他の場所で働くのが……、怖く、なってしまって」

 どれだけ色々な求人を探してみても、私の『苦手』を避けて働くことは難しそうだと思ってしまうのだ。

「……」
「本当に、我が儘ですよね。苦手、とか、我慢すればいいだけなのに」

 誤魔化すように弱々しく自嘲するけれど、ちらりと盗み見た焔さんは、ちっとも笑っていなかった。

「すみません、面白くもない話してしまって」
「あ、いや……。うーん」

 焔さんは、何やら考え込むように、拳を口元に当てている。

「? 焔さん……?」

 首を傾げる私に、彼がようやく顔を上げる。綺麗な黒い瞳と目が合った。

「差し支えなければ、なんだけれど……。梨里さんの苦手って、どんなものか聞いても?」
「えっと……、純粋に人が多いものとか、人と接する事が苦手、ですかね……」
「ふむ。それで、『路地裏』みたいに、静かで本に囲まれてると尚良し、って感じかな」
「え? まぁ……そうですね、そうだと素敵です」
「ちょっと質問ばかりで申し訳ないんだけれど、君の理想の図書館、ってどんな感じなんだろう。教えて」

 何のためにこんなことを聞かれているのか、わからないけれど。
 自分の理想の図書館、という言葉は、私の心の琴線に触れたようだ。
 ちょこんと跳ねた自分の心に、想像が広がっていく。
 理想の図書館……どんなところがいいだろう。

「……沢山の本があって、静かで……。人気がないような、場所で」
「うん」

 静かに促してくれる声に、そっと目を閉じる。

「集中して読書ができて、時間を忘れられるような……クラシックな感じの図書館だったら、いいなと思います。自分の世界に没頭できるような」
「うん、素敵だね」
「……まぁ、所詮は理想、なんですけどね。大きい図書館は大抵、多くの人に開放されていますし。そうなると、どうしても人の気配が気になってしまいますから」

 照れくささを取り繕いながらも、そんな理想の図書館があればいいのに、と本気で思ってしまう。
 そんな静かな場所で、物書きをしながら、本の管理をして、ゆったり過ごす。
 あぁ……そんな仕事があるなら、もう一生そこで働いていたい。

「夢は夢、ですよね。実は、そろそろ諦めようかなと、思っていたんです」
「諦める?」
「どこかの仕事につくか、本当は気が進まないんですけど、実家に帰る、とか。……都会でひとり暮らししていると、どうしてもお金がかかってしまうので」

 最近よく考えることではあったけれど、言葉に出してみると、ずしりとその重みがのしかかってくる。
 話しながら私は、自然と俯いてしまっていた。膝の上で堅く握っていた両手を見下ろしつつ、人前だというのに深い溜息をつきそうになってしまって、ぐっとこらえる。
 なんだか今日は、情けないところばかり見せてしまって、頭を抱えたくなってきた。
 そんな私の頭上に、ちょっと堅めの優しい声が降ってくる。

「ねえ、梨里さん。これは、ひとつの提案――、なんだけれど」
「はい」
「君の理想の図書館に、少々心当たりがあるんだ」
「え……」

 驚いて顔をあげると、またあの真剣な瞳と目が合った。

「仕事内容は、そこの館長の手伝いをすること。手伝いといっても、ほんの少しの雑事があるかないかってくらいだから、仕事中も好きなときに自宅に戻っていいし、呼ばれるまでは館内の本を好きに読んで、好きなことをしていてくれればいい。毎食ご飯付きで、生活力が乏しい館長の補佐をするだけって、どうだろう?」
「え、ええ?」
「勤務地がちょっと……いや、かなり遠くなるけど、大丈夫、自宅を引っ越す必要もないし、面倒な手続きもいらない。ああ、毎月の給金もしっかり出すよ。ひとり暮らしでも不自由させないくらいには出せると思う」
「ちょっと、ちょっとまって」
「そろそろ、人と関わらないのも刺激が足りなくなってきたしね。うん、梨里さんなら僕も安心できるし、どうかな?」
「ほ、焔さん、待って!待ってください!」
「ん?」

 勢いに押されて、ぐるぐるしてしまった。混乱しながらも聞いた仕事の内容は、すごく良く聞こえるけれど。……うまい話すぎて、逆に危ないのでは?と、突然のことに混乱した頭の片隅で、焦っている自分もいる。
 ちょっと、待って。一度落ち着かないと。

