大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

64.偶然か、必然か

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 次に目が覚めた時、まだぼうっとする頭で確認した時計は、あまり進んでいなかった。
 ……喉、渇いたな。
 怠い身体をなんとか動かして、台所で水を飲む。
 そういえばまだ朝食も取っていないけれど、食欲はまったくないようだった。
 冷たい水が喉を滑り落ちていく感覚に、少しだけ意識がはっきりしてくる。
 そのまま顔を洗って、またベッドに戻ろうとしたところで。

「……あ」

 机の上の白い本が目に入ってしまった。
 昨夜読もうかとも思って、しかしアルトに怒られそのままにしてしまっていた、リブラリカから借りてきた本。
 今ならアルトもいないし……少しだけ、冒頭だけでも読んでしまおうか。
 そう思って、本と翻訳ノートを手にベッドへと戻った。
 生成り色の表紙をさらりと撫でる。
 金で箔押しされたタイトルは、『雨の音』。
 大賢者様の――焔さんのお気に入りの異世界本を集めたという書架で、人気だというこの本。
 一体どんな物語なのだろう。
 何となく、焔さんの秘密をのぞき見るような、不思議な感覚にどきどきする。
 表紙を捲り、本文の最初の一行を、翻訳ノートと照らし合わせて――。

「………………え?」

 時間が、止まった。
 出だしの一行。

 ――『しとしとと、薄闇の中で雨の音を聞いていた。』

 どうして、一言一句同じなのだろう。
 慌てて、次の文章も目で追いかける。

「これ――」

 その次の一行も、最初に入る台詞も。
 オルフィードの言葉で書かれているというだけで、全て覚えている。
 それは、私の書いた『雨の音』という本と、全く同じ。
 全てが、同じ。

「………」

 ぱたんと、膝の上の本を閉じた。
 仰いだ天井。
 発熱でぐらつく頭が、さらにぐわんぐわんと痛み始めていた。
 ――これは、どういうこと。
 そのまま座っていられなくて、ぼふんと背後に倒れ込む。
 また熱が上がってきたのか、意識が霞んでいく中、目を閉じた。
 ぐるぐると回る意識と思考の中で、どうして、と考える。
 ……いくら考えたって、答えはわかっているのだけれど。
 私の作った『雨の音』という本は、確かに、『路地裏』の店頭に並んだのだろう。
 佐久間さんが並べてくれたその本を――きっと、常連だった焔さんが手に取ったのだ。
 世界に2冊しかない、私の本のその片割れを。
 ごろり、と寝返りを打って、そのままぐっと身体を丸めた。
 大賢者様の書架に置かれる、焔さんお気に入りだという異世界の本。
 それが――、それがまさか、私の書いた本だったなんて。

「……焔さん、は……」

 そうだ。
 焔さんは、知っていたのだろうか。
 それを書いたのが私だと、知っていて――秘書にならないかと、誘ってくれたのだろうか。
 それとも、私が作者だとは知らないのだろうか。
 この辺りは、私がいくら考えたところで、本人に聞かなければわからないこと――ではあるのだけれど。
 ――ああもう。
 熱のせいで、思考がぐちゃぐちゃになってまとまらない。
 もう、後で考えよう――……。
 思考から手を放して、再び眠りの中に落ちていく。
 今はただ、眠っていたかった。





「…………」

 ここまで来て、大賢者ともあろうものが妙な緊張感を感じることになるとは、思ってもみなかった。
 ただただ、熱を出したという梨里のことが心配で。
 モニカが時間を掛けて用意してくれたたっぷりの食事をバスケットに、禁書領域へと戻り、彼女の自宅へと繋がっている扉へ飛び込んだ。
 ――ところまではよかったのだけれど。
 今、俺は彼女の自宅の玄関口で、突っ立ったまま固まっていた。

