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第1章 大賢者様の秘書になりました
56.追ってきたのは
しおりを挟む早足に飛び込んだホール内は、ダンスに興じる貴族たちで賑わっていた。
ざわざわとした空気と熱気、酒や香水の混ざり合ったむわっとした甘い匂い。
それらを感じて、ほうっと息を吐くことになるとは思ってもみなかった。
ドレスからむき出した肩が粟立っているような気がして、軽く両手で摩る。
「オリバー、ありがとう……本当に助かったよ」
「どういたしまして。――こいつが、もうすぐ終わるって教えてくれてな」
「こいつ……?あ!」
オリバーの視線の先を追ってみると、彼の足下には見慣れた黒猫の姿があった。
焔さんと一緒に行ったはずのアルトだ。
「アルト……!」
つい1,2時間前に分かれたばかりだというのに、ものすごく久しぶりな気持ちになってしまうのは何故なのか。
「情けねーな。あんなのくらいズバッとあしらってやればいいものを」
ふう、と大袈裟に溜息を吐きながら、私の伸ばした手を踏み台にして、アルトが肩の上へと登ってくる。
定位置に腰を下ろしたアルトの尻尾がふわふわと頬を撫でてくると、強ばっていた身体が緩むような気がした。
「あしらうって……もう、相手も相手だし、大変だったんだから」
「お前だってあのイグニスの秘書なんだから、もっと自由にしてたって誰も文句なんぞないだろう、……たぶんな」
「えええ……イグニス様みたいな感じはちょっと……ハードル高いかな……」
確かに、焔さんのように嫌なものは嫌、とずばっと切り捨ててしまえれば、悩むこともなかったのだろうけれど。
そこまで肝が据わっている私ではない、と思う。
「まぁ何とかなったならいいけど。イグニスなら、そろそろ戻ってくるから。大人しくしてろ」
「……うん」
ぺしぺしと頬を叩くふわふわ尻尾がくすぐったい。
シャーロットとオリバーも、焔さんが戻ってくるという言葉にほっとした表情を見せた。
「イグニス様が戻ってきてくだされば安心ですわね」
「だな。あ、そうだリリー!お腹空いてないか?せっかくだし、何か食べながら待つのもいいんじゃないか?」
「……オリバー。それ、貴方が食べたいだけなのではありませんの?」
「そうとも言うな。そろそろお腹空く時間だろ?」
「確かにそういう時間ですけれど……もう、貴方という人は」
いつも通りの2人の会話に、思わず笑みが零れた。
「ふふ……そうだね、言われてみれば、私もお腹空いたかもしれな――」
「リリー!」
私の耳元で、アルトの威嚇するような声がしたのと、突然後ろから伸びてきた手が私の肩を掴んだのは同時だった。
ぐいっと強く引っ張られるような感覚に、後ろへとよろめく。
私の両肩を、ひんやりした手が受け止めた。
「――っと。すみません、慌てていてつい、強く引いてしまった」
「なっ……」
その声に、ぞわっと鳥肌が復活した。
――しまった、油断しすぎてしまっていたらしい。
「申し訳ない、お怪我は……ないですよね?」
「……っ離してくださいっ」
背後から覗き込むようにしてきた青い瞳に、逃げ出したい本音のまま咄嗟に身を捩る。
一度は肩を離してくれたけれど、その男――追いかけてきたシェーマス・サルビエロの手は、そのままいとも簡単に私の腕を捕まえてしまった。
先ほどの挨拶の一件があるから、彼に触れられても焔さんの守護魔術は発動してくれない。
よろめいた拍子に肩から落ちたアルトが、シェーマス・サルビエロへ毛を逆立て威嚇の姿勢を取るけれど、彼はそれをチラリと見やっただけで顔色すら変えなかった。
「すみません、驚かせてしまったなら謝るよ」
しれっとした笑顔でそんなことを言うシェーマス・サルビエロを、きっと精一杯睨み返した。
「……私は、離してくださいと申し上げました」
できるだけ平静を装った声で、そう告げる。
私の精一杯ですら、この男にはかすり傷にもならないらしい。
先ほどのように、口の端を少し持ち上げた愉快そうな表情で、握った私の腕を見せつけるように持ち上げてみせた。
「おや、初々しく気弱なお嬢さんかと思いましたが、なかなか、芯の強い方のようだ」
「そのように女性を軽んじるお言葉は、慎んだ方がよろしいと思いますけれど」
完全に遊ばれているような雰囲気を言葉の端に感じて、さすがにむっとする。
