初恋カレイドスコープ

雪静

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第十章 さようなら恋心

第三十四話

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 曖昧な関係に終止符を打っても、私は未だ私のまま。

 寝て起きればまた朝が来る。顔を洗って、髪を結んで、いつものスーツに着替えをして。

 ちょうど改札を通ったとき、人混みの合間に頭ひとつ分大きな彼の姿を見つけた。私が声をかけるより早く、こちらの姿に気づいた彼が、ぱっと表情を明るくして大きく手を振ってくれる。

「凛さん、おはようございます!」

「おはよう、松岡くん」

 ナチュラルに出てきたその呼び名は、どうやら彼のお気に召さなかったようだ。

 駆け足で隣に並んだ彼は、むっと唇をとがらせて、じっとりとした非難の瞳で私の顔を覗き込んだ。

「仕事中以外は名前で呼んでって、お願いしたじゃないですか」

 ……ああ、そうだった。

 ひとつの繋がりが終わると同時に、私に生まれた新しい繋がり。

 私は今、この松岡颯太くんと――『お付き合いのお試し期間』をしているんだった。

「ごめん。……颯太、くん?」

 騒々しい朝の足音にほとんどかき消されてしまうほどの小さな声で、やっと呼んだ彼の名前。

 颯太くんはにっこり笑うと、

「嬉しいです」

 と言って、見えない尻尾をぶんぶん振った。




 『お付き合いのお試し期間』とは。

 友達よりもちょっと親しく、でも恋人と呼べるほどの仲じゃない。

 お互い適度な距離を保って、少しずつ意識を深めながら、うまくいきそうなら正式にお付き合い。ちょっとダメそうなら無理せず友達に戻る。

 最初に提案されたときは正直よくわからなかったけど、言ってしまえばセックスをしないセフレみたいなものらしい。(この発想がすぐ出てくるあたり私も悪くなったものだと思う)普通のセフレよりなんとまあ健全かつ建設的な間柄だろう。

 ――先輩が俺のこと、弟か犬としか見てくれていなかったことは知ってます。

 私の目をまっすぐ見つめ、颯太くんは静かに言った。

 ――だからまずは俺のこと、一人の男として見てほしいんです。今すぐ返事が欲しいとは言いません。ゆっくりと時間をかけて、心の傷が癒えてからで。……その時まで、俺、ずっと待っていますから。

 見慣れた可愛い後輩の顔が知らない男の人みたいに見えて、私は当然驚いた。そして、正面から向けられる熱い目線に、少しだけドキッともした。

 だって、営業課で一緒だった頃からずっと好きだったと言われてしまったら……私は彼の片思いを何年無視していたのだろう? そしてその間、彼はどれだけ一途に私を見ていてくれたのだろう?

(だからってすぐに付き合う勇気はないけれど、正直、嫌ではなかったな)

 ビルに入ってから颯太くんと別れ、エレベーターで秘書室へ向かう。自分のデスクで鞄の中身を整理していると、始業ぎりぎりに社長代理が部屋へ入ってきた。

「おはようございます」

 鮫島先輩のきれいな声に合わせ、秘書たちがいっせいに挨拶をする。

 無表情で歩いてきた社長代理は、まっすぐ前を見据えたまま、

「おはよう」

 とだけ言って、そのまま奥の社長室へと姿を消した。

(……仕事中の社長代理がそっけないのはいつものことだけど)

 朝の挨拶の時点で目が合わないのは久々な気がする。思えばここ最近はずっと――少なくとも関係が始まってからは――挨拶の時に必ず一瞬、私と目線を合わせてくれた。

 今までの私はその些細な絡みを当然のことのように思っていたけど、言ってしまえばあれはセフレという関係に付随するものだったのだろう。関係そのものが終わってしまえば、私を特別視する必要もない。

(…………)

 自分から言い出したことのくせに、なにを一丁前に傷ついているのかと、心の中で叱咤する。

 恋人になれない人の隣でいつまでも立ち止まっている暇はない。私自身そう思ったから、社長代理との関係を清算し、前へ進む決意をしたはずだ。

「高階さん、ちょっと」

「はい!」

 勢い余って響き渡るほどの大声で返事をした私を見て、鮫島先輩はちょっと眉を上げると「気合入ってるわね」と言ってうっすら微笑んだ。







 その日、秘書室のミーティングテーブルには、いつもより少し張り詰めた空気が漂っていた。

 テーブルを挟んで向かい合うのは、社長代理と鮫島先輩。鮫島先輩は社長代理の側へ、一枚の紙を静かに差し出す。

「こちらがその、株主からの質問状になります」

 質問状? 株主総会の時期でもないのに?

