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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
112.ふたつの日記
しおりを挟む昼食の時間、焔さんは忙しいからと食堂へは姿を見せなかった。
ほっとしたような残念なような気持ちの影に、嫌なモヤモヤがちらつく。
……もしかしたら、またヴィオラが来てたり……して。
勝手にこんなことを考えて、嫌な気持ちになっている自分が……なんとも嫌だった。
朝と同じように手早く食事を済ませて、ライオット王子には別行動をすると告げ図書館を出る。
一歩踏み出せば、空調の整えられた館内とは違って、青空が広がる。
午前中に畑仕事をしていたときよりも、ぐっと気温が上がっているようだった。
……さすがに暑いな……。
早く用件を済ませて、過ごしやすい図書館に帰ってこよう。
そう心に決めて、図書館の裏へと足を向けた。
まだ二度しか通ったことのない道のはずなのに、不思議と宝石池の場所まで迷うことなく来ることができたのが意外だった。
相変わらずきらきらと、木の葉を透かして鮮やかな翠の色が煌めく場所。
以前彼女を見かけたのと同じ場所で、彼女はまた本を読んでいるようだった。
一歩踏み出せば、下草がさく、と小さな音を立てる。
こちらに気づいて顔を上げた彼女は、ふわりと栗色の髪を揺らして小さな笑みを見せた。
「来てくれたんだね、おねえちゃん」
「こんにちは、ミモレ」
「こんにちは」
彼女の傍まで歩いて行くと、ミモレは今まで読んでいた古い本を閉じて、胸元に抱え立ち上がる。
「呼び出したりして、ごめんなさい」
私へぺこりと頭を下げると、ミモレはその大きな宝石のような瞳で、じっとこちらを見上げてくる。
その視線を受け止めて、はっとした。
彼女の瞳の色。
その翡翠色は、この宝石池の輝きと同じ色をしていたのだ。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
「……ううん、大丈夫。それより、私に用事って何かな?」
目線を合わせるように中腰になると、彼女はごそごそとワンピースのポケットを漁り、小さな拳を突き出してきた。
「?」
何だろう、と両手を差し出す。
彼女の手の平から私の手の平へ、ころりと転がったのは冷たい金属の感触だった。
少し黒ずんだような、小さな金具だろうか。
何かを嵌めるような爪がついた台座が丸くついていて、裏側にはピンがある。
未完成のブローチ……のようなそれは、かなりの年代物に見えた。
「それをおねえちゃんに渡すように、言われたの」
「え?……誰に?」
「……おねえちゃんも、知ってる人」
要領を得ない返答に、首を傾げる。
ミモレは、ふいと湖のほうを見ると、静かな声で言葉を続けた。
「あの人と……おねえちゃんも、会ったんでしょ?」
さらりと通り過ぎる風が、ミモレの髪をなびかせる。
その横顔を見た瞬間――私の脳裏に、何となく似ている女性の姿がよぎった。
「あ――」
あの人。
そうだ、きっとあの――。
「ミモレちゃん!あの――あの人を、知ってるの?」
「…………」
本を抱く手にぎゅ、と力を入れて、彼女はゆっくり頷いた。
途端に、聞きたいことがぶわりと溢れて、喉の奥で絡まってしまうほどになる。
「あ……っあの、あの人は誰、なの?どうしていつも私の夢に……。あの人は何?この前、この池で溺れそうになったのは、なん……」
ざり、と。
彼女が後ずさりしたその足音で、はっと言葉を飲み込んだ。
怯えた目で視線を逸らしながら、彼女がふるふると首を振る。
「ごめんなさい……私も、その……」
知らない、のか。
気落ちして大きな溜息を吐いて初めて……自分がどれほど、あの女性のことや夜のことを気にしていたのかということを、改めて痛感した。
こんなに必死になってしまうくらい、焦りのような気持ちがあったのか。
