『二十六時のアオイヒカリ』

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列車は二十六時にしか来ない

第四章 九条時計店

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 闇のレールを抜け、列車は三たび減速した。運転席の窓は深海の水圧に耐える硝子のように青く光り、その先で二:〇六の鐘が遠雷のように震える。照人と茅乃は手を握ったまま連結部を越え、先頭車両の扉へ立った。  
 「次で降りる。兄さんに会う」  
 息をのぞかせる照人に、茅乃は短く頷く。耳たぶの青い光は一度脈を打ち、残り回数があと一を告げた。  

 扉が開くと、そこは見覚えのある日永町の駅前ではなかった。石畳が雨に濡れ、ガス灯の灯る坂道。空は紫雲が低く覆い、夜明け前とも夕暮れ前ともつかない薄明りを揺らしている。列車が背後で消えると、線路もホームも霧の壁に呑まれた。  
 坂の上に黒い影絵のような木造家屋が連なり、その中央に歯車を彫り抜いた看板が吊られている。  
 ――九条時計店。  
 茅乃が低くつぶやく。  
 「時間を直す職人。線路守には逆らえないけど、時を縫い合わせる針を持ってる」  
 「兄さんも、ここに?」  
 「行ってみよう」  

 石畳を進むたび、足元の水溜りに星が逆さまに瞬いた。まるで空と地面が表裏を交換している。店先まで来ると、分厚い扉の上に振り子時計が掛けられ、振り子は止まったまま。それでも時報の機構だけが動くらしく、金の歯車が中空でカチリと嚙み合う音が規則正しく響く。  

 扉を押すと、油と銀粉の匂いが鼻を刺した。壁一面の棚に懐中時計、柱時計、腕時計、そして見たこともない水晶仕掛けの砂時計が並ぶ。天井からは歯車を束ねたシャンデリアが降り、そこから青い光粒が落ちて床で蒸発していた。  
 カウンター奥の作業台で背の高い男がハンマーを振るっている。白銀の巻き毛を肩に流し、片眼鏡のレンズに青い火花が反射するたび、顔の輪郭が歪む。  
 「ご用件は?」  
 声は意外に若く、鍛えられた弦のような張りがあった。  
 「兄を探しているんです。ここで時間の清算を――」  
 九条はハンマーを止め、片眼鏡を外した。琥珀色の瞳孔が時計の軸のように細く縦に伸びる。  
 「宮坂暁生君のことか。あれは難しい修理だ。時間だけでは足りん」  
 「足りない?」  
 「写真だよ。時間の影を定着した銀塩の粒子。それがあれば、“針”を進め直せる」  
 茅乃が照人の肩を押した。  
 「さっき写った家族写真、見せて」  
 照人はカメラを掲げ、液晶に写る兄と自分の映像を示した。九条は身を乗り出し、指先で画面に触れる。すると像の中で青い粒が集まり、兄の背中に沿って螺旋を描いた。  
 「良い発色だ。だが解像度が荒い。あと三枚、兄君の“核心”を写して持って来い」  
 「核心?」  
 「過去と未来がもっとも強く交差する瞬間だ。家族が同じ景色を見た時刻、あるいは誓いを交わした刻印……写真には必ずそれが映る」  
 照人は父の形見のカメラを握りしめた。記憶の中の兄との場面が次々浮かぶが、どれが核心かわからない。  
 九条は作業台の引き出しから小型のメトロノームを取り出し、茅乃に手渡した。メトロノームの振り子は青く透け、タイコを打つたびに「カチ」「カチ」と深海の泡のような音を出す。  
 「これを被写体に向けると核心がわずかに揺らぐ。“鳴った瞬間”を撮れ。三度目の停車までに間に合わなければ、兄君の時間は帳簿へ永久に組み込まれる」  
 照人は血の気が引くのを感じた。三度目の停車――次こそ最後だ。写真を三枚撮り終えるまでに兄に会い、時間を返さなければならない。  
 「代わりに、あなたは何を得るんです?」  
 思わず問うと、九条はほほ笑んだ。  
「私は“止まった自分の時計”を再び刻ませたいだけさ。針を進めれば響きも戻る。代価は人が運んでくる」  
 その言葉に、茅乃の表情がかすかに陰った。九条が振り向き、彼女の耳たぶの光を見やる。  
 「回数が尽きたら、君も修理台へ来るといい。失った時刻を研磨すれば新しい今を得られる」  
 茅乃は無言で首を振った。  