 聞いちゃいけないと思いながらも、仕事をしながらつい聞き耳を立ててしまう。社長代理は紙を見つめて、何やらため息を吐いているようだ。

「こちらについて、お心当たりは」

「ありますよすみませんね。でももう大昔に別れた相手だ。書いてある内容はほとんど嘘」

 不機嫌そうに紙を叩く社長代理に、鮫島先輩の笑みが深くなる。不穏な空気。私以外の秘書の先輩方も、少しそわそわしているみたい。

「ちなみにどのあたりが真実になるので?」

「そんなことお前に教えるかよ」

「まあ、怖い。ふふふ……しかし、回答するには多少はお教えいただかねばなりませんからね」

 艶やかに微笑む鮫島先輩が、ゆっくりとこちらを向いて手招きした。しばらくきょとんとしていた私は、少ししてから自分が呼ばれているのだと気づき、慌てて小走りでテーブルへ向かう。

「おい、鮫島」

「回答の作成を彼女にも手伝ってもらおうと思いまして。ね、高階さん」

 わけもわからないまま鮫島先輩の隣へ座らされた私は、社長代理の手元のものと同じ紙を渡され愕然とした。

 質問状、と厳かに書かれたそれは、どうやら弊社の有力な株主から送られてきたものらしい。以下についての真偽を問う、とのことで、女性に人気のおしゃれなSNSのスクリーンショットが張り付けてある。

 内容は……どうやら、女性からの告発のようだ。かつて椎名玲一と恋仲だったが、この男の夜はひどいものだったと。殴られたり首を絞められたり、行為中の暴力は当たり前。中絶を強制されたこともある。関係が冷めてきた頃には他の男の相手を強制され、このままでは殺されると思い命からがら逃げだしたと。

 ご丁寧に付けられた写真には、薄暗い部屋で眠る社長代理の穏やかな顔が映っている。私も知っている彼の寝顔。自分だけの宝物ではなかったと、わかってはいたけどやはり複雑な気持ちになってしまう。

「まず一つ目、この女とは付き合ってない。知人の紹介で顔を合わせて、一緒に酒を飲みはした。二つ目、俺は女を殴れない。一華ちゃんに厳しく躾けられたからね。三つ目、俺は必ず避妊する。で四つ目、女衒なんてしない」

 ……逆に言えば、この人と寝たこと自体は否定しないわけだ。胸に湧き上がるもやもやを、奥歯を噛んでぐっと堪える。

(いや、今はもうこんなことで苦しむ必要はないはずだ)

 私と社長代理は赤の他人。

 社長代理が昔どんな人と親しくしていたとしても、今の私には何の関係もないはずじゃないか。……そうだよね?

「では、名誉棄損で訴えても問題はなさそうですね」

「当たり前だろ。きっちりやれ」

「わかりました。……では社長代理。個人的にもうひとつ、確認させていただきたいことが」

 そう言って、鮫島先輩は胸ポケットから自身のスマホを取り出した。その画面を覗き込んだ社長代理の表情が、唐突に霜が降りたみたいに一瞬で凍りつく。

「こちらのお写真については、どのように対処いたしましょうか?」

 それは――別のSNSの画面だった。『卒アルでこんなやつ見つけた』と言って、少年の顔写真が載せられている。下部の数字はこの投稿がどれだけ拡散されたかを示していて、数字だけ見れば文句なしに「バズっている」と呼べる状況だ。

 くしゃくしゃ髪で、分厚い眼鏡で、肥満体型で、……今にも泣きだしそうな顔で、正面を向いているその顔は――



 ガタン!



 唐突な物音は、社長代理が椅子を蹴って立ち上がったからだ。両手をテーブルに突き、固く唇を結んだ彼は、完全に血の気の引いた顔で虚ろな目を泳がせている。

「……少し考える」

 聞き取れないほど低い声でそう短く言い捨てて、社長代理はきびすを返すと社長室へと戻っていった。

 鮫島先輩は微笑を浮かべ、スマホを懐へしまい込む。

 私一人が不安の中で、社長代理の消えた扉をただ茫然と見つめていた。
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