大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

4.契約書にサインを

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 時間とは、残酷なもので。
 あっという間にその日はやってきた。

「……」
「朝からずーっとその顔してるな。不細工だぞ」

 深皿から優雅に紅茶を飲みながら、今日もこの黒猫は人語を話している。

「失礼ね、生まれつきこの顔です」
「そーかそーか」

 適当に流すように相づちを打ちながら、ぺろぺろ前足を舐める姿が憎らしい。
 衝撃的なあの日から、2日。
 焔さんが、答えを聞きに来る日がやってきていた。
 軽く昼ご飯を済ませて、私は重い腰を上げる。
 テーブルに置いていたいつもの伊達眼鏡を掛けて、軽く覗き込んだ鏡にはひどく緊張した自分の顔。
 しっかりして、私。

「お? どっかいくのか?」
「あの時のカフェに行く。焔さん、場所まで言わなかったから」

 ゆらりとしなやかに揺られたアルトの尾が視界の端に映る。手早く身支度を済ませて外に出ると、どんよりした灰色の空の下、少しだけ肌寒い風が通り過ぎていった。





 自宅から5分ほど歩いた場所にあるカフェは、昼時を少し過ぎた時間でもちょっと混雑しているようだった。
 そういえば、飲食店に猫……と思ってアルトを見るけれど、彼曰く、彼の姿は他の人には見えていない、らしい。
 恐る恐る店内に足を踏み入れてみるけど、確かに誰もアルトのことは見えていないようだった。アルトが他の人の足にちょっかいを出しても、はたまたその足を踏みつけたりしても、誰も反応しない。
 ちょっと得意げなアルトに「もういいから」と声を掛けながら、目的の相手を探して視線を巡らせた。

「焔さん、来てるかな……」

 私の肩に陣取っていたアルトが同じように店内をキョロキョロとして――お、と小さな声を出した。

「リリー、あれ。あそこの隅の席」

 器用に尻尾で指された方を見れば、此方にひらひらと手を振る焔さんと、見知らぬ男性が窓際の席に座っている。
 軽く手を振り返してから、先にカウンターでカフェオレとアルト用の紅茶を注文した。少し肌寒いくらいのこの陽気に、温かな飲み物が欲しくなったんだ。
 渡された飲み物を持って、一度心の中で気合いを入れ直す。
 意を決して二人の席に近づいていくと、焔さんはにこにこといつも通りの笑顔で迎えてくれた。

「こんにちは、梨里さん」
「……こんにちは」

 それに返事をする自分の声が若干固くて、語尾が微かに震える。……緊張している、らしい。

「どうぞ、そちら側座って」
「はい」

 席に着くと、肩の上から降りたアルトが紅茶を飲み始める。その様子を眺めながら、ふむ、と軽く顎に片手を添えて、焔さんが頷いた。

「アルトとは普通に接しているみたいだね」
「最初はものすごく驚きました」
「申し訳ない。……でも、僕が話をするだけよりも、信じてくれそうだと思ったんだ」
「まぁ……。猫、普通はしゃべらないですし」
「少しは、信じてくれる気になった?」
「まだ、信じきれてはいないですけど……。アルトがしゃべるんだってことは、たぶん、理解できてると思います」
「そっか」

 ちょっとだけ甘くしたカフェオレを一口飲んで、ちらりと焔さんの表情を窺う。いつも通りの、優しい微笑みでこちらを見ている……けれど。
 彼は、異世界の人なのかもしれない。そういう気持ちがあると、どうしてもいつも通りに反応するのは難しそうだ。
 ふと視線を感じて、焔さんの隣に座る男性に目を向けた。先ほどから一言も口を開かない男性は、短い黒髪に黒縁の眼鏡を掛けていて、スーツ姿。まさしく、『どこにでもいそう』な風貌だ。その男性は、ちょっとだけ面白そうな顔でこちらを見つめていた。
 たっぷり数秒見つめ合ってしまうけれど、一向に話しかけてくる気配がない。
 いやいや、初対面の相手と見つめ合ったままでいるのは、無理だ。
 気まずさと、このままで居たくない一心で、私は思い切って口を開く。

「……ええっ、と。それで、あなたは……?」
「ああ、失礼。焔さん、紹介してくれないか」

 男性の言葉に、焔さんが頷き返す。……よかった。やっとのことで視線を外して、こっそり息を吐いた。

「梨里さん、こちらは、異世界管理課の境さん。異世界に渡る手伝いをしてくれたり、異世界の職を紹介してくれたりする機関の人なんだ」
「異世界……管理……?」

 聞いたこともない役職名に首を傾げる。そんな私の態度も気にせず、境さんはこちらに手を差し出した。

「初めまして、境と申します」
「あ、初めまして。堀川梨里……です」

 恐る恐る握手をするけれど、感触は特に、普通の人間のようだ。

「すみません、一般の方はご存じないですよね。特殊な仕事なんです」

 そうでしょうね、聞いたこともないよそんなの……。

「……リリー、顔に出てるぞ」
「え?!」

 隣のアルトからじと目をもらってしまうけれど、境さんは、はは、と軽く笑って手を振った。

「お気になさらず。怪しいですよね」
「いえ、あの……。はい、すみません」
「いいんです。一応、政府の職員なんですが、政府の中でも機密組織ということになってますから。知らないのが普通です」
「はぁ……」

