初恋カレイドスコープ

雪静

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第九章 すれ違う想い

第三十二話

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「高階先輩!」

 まともな挨拶も交わさないままさっさと店を出ようとした私を、大きな声と大きな身体がバタバタしながら追ってきた。

 振り返らなくても誰だかわかるから、私はその場で立ち止まる。他の連中は二次会と称して、別のお店へ移動するようだ。

「私のことをわざわざ追いかける必要はないよ、松岡くん」

 できるだけ穏やかな笑みを浮かべて、私は教え諭すように言う。

 松岡くんは私の隣に駆け寄ると、

「でも、放っておけないですよ」

 と言って、私の顔を覗き込んだ。

 あの後の合コンはひどいものだった。愛人の話から火が付いたみたいに、出てくる話題といえば玲一さんの噂や陰口ばかり。その大半は女性関係で、中にはかなり突っ込んだ下世話なものも多くあった。

 はじめは適当に笑顔の仮面でスルーしようとしていた私も、あまりにも生々しく失礼な内容にだんだん気分が悪くなってきて……腰を抱こうとするタレ目気障男の手を振り払い、飲み過ぎたと言い訳をして、結局後半のほとんどはトイレで時間を潰していた気がする。

「あの人たち、どうしてあんなに社長代理を悪く言うの?」

 空を見上げてため息を吐く私に、松岡くんは肩をすくめる。

「秘書課の高階先輩とは違って、俺たちみたいな下っ端社員は、社長代理と直接会ったり話す機会がありませんからね。青木副社長なんかは、結構気さくに話しかけてくれたりするんですけど」

「だからって、あんな嘘か本当かもわからないような話を、面白おかしく茶化してさ。社長代理に恨みでもあるの? 業績評価を下げられたとか?」

「そういうわけじゃ……まあ、上司の宿命ってやつじゃないですか?」

 宿命だって? 納得いかない。

 会社のためにあんなに真面目に仕事に取り組んでいる人なのに、どうして何も知らない奴らに好き放題笑われなきゃいけないんだ。

「ちょ、ちょっと先輩、どこ行くんですか?」

「一人で飲みなおしてくる」

「やめましょうよ、先輩弱いんですから。飲むなら水とかお茶にしましょう? ほら、そこに自販機ありますし」

 松岡くんが指さしたのは、繁華街の片隅にある小さな公園だった。酒を求めてふらつく私を、彼は強引に公園のベンチへ座らせ、大急ぎでペットボトルを二本買って戻ってくる。

「はい、どうぞ」

 小さな声でお礼を言って、もらったお水に口をつけた。ひとくち飲み込んだくらいでは、お腹にくすぶるもやもや感はどうにも収まりそうにない。

「でも俺、正直ちょっと安心しました。高階先輩が例の噂をハッキリ口で否定してくれて」

「……例の噂?」

「高階先輩が社長代理の愛人だって話です。あれ、結構大きな噂になっていたんですよ。高階先輩が秘書課に動いたのは、その……身体を売ったからだって」

 冷静に考えれば時系列がおかしいって、わかりそうなものなんですけどね……と、松岡くんは私の表情をちらちらと伺っている。

「……社長代理はすごい人なんだから、私なんか相手にするわけないじゃない」

 はっ、と鼻で笑って見せる。

 そして同時に、鈍い痛みが心臓を刺した。自分の言葉に自分の心が悲鳴を上げているのがわかる。

「そんなことは……」

「あるの、そんなこと。あのね松岡くん。すごい人の隣には、同じくらいすごい人がいるんだよ。社長代理の特別な人はね、本っ当にすごいんだから。もう、さっきの連中なんて、逆立ちしたって敵わない」

 そして、私も。

 胸の奥からせり上がるものをそのまま外へ逃がすみたいに、私は軽く空を仰ぐと大きなため息を吐きだした。透き通るような秋の夜空には薄い雲がたなびいていて、その奥にはまん丸な月が煌々と光り輝いている。

 綺麗な月だ。丸くて美味しそう。小さい頃はよく空へ手を伸ばし、あの月を捕まえて弟に見せようと躍起になったものだった。

 あの頃よりずいぶん背が伸びたのに、今や私は手を伸ばすどころか、どこまでも輝く月を追いかけることすらしなくなった。だって、もう、わかってる。私がどんなに走ったって、月には決して届かない。

(そう、届かない。永遠に)

 気づけば、涙が溢れていた。はじめはぽろぽろと零れ落ちるだけだった透明の雫が、やがて一筋の川のように頬を伝って流れていく。

 涙が、止まらない。胸が苦しくて仕方ない。

 逆立ちしたってセフレ止まりの、自分の立場がひどく虚しい。

「先輩」

 はっ、と私が顔を上げたのは、彼の指先が私の喉を震えながらなぞったからだ。タートルネックにかかった指が、ぐい、と襟を喉元へ下げる。

「これ……なんですか……?」

 松岡くんの瞳に滲む、驚き。そして戸惑い。

 私の目尻に残った涙が頬を伝って落ちた瞬間、そこに火花が飛び散るような激しい怒りが弾け出た。

「先輩」

「松岡くん、あの」

「正直に言ってください。これ、まさか」

「違う、待って、違うの、それは」

「社長代理につけられたものなんじゃ、……まさか、噂は、本当なんじゃ」

「違うんだって、ねえ」

「だったらこれは何の傷なんですか!? どうして先輩は泣いているんですか!?」

 両手で頬を掴まれて、真正面から怒鳴られて。

 あまりにもまっすぐな彼の怒りが、私を捕らえて離さない。純粋に、真剣に、私のことを思う強い気持ちが――見つめられた瞳を通じて私の心を包み込む。

「私」

 ぎりぎりのところで留まっていた、我慢していた心の本音が、涙のひとしずくみたいにぽろと口からこぼれ落ちる。




「もう……やめたい」


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