大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

114.茜色に苦い記憶

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 その床石を見た焔は、やはりあったか、と、本棚の下から現われた魔方陣にふうと息をついた。
 いや、驚きはない。
 暗号を解いた時から、必ずここにあるという確信があったから。
 目をまん丸にして魔方陣を見つめるライオットを少し横へと押しのけて、浮かぶ本棚の下へとしゃがみ込んだ。
 何百年と動かされていなかった本棚の下だ、当たり前のように分厚い埃が層になっている。
 ――が、魔方陣の描かれたそこだけが、不自然に綺麗だ。
 丸い円と多角の幾何学模様が複雑に入り交じる陣。
 びっしりと空白を埋め尽くす文字は、古い魔術文字で書き殴るように綴られていた。

「――」

 そっと目を細める。
 ……間違いない、この筆跡は、懐かしい――ザフィアのものだ。
 恐る恐る、横からのぞき込んできた友の遠い子孫が、はっくしょいと盛大にくしゃみをして埃が舞い上がる。

「……っおい」
「うあ、埃っぽい……!わ、悪い!」
「我慢できないなら下がってろ」
「そんな!俺も見たっていいだろ……!」

 未だにぐずぐずと鼻をすすりながら、なんとか背後からのぞき込んでこようとするのが少々うざったい。

「いいから、静かにしろ」

 本当にうるさいったら。
 何となく、こういうところがザフィアとそっくりなんだよな――、と。
 そんなことを考えながら魔方陣に滑らせていた視線が、ある一点に惹きつけられた。

「……?」

 最初に引っかかったのは、違和感。
 そこの文字だけが、魔方陣とは別の物として書かれていた。
 注意しなければ分からないくらいの巧妙さで紛れ混んでいたその文字は、同じく懐かしい友人の筆跡。
 その短い一文に、がっくりと前に崩れ落ちるかと思った。

 曰く、『――この魔方陣が消えるまで、ここは開かないよーっだ』。

「……っザフィアのやつ……」

 どこまでも、昔の、自分が知る彼そのもののノリで、全身で脱力しかけた。

「うおあっ?!」

 ごつん、という音とともに、真後ろからライオットの悲鳴のような声がした。
 今、本当に一瞬、脱力しかけたから……もしかしたらそのせいかもしれない。
 まあ気にしなくていいか。
 背後ではまだ呻き声のようなものが聞こえているが、それより目の前の魔方陣だ。
 ざっと目を通しながら、これがどういった魔術のための魔方陣なのかを読み解いていく。
 そうすること数分。
 ふうと大きく溜息を吐きながら、その場から立ち上がる。
 長時間のしゃがみ込んだ姿勢に、少しだけ膝が痛んだ。
 振り返ると、何やらじっとりとした目でこちらを見つめるライオットの姿が。

「…………」

 片手で側頭部を摩りながら、彼は無言で浮かぶ本棚を指差した。
 恨みがましい視線に、取り敢えず笑顔を返す。

「この下に隠し部屋があるのは間違いないみたいだけど、ここを開けるのに鍵が必要みたいだね」
「…………」
「…………」
「……いや、あの」
「ん?」
「本棚がさっき……」
「あ、そうだね、このままにはしておけないか」
「え、ちが……」

 すっと腕を振って、本棚を元の位置に戻すように動かす。
 再び動き始めた本棚に、びくっとライオットが飛び上がり距離を取った。
 やはりあの時……俺の集中力が切れたあの一瞬、本棚がふらつくか動くかして、ぶつかったか何かしたんだろう。
 察しはつくけれど、敢えて知らないふりで笑顔のままでいる。
 ぎしりと音を立てて、本棚はゆっくりと元の場所へと戻った。
「鍵については、暗号にも記載はなかったし……仕方ないな。取り敢えず、隠し部屋の場所がわかっただけよしとするか」

「…………はぁ」
「ん?」
「いや、もういい」

 明らかにいじけたような低い声に、喉の奥でほんの少し、笑いがこみ上げた。
 こんなふうに拗ねるところまで、ザフィアの影がある。
 それはほんの小さな棘のように、焔の心にチクリと痛みを残した。

「それで?鍵、だっけ?どうするんだよ、大賢者?」
「あー、そっちに関してはさっぱりなんだよね。暗号にはこの場所のことしか書いてなかったし。……取り敢えず、明日ザフィアの家見に行って、手がかり探すしかないかな」
「せっかく、また何か見つかるかと思ったんだけどなぁ」
「仕方ないだろ。文句ならザフィアに言ってくれ」
「いやー、それはちょっと……」

 言い淀むライオットは、困ったような顔をしている。

「さすがにほら、尊敬するべき初代国王陛下だし……」
「……そんな大それた奴じゃないけどな」

 ぼそり、と無意識に漏れた呟きは、運良くライオットには届かなかったようだ。

「え?今なんて――」
「何も言ってないよ。ああほら、もう夕食の時間だろ。早く行かないと」
「あ、ちょっと大賢者」
「もたもたしてると置いてくよー」

 慌てて追いかけてくる背後を気にせず、ローブを翻す。
 神聖な空気を纏う、聖堂のような一般書架は、気がつけば夕暮れの綺麗な光が差し込んでいる。
 窓やステンドグラスを透かし、棚の本の背を染める茜色は、いつだったかの遠い記憶を呼び起こしそうな鮮やかさだ。
 その光の強さに、すっと目を細める。

「…………」

 実は、この図書館に訪れるのは、今回が初めてではない。
 古く古く、記憶の奥底から浮上しかける思い出から、楽しげな笑い声が聞こえる気がして、ドキリとした。
 大切で、苦くて、それでも思い出したくない記憶に、気づかないふりをする。
 ……今、そんな昔の感傷に浸っている余裕はないのだ。
 少しだけ早足になって一般書架の扉をくぐると、決して振り返ることなく、足を止めずに歩き続ける。
 遠い記憶が後ろ髪を引くように、背後でずっと……明るい輝きを放ち続けているようで、とてつもなく、胸が痛んだ。





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