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第八章 玲一の過去
第二十八話
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無理だ、と俺は言った。だって、その水位は見るからに高くて、俺の背丈をゆうに超えていた。俺は溺れてしまうのが怖かったし、そもそもこんな汚い水に身体をつけるのも嫌だった。
引きつり笑いを浮かべながら無理だと繰り返す俺を見て、連中は心から楽しそうにゲラゲラと笑い出す。泳げ。無理だ。泳げ。無理だ。そういうやりとりを何度か重ねて、やがて小竹は唐突に俺の腹を蹴飛ばした。
受け身も取れずに背中からプールへと突き落とされた俺の身体は、汚いもののごった煮みたいな泥水の中へと沈んでいった。着ていたシャツがまとわりついて身体がうまく動かせない。そもそも俺の身体が重くて、もがけばもがくほど沈んでいく。
『助けて!』
水面に鼻と口を出しながら必死に叫ぶ俺を見て、ユカコが甲高い声でギャハハハと笑い出す。
『助けて! お願い、死んじゃう!』
やっとプールサイドにかけた手が、小竹の靴底で踏みつけられる。痛みに耐えきれず手を離せば、身体はまた水へと沈んでいく。
死ぬと思った。こいつらの笑い声に包まれながら、ああ、俺はきっとこのままゴミと一緒に溺れて死んでいくんだって。
そのときだった。
急に奴らの笑い声が止んで、どぼんと波が起きる音がした。必死にもがく俺の身体が、強い力で水面に向かってぐいと抱え上げられる。
ようやくプールから顔を出した俺は、鯉みたいに大口を開けながら口の中の水を吐き出した。そうしてやっと酸素を吸い込み、ああ生きていると安心して――
――従兄弟の波留が俺の身体を抱きかかえていると気づいたとき、俺は自分の目を疑った。だってあの水、冗談抜きでめちゃくちゃ汚かったんだよ。黒く濁って、ゴミも浮いて、なんか変なにおいだってした。
でも波留はどうってことない顔で、俺と一緒に肩までそのプールにつかりながら、
『何してんの』
と、笑いもせずにそう言った。
俺が呆然としていると、波留はそのままプールサイドの連中の方へと目を向けた。俺なんかとは違って、小学生の頃からあの容姿でひときわ目立っていた波留だ。ずぶ濡れのあいつの冷たい眼差しを受けて、連中は……特にユカコは、ほとんど泣きそうな顔になっていた。
『なあ。何してんの』
短い言葉が放つ威圧感に完全に圧し負けたらしい。あいつらは気まずそうな顔をしながら、逃げるようにプールから出て行った。
波留は力の入らない俺をそのままプールサイドへ運んで、何も言わずにランドセルを背負い、俺の手を引いて歩き出した。
俺も波留も全身びしょ濡れ。当然着替えなんて持ってない。
波留と手を繋いで歩いているうちに、今までずっと見ないふりをしてきた惨めさが心の中で爆発した。何もかもを我慢してまで隠し通してきた陰惨な現実を、よりにもよって従兄弟に見られてしまったのもつらかった。
俺は泣いた。声を上げて泣いた。溜めに溜め込んだ涙は止まらず、バケツの水をひっくり返したみたいにわあわあと泣き続けた。
道行く人々がずぶ濡れで泣き喚く俺を好奇の目で振り返る。それでも波留は無言のまま、俺の手を離さずにいてくれた。
やがて波留の家について、波留のお母さんに風呂と着替えを貸してもらった。柔らかいクッキーをおやつに貰って、二人でちょっとゲームをして……そうして一華ちゃんが迎えに来て、俺が帰るってなったとき、
『じゃあ、また明日』
玄関まで見送りに来た波留は、当たり前のようにそれだけ言うと、ゲームの続きが気になるみたいに自分の部屋へと戻っていった。
*
