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第六章 些細な気づき
第二十話
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人事課から借りた鍵を使い、埃っぽい倉庫を進んでいく。
玲一さんに頼まれた資料は、奥のキャビネットの上だと聞いた。上の段なら背伸びをすれば届くかな、と甘い見立てで来てみたはいいが、いざ到着したら資料の場所は文字通りキャビネットの『真上』。
(これは無理)
人事課のずさんな文書管理に若干苛立ちを覚えながら、私は仕方なくうんと背伸びをして資料の山に手を伸ばす。届かないのはわかりきったことだけど、周りに脚立らしきものは見当たらない。面倒だけど別の倉庫から踏み台になるものを持ってこないと――。
「はいっ」
唐突に背後から伸びた太い腕。
キャビネットの上に積まれた書類をひょいと簡単に持ち上げて、これが欲しかったんでしょと言うように私の目の前へ降ろしてくれる。私をまるまる覆い隠すほどの高身長と、勢いよくぶつかっても微動だにしないだろう体躯。もしかして、と思いながら、私は顔を真上へ向ける。
「……松岡くん?」
「お久しぶりです、高階先輩」
営業課時代の後輩であるふたつ年下の松岡颯太くんは、明るい笑みを満面に浮かべて私の顔を見下ろした。
「ありがとう、助かったよ。でもこんなところで会うなんて珍しいね」
「高階先輩の姿が見えたから、つい追っかけてきちゃったんです。最近全然会えなかったんで、後姿を見かけたときになんかもう嬉しくなっちゃって」
「そういえば会う機会なかったよね。仕事の方はどう? 一人でやれてる?」
「はい! ……でも、高階先輩がいないと、正直やっぱり寂しいです。俺、今までなんでもかんでも高階先輩頼りだったんで」
へへへと照れ笑いを浮かべる松岡くんを見ていると、両手で彼の短い髪をわしゃわしゃかき回したい衝動に駆られてしまう。彼が新卒で営業課へ来たとき、私は彼の教育係として、二人一組で色々な取引先を渡り歩いたものだ。
まあ、彼はとっても背が高いから、私と並ぶと凸凹コンビで笑われてしまうことも多かったのだけど。……あの頃もあの頃で結構楽しかったなと、少しだけ胸が熱くなる。
「あの、先輩。よかったら今度また、夕飯とか一緒に行きませんか?」
夕飯、と私は繰り返す。教育係だった頃は、営業の帰りによく二人でご飯を食べに行ったっけ。
もしかしたら彼も何か、私に聞かせたい話や愚痴を溜め込んでいるのかもしれない。まあ私は基本用事もないし、久しぶりに彼の爽やかな顔を見たら先輩風を吹かせたくなってきた。
「いいよ、じゃあ久々だし奢ってあげる。どこがいい?」
「え!? あ、いや、そういうあれではないんですけど……」
「違うの? じゃああれか、男の子ひとりで入りづらいお店があるとか?」
「そういうわけでも……うーんと……」
歯切れ悪く口をもごもごさせながら、松岡くんはちょっと困った顔をしていたけど、やがて意を決したように真面目な顔で向き直ると、
「とにかく、約束ですからね。また連絡しますから」
と、どこか挑戦的に微笑んで見せた。
資料を抱えて秘書室へと戻った私は、オフィスの異様な雰囲気に少したじろいでしまった。
ミーティングテーブルを囲んで、難しい顔をする玲一さん。その真向いでは鮫島先輩が、氷の美貌に不敵な笑みを浮かべ、玲一さんを見据えている。
「……社長代理。こちらが人事課の資料になります」
テーブルの脇にそっとファイルを置くと、玲一さんはこちらを見ずに「ありがとう」とそっけなく言った。これ自体はわりといつものことだから、今更気にはしないのだけど。
「ちょうどよかった、高階さん。あなたからも説得して頂戴」
「説得?」
私を強引に椅子に座らせ、鮫島先輩はメール文のコピーを見せてくる。
「カートライト社から、女性向けファッション誌に社長代理の写真付きインタビュー記事を載せたい、と依頼が来たの」
「雑誌社からのインタビュー依頼については、今まではずっとお断りしていましたよね」
「ええ。でも、ここの女性誌には一華社長のインタビューを載せたことがあるし、うちの広告も何度か出しているお得意先でしょう? 今後良好な関係を続けるためにも、無下にはできないと思うのだけど」
鮫島先輩はそう言いながら、玲一さんをちらと見つめる。こんな妖艶な流し目を向けられれば、普通の男性ならドキッとしてしまいそう……と思いきや、玲一さんは顔全体で不快と不満を表現しながら、じろりと鮫島先輩の目を真っ向から睨みつける。
「すっげえ嫌だ」
玲一さん! 玲一さん! ド直球の本音が出てます!