「……おい、イグニス?」

 足下から使い魔の訝しげな声が掛かるけれど、ちょっと今はそれどころではない。
 本当に、気持ちからの勢い、それだけでここまで来てしまったわけだけど。
 よくよく考えてみれば、彼女はひとり暮らし。
 高熱を出して寝込む彼女に、許可を取るなんてこともせずに、ひとり暮らし女性の家へと突撃してしまったということで。

「……え、っと……」

 これは、ちょっとあの……さすがにいいのだろうか?
 いや、やましい気持ちなんてものは一欠片もない。
 ただただ、梨里のことが心配で、食事を届けたいと思った、それだけなのだけれど。
 でもあの……うーん。
 やはりまずかった、だろうか……?
 その場でうんうん唸っている俺の心境など知らず、アルトは勝手知ったるという体で部屋へと上がり込み、こちらを振り返って怪訝そうな目を向けてくる。

「そんなとこでいつまでも何やってんだよ。食事、届けるんじゃなかったのか」
「……いや、そう……なんだけどさ」
「なんだよ。さっきまでの勢いはどこに落としてきたんだ」
「その勢いで来てしまって、良かったのかと……」
「……?ああ、なるほど」

 少し首を傾げただけで、アルトは何となく察してくれたらしい。
 黒猫は半眼をこちらに向けながら、大きな溜息をついた。

「俺様がいる時点で、二人っきりってわけでもないんだし、いいんじゃないか?そんなに気になるなら、バスケットだけ置いてさっさと返れ」

 ……まぁ確かに、アルトがいる時点で二人っきりというわけではないけれども。
 ここまで来た以上、梨里の様子だけでも見ておきたいという気持ちもある。
 ぐっと腹に力を入れて、そろりそろりと靴を脱ぎ部屋へと上がることにした。

「お邪魔します……」

 小さな声で呟くように言って、アルトの後を追い部屋へと入っていく。
 シンプルな部屋は、女の子らしい、というよりぐっと落ち着いていて過ごしやすそうだった。
 リビングにあったテーブルに、ひとまずバスケットを置く。
 そわそわと落ち着かないまま振り返ると、アルトが窓際のベッドにぴょんと飛び乗る様子が目に入った。

「……おー、寝てるな」
「無理に起こすなよ」

 ベッドには、こちらに背を向ける形で梨里が寝て居た。

「……」

 こちらの世界は雨が降っているのか、ぱらぱらと窓に叩きつける雨の音が部屋に響いている。
 足音を立てないように注意して、ベッドへと近づいて――。

「……え?」

 ベッドへの一歩手前で、床に落ちていた『ある物』に気がついた。
 見覚えのありすぎる生成り色の表紙に、一瞬鼓動が跳ねる。
 ベッドから滑り落ちてしまったらしいその本を、震える手で拾い上げた。

「……どうして」

 ぽろりと唇から漏れた声までもが、震えてしまっていた。
 ばれないようにと、わざわざ禁書庫への移動を指示したはずだ。
 移動を指示しただけで、貸し出しを禁止したりはしていないけれど。
 梨里が目にすることのないようにと、気を遣っていたはずなのに。

「――あ」

 こちらに気づいたアルトがやべ、と声を上げるのが、遠くに聞こえるような気がした。
 ――どうして、何故。
 そんな言葉ばかりがぐるぐると頭を巡る。
 表紙、タイトルと確認するけれど……間違いない。
 『雨の音』だ。
 呆然としたまま、毛布から覗く梨里さんの後頭部へと視線を移した。
 ――どこまで気づかれてしまったのだろう。
 これを、大賢者の書架の本だと分かった上で借りてきたのだろうか。
 もう、中身を確認してしまったのだろうか。
 ……リブラリカで働いてもらっている以上、いつかはばれるかもしれない、とは思っていたけれど。
 突然すぎて――ばれてしまったのが、早すぎる気もして。

 彼女がこの本を手にしたのは、偶然だったのか。
 それとも……これが必然、なのか。

 本を手に彼女を見下ろすしかない俺は、雨の音がしとしと続く中、ただ呆然と立ち尽くしていた。



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