「それは、えっと。その、焔さんの心当たりの図書館で、働かないかという……?」
「そう。スカウト、みたいなものかな」

 頬杖をついてこちらを見つめる焔さんは、きらきらとして少年のような表情をしていた。

「あの、お話は有り難いのですけど、有り難すぎるというか、なんというか……」
「うん? 何か不満なところがあった?」
「いえ、不満なんじゃなくて、好待遇すぎて逆に不安ですよ?! そんな言い方じゃ、ほぼ自由にしているだけでいい、ように聞こえますし……」
「まあ、実際にそうだからね。お願いすることといえば、ちょっと別の人に書類を届けてもらうとか、来客があったときに取り次いでもらうとか、そんなことくらいだろうし。ああでも安心して。そんな頻繁にあるわけじゃないし、他に担当の人がいるから。基本はその人から聞いたことを伝えてもらうだけになると思うんだ」
「は、はぁ……」
「こうして欲しいってことがあれば、言ってくれたら可能な範囲で叶えるし、苦手だとか嫌だってことは絶対させないから。そういう環境なら、君も安心して働けるだろう?」
「う、まぁ……。でも、そんなおいしい話があるわけないじゃないですか……。逆に怪しいですよそれ。一体、どこの図書館なんですか?」
「僕の図書館だよ」
「……へ?」
「僕が館長をしている、僕の図書館」

 なんだか、驚くことばかりでくらくらしてきた。
 びっくりして固まっている私を、焔さんは優しく見つめてくる。

「堀川梨里さん。僕の図書館で、館長である僕の秘書をしてもらえませんか?」

 ひくりと、喉が引きつった。
 どくんと鼓動が跳ねて、目をいっぱいに見開いて、彼を見つめる。
 何だろう、この感覚。
 一気に視界が狭まったような感じがして、全身が固まってしまって動けない。

「っ――」

 うまく返事が出来ずにいる私に気分を害することもなく、焔さんは優雅に紅茶を傾ける。

「ごめんね、急な話じゃ、君が戸惑うのも無理はない」
「えっ、と……は、い。すみません」

 ようやく言葉を発することができても、間の抜けた返事しか返せない。
 落ち着いて、私。深呼吸、しなきゃ。

「そんなに簡単には決められないよね。図書館で働くことになったら、毎日『僕の世界まで通って』もらうことになるし」
「……は、い?」

 今また、理解の限界を軽々と飛び越える単語が、聞こえた気がする。
 テーブル越しにこちらに身を乗り出しながら、まるでとっておきの秘密でも話すかのように、焔さんは楽しそうに小声で囁く。

「驚くと思うけれど、僕は、異世界の住民なんだ」
「……」
「だから、君が秘書を引き受けてくれるなら、毎日異世界に出勤してもらうことになる。ああ、安心して。よくある小説みたいに、元の世界に帰れない、なんて事態にはならないよ。ちゃんと僕が、道を作るから。君はいつでもこの世界に帰ってこれる」
「……」
「驚く……よね。 まぁそうか。普通の人がいきなり異世界なんて単語を聞いても、信じられないかな」
「そう、ですよ……」

 人間、驚きすぎて、その上混乱しすぎると、変なスイッチが入るようだ。
 私は、ぎしぎし音を立てそうな動きで焔さんと視線を合わせる。こわばった口元も、ゆっくりとだが動くようだ。

「驚きますよ。そんな、突然異世界だとか。……いくら焔さんでも、私のことそんな風にからかうのは、ちょっと、いくら私だって、怒りますよ」
「……予想の範疇の回答だね」

 ちょっと眉尻を下げて苦笑する彼は、それでもまっすぐな瞳をしていて、……嘘をついているようには見えないのだ。
 そんなに平然とされるとつい、本当のことなのかと、流されてしまいそうになる。

「それでもね、梨里さん。僕、嘘をついているわけじゃないんだよ」
「信じられません。異世界だなんて……」
「全部空想の中にしかないものだって、そう思ってる?」

 焔さんの声は、とても真摯に届く。だから、完全に嘘だと思えない自分も、いる。

「僕の言葉を信じずに、断ってくれても構わないよ。……でも、ちょっとだけでもいい。信じてくれる気になったなら、」

 すっと、彼の腕が私の手に伸びてくる。

「……その時は、僕を信じてくれた君のことを、大切にするって約束するよ」

 彼の手が触れた左の手首に、微かに違和感を感じて視線を落とす。
 そこには、先ほどまではなかった、華奢な細工のブレスレットが輝いていた。

「! 焔さん、これ――」
「明後日、また返事を聞きにくるから。そのときまでつけていて」

 いつの間に、彼のティーカップは空になっていたのだろう。
 机の上に代金を置いて、フードを被り直しながら、焔さんが席を立つ。

「あのっ」
「梨里さん、最後に一つだけ」

 追いかけるように席を立って、それでも足が前にでない私に、彼が振り返る。

「非日常というものは、いつだって、日常のすぐ側にあるものだよ」
「!」
「あと一歩を踏み出すかどうか、それは全部、君次第だ」

 それだけ告げて、焔さんはいつものような優しい微笑みを残して、背を向ける。

「――っ」

 彼は、決して早く歩いていたわけでも、私から逃げるように去ったわけでもない。
 私が、一歩を踏み出せなかったから。
 その日私は、焔さんの背を追いかけることができなかったんだ。



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