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四奏
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◆◇◆◇
真紅の壁に、街の風景や著名な音楽家の似顔絵が掛けられた店内で、二人は立ったままに酒を片手に談笑していた。
「曲は何を?」
「ルカトーニのピアノ協奏曲第八番を」
店主へのリクエストを終えると、ロレンツォはアンジェリカへと視線を戻した。
「この曲を聴いたことは?」
「はい、何度か。ですが、私の好みとは――」
彼女が続く言葉を発する前に、その唇にロレンツォの人差し指が添えられていた。
頬を染めあげ、抗議の視線を向ける彼女にロレンツォは悪戯っぽい笑みを浮かべて応える。
「今夜だけは、初めて耳にするように――自分の感じるままに、曲へと向き合ってください」
彼はウェイターからセレストブルーのカクテルを受け取ると、グラスの上で指を弾いてみせた。
すると――無数の白銀の光が宙で星のように瞬き、静かにグラスへと舞い落ちてゆく。
「さぁ、どうぞ。これを飲んだら、貴方は曲への記憶を失うでしょう」
「まぁ、知りませんでした。貴方は魔法使いだったのですね」
「いえ、とんでもない。僕は、ただの奇術師ですとも」
会話が、ひと段落した頃合いを見て、店主はゆっくりとピアノの演奏を始めた。
「踊りませんか?」
「喜んで」
カクテルを飲み干した彼女は、差し出されたロレンツォの手を取ると、背筋を伸ばして優雅に歩き出す。
気まぐれなようで規則的――不自由なようで、解放的な音色に身を委ね、互いのことを探り合うように二人は踊る。
彼はリードしたかと思えば、次の瞬間には自由なアンジェリカの踊りに魅せられていることに、思わず弧を描くように唇を上げた。
心地よい駆け引きを重ねるうち、二人の頬は激しく上気して、朱く染まってゆく。
やがて旋律は、徐々に浮き沈みの激しいものと変わっていった。
自由を謳歌する鳥は、その光を失ったかのように、先の見えぬ空を彷徨う。
「どうですか? この曲からは、彼の想いが、言葉が聞こえてはきませんか?」
努めて冷静に問いかけるロレンツォの瞳には、これまでにない熱が宿っている。
彼の双眸を見上げるアンジェリカの瞳からは、薄暗い照明に照らされて輝くものがひとすじ、こぼれ落ちてゆく。
「今が幸せな人は、もっと幸せに。そう感じることのできないような境遇にある人にも、ほんの少しでも安らげるときを……。でも、私たちの人生には、こんなにも、ままならないことが多い」
ロレンツォは、彼女に何も言葉を返さなかった。
これは二人――彼女と、ジュゼッペ・ディ・ルカトーニの対話だ。
そして旋律は再び、明るく、自由な響きへと引き戻されてゆく。
アンジェリカの目が、驚きの表情とともに見開かれた。
「そう、貴方は苦悩の先に希望を見出そうとしたのね。あらゆる他者の絶望に共感して、自分のものとしてきた貴方が……」
二人の舞踏は、曲の限り続いてゆく。
ロレンツォの左手に掴まり、円を描いたアンジェリカの目前に、彼は帽子を差し出す。
次の瞬間、間髪を入れずに――鳩と蝶が空を舞い、二人の頭上へと光の雨を降らせた。
「貴方、やっぱり魔法使いだわ」
「奇術は、時に魔法を超えるものですよ」
真紅の壁に、街の風景や著名な音楽家の似顔絵が掛けられた店内で、二人は立ったままに酒を片手に談笑していた。
「曲は何を?」
「ルカトーニのピアノ協奏曲第八番を」
店主へのリクエストを終えると、ロレンツォはアンジェリカへと視線を戻した。
「この曲を聴いたことは?」
「はい、何度か。ですが、私の好みとは――」
彼女が続く言葉を発する前に、その唇にロレンツォの人差し指が添えられていた。
頬を染めあげ、抗議の視線を向ける彼女にロレンツォは悪戯っぽい笑みを浮かべて応える。
「今夜だけは、初めて耳にするように――自分の感じるままに、曲へと向き合ってください」
彼はウェイターからセレストブルーのカクテルを受け取ると、グラスの上で指を弾いてみせた。
すると――無数の白銀の光が宙で星のように瞬き、静かにグラスへと舞い落ちてゆく。
「さぁ、どうぞ。これを飲んだら、貴方は曲への記憶を失うでしょう」
「まぁ、知りませんでした。貴方は魔法使いだったのですね」
「いえ、とんでもない。僕は、ただの奇術師ですとも」
会話が、ひと段落した頃合いを見て、店主はゆっくりとピアノの演奏を始めた。
「踊りませんか?」
「喜んで」
カクテルを飲み干した彼女は、差し出されたロレンツォの手を取ると、背筋を伸ばして優雅に歩き出す。
気まぐれなようで規則的――不自由なようで、解放的な音色に身を委ね、互いのことを探り合うように二人は踊る。
彼はリードしたかと思えば、次の瞬間には自由なアンジェリカの踊りに魅せられていることに、思わず弧を描くように唇を上げた。
心地よい駆け引きを重ねるうち、二人の頬は激しく上気して、朱く染まってゆく。
やがて旋律は、徐々に浮き沈みの激しいものと変わっていった。
自由を謳歌する鳥は、その光を失ったかのように、先の見えぬ空を彷徨う。
「どうですか? この曲からは、彼の想いが、言葉が聞こえてはきませんか?」
努めて冷静に問いかけるロレンツォの瞳には、これまでにない熱が宿っている。
彼の双眸を見上げるアンジェリカの瞳からは、薄暗い照明に照らされて輝くものがひとすじ、こぼれ落ちてゆく。
「今が幸せな人は、もっと幸せに。そう感じることのできないような境遇にある人にも、ほんの少しでも安らげるときを……。でも、私たちの人生には、こんなにも、ままならないことが多い」
ロレンツォは、彼女に何も言葉を返さなかった。
これは二人――彼女と、ジュゼッペ・ディ・ルカトーニの対話だ。
そして旋律は再び、明るく、自由な響きへと引き戻されてゆく。
アンジェリカの目が、驚きの表情とともに見開かれた。
「そう、貴方は苦悩の先に希望を見出そうとしたのね。あらゆる他者の絶望に共感して、自分のものとしてきた貴方が……」
二人の舞踏は、曲の限り続いてゆく。
ロレンツォの左手に掴まり、円を描いたアンジェリカの目前に、彼は帽子を差し出す。
次の瞬間、間髪を入れずに――鳩と蝶が空を舞い、二人の頭上へと光の雨を降らせた。
「貴方、やっぱり魔法使いだわ」
「奇術は、時に魔法を超えるものですよ」
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