 一度会っただけでは覚えられなそうな、平凡な容姿。
 アルトと遭遇する前の私だったら、絶対に怪しいセールスか何かだと思っていた。
 でも、今はしゃべる猫が目の前にいるんだから、なんでもありえるんじゃないか、と思ってしまう自分がいるのだ。

「普通の人はね、異世界管理課の手伝いがないと、異世界に移動はできないんだ。僕はちょっと特殊で、自分の意思で行ったり来たり出来ちゃうから必要ないんだけど。境さんには、いつも良くしてもらってるんだよ」
「本当に、焔さんには脱帽ですよ。定期的に連絡くれますし、こちらで異世界への移動を制限したりできるわけではないので、自由にして頂いてますが……」
「ええと、じゃあ今日、その、境さんがいらしているのは……」

 私が異世界に行くためですか、と。
 予想はついていても、まだ信じきれていない私は、最後まで口に出すことができない。
 焔さんの落ち着いた黒い瞳が、言葉にしなかった部分まで察してくれたように、優しく細められた。

「そうだよ。この前の話を受けてもらえるなら、ちょっとした手続きが必要になるから、来てもらったんだ」

 焔さんの言葉を受けてか、境さんが足下に置いていたビジネスバッグから、一枚の書類を取り出した。
 すっと目の前に差し出される書類には、つらつらと重ねられた文言の最後に、署名をする場所がある。どこからどうみても、契約書、だ。
 境さんが、とん、とん、と指先で文面を指しながら、説明をしてくれる。

「これが、異世界に渡る人に署名してもらっている契約書です。今回は渡りっぱなしではなくて、向こうと自由に行き来ができる契約になるので少し特殊ですね。……まず、向こうの世界の物を此方の世界に持ち込むのには、少しばかり制限がかかります。君以外の一般人の目に触れる形になるのは禁止事項に当たりますが、そうでない場合は量が多すぎなければ可となります。逆に、此方の世界の物を――」

 境さんは真剣な表情のまま、異世界と此方の世界を行き来することについて説明を続ける。まるで、特別なことなど何もないかのように。冗談を言っているようにも見えない。
 それを聞く今の私は、いったいどんな顔をしているのだろうか。……ちょっとだけ、情けない表情になってそうな気もする。
 ってだめだめ。集中しなくちゃ。
 淡々と説明される注意事項はそこまで多くはなかった。
 いくつかの禁止事項の他、向こうの世界で仕事をするということについて、お給料の説明もあった。
 給料は向こうの世界で使えるお金のほか、こちらの世界で使うためにも、きちんと振り込みがされるということらしい。
 説明を聞く限りでは、どこにも怪しいところなんてないけれど……。異世界という単語を除いて。
 説明があらかた済んだ頃合いを見て、焔さんがこほんと一つ咳払いをした。

「梨里さん」

 静かで優しい焔さんの声に、署名欄を見つめていた私の視線が、ぐっと視線が引き寄せられる。
 あの時のような真剣な瞳がこちらをじっと見つめていた。
 からからになった口の中。膝にのせてぎゅっと握りこんだ両手。

「どうだろう? 一歩踏み出す覚悟はできた?」

 ついに、この問いに答えなければいけない時がきた。
 この2日、どれだけ悩んだことか。何度も何度も、断ろうとも思った。
 ――でもその度に、心の底がざわりと騒ぐのだ。

「……私」

 あと一歩を踏み出すかどうかは、自分次第。
 あの時の焔さんの言葉が、頭の中からどうしても消えない。
 たとえこの話を断ったとしても、きっと何事もない毎日を過ごすことになるだけなんだろう。
 ――でも、もし。
 もしもここで一歩踏み出したら、私の何かが変わるんじゃないか。
 私の憧れる、本が大好きなこの人の『理想の図書館』を、この目で見てみたいという強い気持ちもある。
 しゃべる黒猫アルトは、焔さんの図書館を『異世界一の大図書館』だと言っていた。
 そんな場所が、本当にあるのなら。
 重くてとんでもなく勇気のいる一歩を、踏み出す力になるんじゃないか。
 そんな気持ちが、最後までどうしても消えてくれなかったんだ。

「焔さん、私」

 今だけ。今だけでいいから、勇気を出して。
 ぐっと顔を上げると、彼の期待に満ちた瞳と目が合う。
 思い切り息を吸って。ぐっとお腹に、力を込めて。

「私、あなたの図書館を、見てみたいんです」

 決して大きな声ではなかったけれど、しっかりと、一言ひとこと、噛み締めるように。

「あなたの図書館で、働かせてください」
「……ああ、大歓迎だ」

 嬉しそうに、満足そうに。
 彼はゆったり頷いた。

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