「それから俺はプールの類をいっさい受け付けられなくなった。プールサイドに立つだけで、あの日の記憶がフラッシュバックして身体がまったく動かなくなる。水に浸かると息が止まって、一時期は風呂に入るのも怖かった。風呂はまあ、さすがに今は平気だけど、プールの方は……まだだめでさ」
そこで一度言葉を切り、玲一さんは窓の外を眺めて息を吐いた。軽く伏せられたまぶた。ふ、とささやかな自嘲が漏れる。
「……ごめん。やっぱ、凛ちゃんに聞かせる話じゃなかったね」
「どうしてですか?」
「だって凛ちゃん、もう何度も俺に抱かれてるんだよ? 女は情報に濡れる生き物だからね。大企業の社長代理とカナヅチのいじめられっ子じゃ、感じ方だって変わってくるでしょ」
人を小馬鹿にした皮肉っぽい笑みは、以前にも一度見たことがあった。わざと突き放すような彼の目線を、私は真正面から受け止める。
「今の話を伺ったからって、何が変わるわけでもありません」
それから、静かに付け足した。
「どっちも玲一さんじゃないですか」
玲一さんはわずかに開いた唇を、ほんの一瞬、何か言いたげに歪んだ形へ震わせた。
彼はそのまま目を逸らし、眉間にしわを寄せて目を伏せる。固く結んだ唇は結局何を言うこともなく、
「……そっか」
と、かすかな微笑みだけが漏れて消えた。
車内に再び沈黙が戻った。タクシーは黙々と帰路を進み、あたりが真っ暗になってから会社の目の前で静かに停まる。
玲一さんが先に車を降り、私は領収書を受け取ってから続く。薄く雲のかかった夜空には細い月が浮かんでいる。玲一さんは両手をポケットに入れ、静かにそれを見上げていた。
「波留さんとは、その頃からのお付き合いなんですか?」
私の突然の質問に、玲一さんは少しだけ目を丸くした。私の表情が湖面のように静まり返っている様を見て、彼は「そうだね」と言ってから、ゆっくり身体ごと向き直る。
「いじめは結局なくならなかったけど、少なくとも波留といるときは、あいつらも何もしてこなかったから。中学、高校、大学までずっとくっついていって、そのまま今に至るって感じ」
「そうですか」
私は頷き、口元だけで微笑んだ。
「素敵な方ですね」
玲一さんは――もう一度、ほんのわずかに瞠目してから、
「うん」
と言って、はちみつみたいにはにかんだ。
引きつり笑いを浮かべながら無理だと繰り返す俺を見て、連中は心から楽しそうにゲラゲラと笑い出す。泳げ。無理だ。泳げ。無理だ。そういうやりとりを何度か重ねて、やがて小竹は唐突に俺の腹を蹴飛ばした。
受け身も取れずに背中からプールへと突き落とされた俺の身体は、汚いもののごった煮みたいな泥水の中へと沈んでいった。着ていたシャツがまとわりついて身体がうまく動かせない。そもそも俺の身体が重くて、もがけばもがくほど沈んでいく。
『助けて!』
水面に鼻と口を出しながら必死に叫ぶ俺を見て、ユカコが甲高い声でギャハハハと笑い出す。
『助けて! お願い、死んじゃう!』
やっとプールサイドにかけた手が、小竹の靴底で踏みつけられる。痛みに耐えきれず手を離せば、身体はまた水へと沈んでいく。
死ぬと思った。こいつらの笑い声に包まれながら、ああ、俺はきっとこのままゴミと一緒に溺れて死んでいくんだって。
そのときだった。
急に奴らの笑い声が止んで、どぼんと波が起きる音がした。必死にもがく俺の身体が、強い力で水面に向かってぐいと抱え上げられる。
ようやくプールから顔を出した俺は、鯉みたいに大口を開けながら口の中の水を吐き出した。そうしてやっと酸素を吸い込み、ああ生きていると安心して――
――従兄弟の波留が俺の身体を抱きかかえていると気づいたとき、俺は自分の目を疑った。だってあの水、冗談抜きでめちゃくちゃ汚かったんだよ。黒く濁って、ゴミも浮いて、なんか変なにおいだってした。
でも波留はどうってことない顔で、俺と一緒に肩までそのプールにつかりながら、
『何してんの』