「まぁまぁ、そんな顔をしても可愛らしいだけですよ。それより秘書殿、せっかくのワルツの時間だ。是非一曲踊って頂きたいと思って、慌てて追いかけてきたのですよ」
ぐっと、私の腕を捕らえる彼の手に力が込められる。
断ることは許さない、というような強い瞳。
気持ちで負けるわけにはいかない、と、ぐっとお腹に力を込めて睨み返した。
「……ちょっと、サルビエロ様――」
見かねてなのか、隣にいたシャーロットが口を開いてくれたのに。
彼女の前にさっと片手を翳したシェーマス・サルビエロは、シャーロットへと冷たい視線を向けた。
「口出しは無用ですよ、ロイアー嬢。もちろんそこのブリックス殿もね。今私は秘書様とお話しているのだから。……ねぇ、リリーさん?」
「っ!」
最後に付け足された、気安く甘く私の名前を呼ぶ声に、三度全身が総毛立った。
もうこれは、なんというか――生理的に受け付けられないものだ。
……ああ、こんな時にこそ焔さんがいてくれたらよかったのに。
もうすぐ帰ってくるって言っていたから、なんとかそれまで耐えられれば。
間違っても、こんな人と踊りたくはない。
気安く呼ばないで、と言い返したくて、大きく息を吸った、その時。
「その様子では、俺に口を出されるのも嫌かもしれないけど――」
私の腕を捕らえたままだったシェーマス・サルビエロの手首を、また別の誰かの手が、ぐっとひねり上げるように掴んだ。
「――俺の友人が嫌がっているんだ。気安く彼女の名を呼ばないで欲しいな、シェーマス」
ふっと自由になった腕を、慌てて引き戻す。
新たに助けに入ってくれた人物を振り返って、ほっと胸をなで下ろした。
「殿下……!」
「リリー、大丈夫か?」
見慣れはじめた薄紫の瞳が、優しく細められる。
王子相手にはさすがに猫を被るのか、シェーマス・サルビエロは大人しく手を引くとしれっとした笑顔でライオット王子へと礼を取った。
「これはこれは、王子殿下ではありませんか。ご無沙汰しております」
「挨拶はいらない。俺はこれからリリーと話すから、お前は下がれ」
ライオット王子が私を背に隠すようにして、冷たく言い放った。
それを聞いたシェーマス・サルビエロの瞳が、怪しく光る。
「おや。秘書様はもう殿下まで籠絡済みでしたか」
「口を慎め、シェーマス!」
「おお怖い。……失礼いたします」
王子の静かな一喝に、シェーマスは再び流れるような礼をすると、静かに去って行った。
ライオット王子の背に隠れながらその後ろ姿を見送って、ほっと息をつく。
「やれやれ、面倒なのに絡まれたな」
振り返ったライオット王子は、腰に手を当てて溜息を吐いた。
「……ありがとうございました。殿下」
ひと呼吸分気持ちを整えてから、王子に向けて綺麗に礼をした。
ここはホールの真ん中だ。
王子に頼まれたような、気安い態度を取ることは出来ない。
ちょっとだけ寂しそうな色をした目に、私はそっと苦笑して応えた。
人目があるところでは仕方ないと、王子もちゃんとわかっているのだろう。
お互い立場というものがある。
そればかりはなんともならないものだ。
「いや……うん、間に合ってよかった。掴まれた腕は大丈夫か?」
小さい咳払いをして、ライオット王子も砕けすぎない様子で声を掛けてくれる。
それを聞いたシャーロットが、慌てて私の手を握って確認し、ほっと息を吐いた。
「……よかった。少し赤くはなってますけれど、大丈夫そうですわね。……殿下、私からもお礼を申し上げさせてくださいませ。本当に、ありがとうございました」
シャーロットの言葉に合わせて、オリバーも頭を下げる。
ライオット王子は軽く手を振って「構わない」と示すと、得意げに胸を反らした。
「友人のためだ、気にしなくていい。……それに、勝負にも勝ったしな」
「勝負……ですか?」
「ああ。……おっと、ようやく来たか」
なんだかとても嬉しそうな王子の顔に首を傾げていると、少し先の方で黒いローブと紅い煌めきが視界を掠めた。
「あ……!」
「――やっとみつけた!」
「イグニス様!」
人混みの中、小走りに駆けてくるその姿に、無意識に手が伸びる。
「遅くなってごめん……!」
焔さんの温かい指先が、伸ばした私の指先を握ってくれる。
その温もりに、ぎゅっと胸が締め付けられるような……優しい痛みを感じた。
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