焦る私を尻目に、鮫島先輩は軽やかに笑うと、私に向かって無言の目配せをした。あ、これは間違いなく、後押しをしろとのご命令だ。ご要望ではない、ご命令だ。私に拒否権なんかない。
「あの……今度海老名の方で、スポーツクラブシーナの新しい店舗がオープンしますよね。その宣伝を兼ねる条件で、少しだけお受けするのはいかがでしょうか」
おいコラ! 凛ちゃん! 裏切ったな!!
玲一さんのじっとりとした目が無言の内に私を責める。玲一さんごめんなさい。私正直、玲一さんより鮫島先輩の方がずっと怖いんです。
「いかがです? 社長代理。お気に入りの高階さんもこう言っていることですし」
鮫島先輩にそっと背中を撫でられ、私は少しだけひやりとする。私と玲一さんの関係については、まだ誰にも知られていないはずだ。
玲一さんは少し眉を上げて鮫島先輩をじっと見つめ、それからため息とともに天井を仰ぐと、
「わかったよ、もう……」
と脱力したように呟いた。
人事課から借りた鍵を使い、埃っぽい倉庫を進んでいく。
玲一さんに頼まれた資料は、奥のキャビネットの上だと聞いた。上の段なら背伸びをすれば届くかな、と甘い見立てで来てみたはいいが、いざ到着したら資料の場所は文字通りキャビネットの『真上』。
(これは無理)
人事課のずさんな文書管理に若干苛立ちを覚えながら、私は仕方なくうんと背伸びをして資料の山に手を伸ばす。届かないのはわかりきったことだけど、周りに脚立らしきものは見当たらない。面倒だけど別の倉庫から踏み台になるものを持ってこないと――。
「はいっ」
唐突に背後から伸びた太い腕。
キャビネットの上に積まれた書類をひょいと簡単に持ち上げて、これが欲しかったんでしょと言うように私の目の前へ降ろしてくれる。私をまるまる覆い隠すほどの高身長と、勢いよくぶつかっても微動だにしないだろう体躯。もしかして、と思いながら、私は顔を真上へ向ける。
「……松岡くん?」
「お久しぶりです、高階先輩」
営業課時代の後輩であるふたつ年下の松岡颯太くんは、明るい笑みを満面に浮かべて私の顔を見下ろした。
「ありがとう、助かったよ。でもこんなところで会うなんて珍しいね」
「高階先輩の姿が見えたから、つい追っかけてきちゃったんです。最近全然会えなかったんで、後姿を見かけたときになんかもう嬉しくなっちゃって」
「そういえば会う機会なかったよね。仕事の方はどう? 一人でやれてる?」
「はい! ……でも、高階先輩がいないと、正直やっぱり寂しいです。俺、今までなんでもかんでも高階先輩頼りだったんで」
へへへと照れ笑いを浮かべる松岡くんを見ていると、両手で彼の短い髪をわしゃわしゃかき回したい衝動に駆られてしまう。彼が新卒で営業課へ来たとき、私は彼の教育係として、二人一組で色々な取引先を渡り歩いたものだ。
まあ、彼はとっても背が高いから、私と並ぶと凸凹コンビで笑われてしまうことも多かったのだけど。……あの頃もあの頃で結構楽しかったなと、少しだけ胸が熱くなる。
「あの、先輩。よかったら今度また、夕飯とか一緒に行きませんか?」
夕飯、と私は繰り返す。教育係だった頃は、営業の帰りによく二人でご飯を食べに行ったっけ。