 店を出ると、坂道に霧雨が降り始めていた。ガス灯の炎が水色に揺れ、石畳を淡く濡らす。  
 「九条は悪い人じゃない。ただ、時間より時計の方を愛してる」  
 茅乃の声は揺れていた。彼女の掌に乗るメトロノームが静かに脈を打つ。  
 「核心って、具体的に……」  
 「兄弟なら、忘れられない約束があるでしょ? それが写る瞬間を探そう。次が最後の停車なんだから」  
 照人は目を閉じた。脳裏に蘇るのは、雪の残る河原で父のカメラを構える兄の横顔。シャッターを押す寸前、兄は照人に何か言葉をかけた。音は思い出せないが、確かに胸に火がともるようなあの瞬間――。  

 霧の奥で鐘が鳴る。二:〇六まで残りわずか。坂の下で列車の影が再び姿を現し、青い車窓がこちらを誘う灯台のように揺れていた。  
 茅乃はメトロノームを胸に抱き、耳たぶの光を隠すようにフードをかぶる。  
 「急ごう。時間が削れてる。わたしのも、君のも」  
 照人は頷き、石畳を駆け下りた。掌のカメラが熱を帯び、シャッターボタンが脈を打つ。次の一枚――兄との約束が宿る写真を、必ず。  

 列車の扉が開き、二人はほぼ同時に飛び乗った。扉が閉まる直前、坂道の上で九条がこちらを見下ろし、銀色の懐中時計の蓋を叩いて合図を送った。計測は始まった。  

 車内に戻ると灯りは落ち、薄闇の中でメトロノームが青い閃きを放った。「カチ」と鳴った瞬間、照人の意識が遠い河原へ引きずられる。雪、カメラ、兄の笑顔――。核心が脈打つ。  
 次に目を開けた時、窓外で闇が裂け、最後のホームがゆらりと浮かび上がった。二:〇六を告げる無音の鐘が、心臓の鼓動と完璧に重なっていた。  

