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第十章 さようなら恋心
第三十三話
しおりを挟む本当はもうわかっていた。
どれだけ身体を繋げていても、私と彼の心が繋がる日は、きっと永遠に来ないって。
彼の中には私と出会うずっとずっとずっと前から、他に比較のしようがないほど特別な存在が座っていて。
私がどれほど努力したって、その人には敵わない。たぶん彼もそのことを知っていて、私の想いを断った。
――高階は俺を何も知らない。
この言葉の意味が、今の私ならはっきりとわかる。
確かに私は玲一さんのことを、何も……知らなかった。
「だからって、そんな」
私の手を強く握り締め、松岡くんは憤りを隠さず言う。
「どんな綺麗な言い方をしたって、社長代理が高階先輩を弄んだことに変わりはないじゃないですか!」
……この子は本当にいい子だな。私が経緯を説明している間も、松岡くんは自分のことみたいに怒り、悲しみ、苦しんでくれた。
私は弄ばれただけ。傍目から見ればそうかもしれない。
でも私には、玲一さんに弄ばれたという感覚はあまりなくて……それは金銭的にもそうだけど、何より私自身が、彼と一緒に過ごすことで本当に満たしてもらえていたからだ。
相互利益と彼は言った。実際、そのとおりだったと思う。
だからかな。完全に失恋を実感した今でも、私はまだ彼のことをこんなにも好きなままなんだ。
「でも、もうやめる」
いやに清々しい私の口ぶりに、松岡くんは怪訝な顔をする。
「泣いてすっきりしたら気づいたんだ。私もいい加減、前に進まないと。いつまでも立ち止まっていたって、これ以上何も変わらないしね」
「先輩……」
「あの愛菜だって、どんどん新しい道を歩いて行ってるんだもの。……あー、私って単純かな? ちょっと周りに感化されすぎかも」
涙をぬぐい、へらへら笑う私の顔をじっと見つめて、松岡くんはひどく険しく眉を寄せる。
「……社長代理が、関係の解消を拒む可能性は?」
玲一さんのきれいな横顔が、ほんの一瞬、脳裏をよぎる。
「……それはないよ。だってこの関係を望んだのは私の方だし、社長代理はずっと私に合わせてくれていただけだもの」
「本気でそう思ってるんですか? 首にこんな痕つけるほど独占欲丸出しの男ですよ。そう簡単に先輩のことを手放すはずないと思うんですけど」
松岡くんの指が傷痕に触れ、かすかな痛みが心を揺さぶる。
私は傷を隠すふりをして、彼の手をそっと振り払った。今ここに触れられるのは、少し、つらいから。
「大丈夫」
自分自身に言い聞かせるように、彼の目を見つめて強く言う。
「社長代理は、私のことなんて好きじゃない」
私の無力な笑顔を見て、松岡くんはどう思ったのだろう。顔を歪め、ぎゅっと目をつむり、自分自身が傷つけられたみたいに、苦しそうに低くうめく。
そのとき、突然頬に手が触れたと思うと、がちっ、と歯と歯のぶつかる音がした。遅れて感じた唇の感触。――これ、まさか、もしかして。
顔を離した松岡くんが、手の甲でぐいと唇をぬぐう。そして彼は、ぽかんと間抜けに口を開けたままの私を見つめ、いつになく真剣に言い放った。
「俺じゃ、だめですか」
*
『電話なんて珍しい。どうしたの? 本当に会いたくなっちゃった?』
そろそろ十一時を過ぎようとする頃なのに、玲一さんは数コールも待たずすぐに電話に出てくれた。
またお酒でも飲んでいるのかな。上機嫌な声を聞いて、彼に噛まれた喉の傷痕がきりきりと甘く疼き出す。
「玲一さん」
私の声の微妙な重さに、きっと彼なら気づいたはずだ。数秒の間を置いて『どうしたの』ともう一度、今度は低いトーンの声が私の様子を伺ってくる。
「私……玲一さんを、卒業しようと思うんです」
返事の代わりに聞こえたのは、彼が静かに息を呑む音だった。
胸が締め付けられるように痛い。今ならまだ引き返せると、私の心の弱い部分がひっきりなしに叫んでいる。
でも私はその声を振り払い、鏡の中の自分を睨みつける。これを最後にするのだと、覚悟を決めてきたはずだ。
「本当の玲一さんを知りたくて、セフレとしてだけど一緒に過ごして……私、玲一さんを好きになったことは、間違いじゃなかったと思いました。口先では悪ぶったことを言うけど、本当のあなたもとても素敵な、優しくて真面目で、誰にでも自慢できる最高の人だと思います」
『…………』
「だからこそ、私は……あなたと過ごした時間を全部、私自身の成長に繋げて、そろそろ次に進まなきゃいけないと思うんです。いつまでも立ち止まっていないで、きちんと前を向いて、なりたい自分の未来の姿をしっかり頭に思い描いて」
そこで一拍置き、私は全身の空気を吐き出すように言う。
「自分の幸せを、探しに行こうと思うんです」
玲一さんは、黙っている。彼の静かな息遣いだけが、電話の向こうから淡々と、風の音みたいに聞こえてくる。
やがて長い沈黙の後、彼はひどく落ち着いた声で、
『凛ちゃんは、本当の恋を見つけたの?』
と、私に訊ねた。
「まだ、わかりません」
できるだけ感情を込めず、私は静かな声で言う。
「でも、そうなればいいなと思っています」
電話の向こうの玲一さんが、ほんのかすかに笑うのがわかった。
『そっか』
ぎし、と、スプリングの軋む音がする。獣のように求めあった、あの二段重ねのマットレス。
二人で話した夜の秘書室。肩を寄せ合ったタクシーの車内。一緒に食べたラーメン屋さん。きらきらしたシンガポールの夜。
彼と過ごした数多の時が、走馬灯のようによみがえる。本当にたくさん笑いあって、たくさんのことを教えてもらった。
『今まで、ありがとう』
「私こそ」
震える喉に感情が詰まる。
「本当に……ありがとうございました」
最後の最後にみっともない声を聞かれてしまうのが恥ずかしくて、私は逃げるようにそれだけ言うと、急いで通話をオフにした。自分から話を終えたはずなのに、部屋の沈黙が耳に痛む。自分の心臓の音ばかりが、馬鹿みたいに大きく響いている。
ひとりぼっちの部屋の中では、やっぱり心は寒いままで――シンガポール・スリングの甘いくちどけが記憶の中で儚く消えた。
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