もしかしたら彼も何か、私に聞かせたい話や愚痴を溜め込んでいるのかもしれない。まあ私は基本用事もないし、久しぶりに彼の爽やかな顔を見たら先輩風を吹かせたくなってきた。
「いいよ、じゃあ久々だし奢ってあげる。どこがいい?」
「え!? あ、いや、そういうあれではないんですけど……」
「違うの? じゃああれか、男の子ひとりで入りづらいお店があるとか?」
「そういうわけでも……うーんと……」
歯切れ悪く口をもごもごさせながら、松岡くんはちょっと困った顔をしていたけど、やがて意を決したように真面目な顔で向き直ると、
「とにかく、約束ですからね。また連絡しますから」
と、どこか挑戦的に微笑んで見せた。
資料を抱えて秘書室へと戻った私は、オフィスの異様な雰囲気に少したじろいでしまった。
ミーティングテーブルを囲んで、難しい顔をする玲一さん。その真向いでは鮫島先輩が、氷の美貌に不敵な笑みを浮かべ、玲一さんを見据えている。
「……社長代理。こちらが人事課の資料になります」
テーブルの脇にそっとファイルを置くと、玲一さんはこちらを見ずに「ありがとう」とそっけなく言った。これ自体はわりといつものことだから、今更気にはしないのだけど。
「ちょうどよかった、高階さん。あなたからも説得して頂戴」
「説得?」
私を強引に椅子に座らせ、鮫島先輩はメール文のコピーを見せてくる。
「カートライト社から、女性向けファッション誌に社長代理の写真付きインタビュー記事を載せたい、と依頼が来たの」
「雑誌社からのインタビュー依頼については、今まではずっとお断りしていましたよね」
「ええ。でも、ここの女性誌には一華社長のインタビューを載せたことがあるし、うちの広告も何度か出しているお得意先でしょう? 今後良好な関係を続けるためにも、無下にはできないと思うのだけど」
鮫島先輩はそう言いながら、玲一さんをちらと見つめる。こんな妖艶な流し目を向けられれば、普通の男性ならドキッとしてしまいそう……と思いきや、玲一さんは顔全体で不快と不満を表現しながら、じろりと鮫島先輩の目を真っ向から睨みつける。
「すっげえ嫌だ」
玲一さん! 玲一さん! ド直球の本音が出てます!
焦る私を尻目に、鮫島先輩は軽やかに笑うと、私に向かって無言の目配せをした。あ、これは間違いなく、後押しをしろとのご命令だ。ご要望ではない、ご命令だ。私に拒否権なんかない。
「あの……今度海老名の方で、スポーツクラブシーナの新しい店舗がオープンしますよね。その宣伝を兼ねる条件で、少しだけお受けするのはいかがでしょうか」
おいコラ! 凛ちゃん! 裏切ったな!!
玲一さんのじっとりとした目が無言の内に私を責める。玲一さんごめんなさい。私正直、玲一さんより鮫島先輩の方がずっと怖いんです。
「いかがです? 社長代理。お気に入りの高階さんもこう言っていることですし」
鮫島先輩にそっと背中を撫でられ、私は少しだけひやりとする。私と玲一さんの関係については、まだ誰にも知られていないはずだ。
玲一さんは少し眉を上げて鮫島先輩をじっと見つめ、それからため息とともに天井を仰ぐと、
「わかったよ、もう……」
と脱力したように呟いた。
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