 ホームには古い映画館のような赤い絨毯が敷かれ、両脇に白檀の香を焚いたランプスタンドが整列していた。柱時計が列を成し、すべてが長針を十二、短針を二で揃えている。その中央に、背を向けて立つ青年がいた。  
 「兄さん……!」  
 照人は胸の奥で名前を叫んだが、声帯は凍りつき、空気を震わせない。彼方で茅乃が口を動かし、何かを伝えようとしているが音は届かない。時計たちが一斉に秒針を打ち、金属の雨のような連打が耳を塞ぐ。  
 青年――暁生はゆっくりと振り向いた。瞳はいつか見た優しい色だが、その奥に深い硝子の割れ目が走っている。左手首のG―SHOCKはガラスが割れ、内部の歯車が露出して青白いスパークを散らす。  
 彼の背後で黒い帳簿が浮遊し、ページがめくられるたび、空に穴が開いて星が吸い込まれていく。線路守の清算が進行しているのだ。  
 照人はカメラを構え、ファインダー越しに兄の全身を捉えた。照準線の中心で、メトロノームが「カチ」と打つ。兄の肩の上に光が溢れ、雪の河原で見たあの白い息と重なる。  
 シャッター。  
 閃光。  
 像が焼き付くと同時に、兄の周囲の帳簿が破れ、黒い頁が雪片のように舞った。だが歯車の奥で新しい鎖が生まれ、兄の時間を縛り直す。  
 「もう二枚だよ!」  
 茅乃の声がようやく届く。音の壁が薄れ、ホームの絨毯が燃えるような赤に変わる。兄がこちらへ歩みを進める。足取りは重く、鎖が靴底を引くたび、青い火花が散る。  
 「照人……危ない……戻れ……」  
 掠れた声が風の刃のように切実だった。照人は首を振る。  
 「兄さんを連れて帰る!」  
 次の瞬間、ホームの絨毯が波打ち、背後で汽笛が轟いた。列車が動き出す。扉はまだ開放されているが、ゆっくりとホームが後退する。兄との距離が縮まらない。  
 茅乃がメトロノームを高く掲げた。振り子が光の軌跡を描き、電撃のようなラインが兄と照人を結ぶ。軸は二:〇六で揺れながらも加速し、ホーム全体の色を反転させた。  
 その瞬間、時空が薄氷のように割れ、雪の河原の景色が床から立ち上がる。冬空の下、子どもの照人が兄と並んでカメラを構える光景。  
 メトロノームが「カチ」と二度――。  
 スナップ。  
 シャッターは自動で切れ、二枚目の核心写真がカメラに収まった。河原の兄は笑い、現在の鎖で縛られた兄の影と重なり合う。鎖が一部砕け、青い火花が雪へ降った。  
 「あと一枚……!」  
 列車は加速を続け、絨毯のホームが視界から消える。兄はホーム外へ弾かれるように離れ、鎖に引かれて帳簿の裂け目へ落ちかけた。照人の口から声にならない叫びが漏れる。  
 映写幕が破れる音がし、三つ目の景色が車窓の外に投影された。夕立の後の屋上、虹を指差す兄と自分。だが像はぼやけ、メトロノームの振り子が三拍子目で停まったまま動かない。  
 「回路が焼けた……!」  
 茅乃の手首の光が消えかけ、彼女は膝をついた。残りの回数が尽きると同時にメトロノームも寿命を迎えたのだ。  
 照人は震える指でカメラのモードダイヤルを回した。フィルム時代から変わらないメカニカルシャッターに切替え、ファインダーではなく心でフレーミングする。  
 ――兄と見た虹。  
 足元でレールが閃き、車体が重力を失ったように浮く。照人はカメラを眼前に突き出し、何も映らない闇に向けてシャッターを押した。  
 乾いた音が、体内で雷鳴のように響いた。三枚目。  
 像は目には見えない。だが兄の鎖が一斉に千切れ、青い破片となって車窓に吸い込まれた。ホームの帳簿が閉じ、線路守の白い名札が割れる幻影が散った。  
 闇の底から列車を押し返す衝撃。車輪の軋みが戻り、駆動音が蘇る。茅乃が顔を上げた。耳たぶの光がわずかに戻り、振り子の止まったメトロノームが灰色の煙を吐いて静止した。  
 「兄さんは?」  
  照人が窓へ駆け寄ると、星雲の裂け目を走る線路の上に、解き放たれた兄の影が佇んでいた。遠くて表情は見えない。だが彼は胸に手を当て、ゆっくりと礼をした。  
  〈待っている〉  
  言葉にはならない声が空間を震わせた。照人は手を伸ばしたが、列車は既に方向を変え、次元のトンネルへ沈んでいく。  

  茅乃が肩に凭れ、囁く。  
  「これで帳簿は閉じた。でも兄君の時間はまだ安定していない。九条の針が最後の調整を待ってる」  
  照人は頷く。カメラの背面で三枚の核心写真が青く発光し、不規則に回転する。九条時計店へ戻り、最後の修理を終えなければ。  
  列車の通路で、銀灰色の懐中時計が漂い出た。九条の声が遠い嵐の向こうから届く。  
  〈針は三度、鳴り終えた。時計店で会おう。二十六時の扉は開いている〉  
  照人はカメラを掲げ、ファインダーの中の暗闇へ向けて深く息を吸った。最後の章へ進む時刻が、音もなく刻まれ始めていた。
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