と、笑いもせずにそう言った。
俺が呆然としていると、波留はそのままプールサイドの連中の方へと目を向けた。俺なんかとは違って、小学生の頃からあの容姿でひときわ目立っていた波留だ。ずぶ濡れのあいつの冷たい眼差しを受けて、連中は……特にユカコは、ほとんど泣きそうな顔になっていた。
『なあ。何してんの』
短い言葉が放つ威圧感に完全に圧し負けたらしい。あいつらは気まずそうな顔をしながら、逃げるようにプールから出て行った。
波留は力の入らない俺をそのままプールサイドへ運んで、何も言わずにランドセルを背負い、俺の手を引いて歩き出した。
俺も波留も全身びしょ濡れ。当然着替えなんて持ってない。
波留と手を繋いで歩いているうちに、今までずっと見ないふりをしてきた惨めさが心の中で爆発した。何もかもを我慢してまで隠し通してきた陰惨な現実を、よりにもよって従兄弟に見られてしまったのもつらかった。
俺は泣いた。声を上げて泣いた。溜めに溜め込んだ涙は止まらず、バケツの水をひっくり返したみたいにわあわあと泣き続けた。
道行く人々がずぶ濡れで泣き喚く俺を好奇の目で振り返る。それでも波留は無言のまま、俺の手を離さずにいてくれた。
やがて波留の家について、波留のお母さんに風呂と着替えを貸してもらった。柔らかいクッキーをおやつに貰って、二人でちょっとゲームをして……そうして一華ちゃんが迎えに来て、俺が帰るってなったとき、
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*
「それから俺はプールの類をいっさい受け付けられなくなった。プールサイドに立つだけで、あの日の記憶がフラッシュバックして身体がまったく動かなくなる。水に浸かると息が止まって、一時期は風呂に入るのも怖かった。風呂はまあ、さすがに今は平気だけど、プールの方は……まだだめでさ」
そこで一度言葉を切り、玲一さんは窓の外を眺めて息を吐いた。軽く伏せられたまぶた。ふ、とささやかな自嘲が漏れる。
「……ごめん。やっぱ、凛ちゃんに聞かせる話じゃなかったね」
「どうしてですか?」
「だって凛ちゃん、もう何度も俺に抱かれてるんだよ? 女は情報に濡れる生き物だからね。大企業の社長代理とカナヅチのいじめられっ子じゃ、感じ方だって変わってくるでしょ」
人を小馬鹿にした皮肉っぽい笑みは、以前にも一度見たことがあった。わざと突き放すような彼の目線を、私は真正面から受け止める。
「今の話を伺ったからって、何が変わるわけでもありません」
それから、静かに付け足した。
「どっちも玲一さんじゃないですか」
玲一さんはわずかに開いた唇を、ほんの一瞬、何か言いたげに歪んだ形へ震わせた。
彼はそのまま目を逸らし、眉間にしわを寄せて目を伏せる。固く結んだ唇は結局何を言うこともなく、
「……そっか」
と、かすかな微笑みだけが漏れて消えた。
車内に再び沈黙が戻った。タクシーは黙々と帰路を進み、あたりが真っ暗になってから会社の目の前で静かに停まる。
玲一さんが先に車を降り、私は領収書を受け取ってから続く。薄く雲のかかった夜空には細い月が浮かんでいる。玲一さんは両手をポケットに入れ、静かにそれを見上げていた。
「波留さんとは、その頃からのお付き合いなんですか?」
私の突然の質問に、玲一さんは少しだけ目を丸くした。私の表情が湖面のように静まり返っている様を見て、彼は「そうだね」と言ってから、ゆっくり身体ごと向き直る。
「いじめは結局なくならなかったけど、少なくとも波留といるときは、あいつらも何もしてこなかったから。中学、高校、大学までずっとくっついていって、そのまま今に至るって感じ」
「そうですか」
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