「私こそ、ごめんなさい……急に質問攻めにしたりして……」
申し訳ない気持ちで、ミモレへ頭を下げる。
こんな小さな子を問い詰めてしまうなんて……余裕がなくなってしまってる。
頭を上げられないでいる私に、しばらくして、彼女が小さく口を開いた。
「……私が知ってるのは、これ」
声に釣られて顔を上げると、彼女は胸元に抱えていた本を、その表紙がこちらに見えるように持ち上げた。
古くて擦り切れた、ぼろぼろの布表紙。
それはもう、茶色く変色してしまっているが……元は緑色をしていたのだろうことが見て取れる。
そこに書かれたタイトルは、手書きだった。
細く流れるような字体は、女性のものに見える。
こちらの世界の文字に不慣れな私にも辛うじて読める、そのタイトルは。
「――翡翠色の日記?」
それは、最近読み終えた――よく知っている本と、同じタイトルだ。
ミモレに乞われて、リブラリカにあるその本をマナブックにして渡した。
あれと、同じもののはず……だが、リブラリカに保管されているというあの本の原本は、ちゃんと綺麗な緑色の表紙をしていたはず。
しかし、こちらのほうが明らかに、年代物だ。
ということは、ミモレが持つこれが、本物の原本……?
「おねえちゃんが持ってきてくれた、リブラリカにある『翡翠色の日記』は、やっぱり違ったの」
「違った?」
「うん。中がね、変えられてた」
「え……!」
中が変えられていた、というのは……内容が違う、ということ?
「それって、どういう――」
「それより――ねぇ、おねえちゃん。明日、うちに来るんでしょう?」
「え、う、うん……」
確かに、明日はロランディア領主の家であり、ザフィアの生家がある、ミモレの家に訪問することになってはいるけれど。
あからさまに話題を逸らされ、戸惑う私。
ミモレはそんな私からそっと目を逸らして、再び大切そうに本を抱え直しながら湖へと視線を移した。
「明日になれば、わかる……と、思う。色々」
「…………」
「ごめんなさい、私も、曖昧なことしか……わからなくて」
「……ううん、いいの。話してくれて、ありがとう。……これも」
彼女はきっと、これでも精一杯のことを話してくれたんだ。
最初にもらったブローチの台座を見せて微笑むと、彼女は固い表情を少しだけ緩めて頷いてくれた。
「あ……あとね、ここ。この宝石池……おねえちゃんならもう知ってると思うけど、あの人のね、大切な場所なんだよ」
「……日記に、書いてあった……よね?」
こくんと、再び首を縦に振るミモレ。
やはり、ミモレの言うあの人というのは――『翡翠色の日記』の作者である彼女だ。
綺麗な水面は、いつの間にか夕焼けの色が混ざった輝きを放つようになっている。
ざああ、と耳を過ぎていく葉擦れの音が、煌めく水面を駆けていった。
「……もう夕暮れだから、そろそろ帰ろっか」
ミモレの小さな背中にそっと手を当てて、宝石池に背を向ける。
その後、黙ったままのミモレと図書館の前まで戻ってくると、彼女は小さくこちらに手を振って、家へと帰っていった。
夕焼けに色に染まる道を、村の入り口の方へ去って行く小さな背中。
見えなくなるまで見送りながら、私は……去り際に彼女が残した言葉について、考えていた。
『あのね……あの人は、意味のないことはしない、と思うの』
彼女の言葉を信じるならば……宝石池で私が溺れそうになったことや、毎晩のように私の夢に出てきて、何処かへ向かわせようとすることにも……何か意味がある、ということになる。
不思議な女性の姿を思い出す。
あの時のことは、ぼんやりとしか覚えていないのだけど、とても悲しそうな目をしていた……気がするのだ。
――今夜、また彼女に会えたら、聞けるだろうか。
あんなに暑かったはずなのに、頬を撫でていく風は少しだけ冷たく、夜の気配を含んでいた。
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