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第十章 さようなら恋心
第三十五話
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あれから少し、自分でも調べてみた。まず、社長代理の元カノを名乗る女性による嘘投稿について。
件のアカウントは私物のようで、作成されたのは二年前。遊びに行った場所や食べたものの写真、そしてお友達との写真が全部顔出しで載せられていた。行動範囲から見れば、少なくとも神奈川県内に住んでいるのは間違いないと思う。
次にもうひとつのSNSの方。今なお着実に拡散が進む、小学校の卒業アルバムの写真。
こちらの投稿主はアイコンを見るに男性で、アカウントは最近作成されたばかりのもの。個人情報についてはほとんど拾えなかったけど、例の投稿に最初に反応したのがある雑誌のアカウント……そう、以前波留さんと一緒に殴り込みに行った、あの不届きな三流雑誌である点が気になった。
元カノを名乗る女の投稿。
卒アルを晒す不審な人物と、それに呼応したアカウント。
ほとんど同時のタイミングでの動きに、何か作為的なものを感じてしまうのは私だけだろうか。しかもこの女のSNS、少し前の投稿を遡ってみると、卒アルの投稿主らしき男と飲んでいる写真が見受けられるのだけど……。
「凛さん」
真上から降り注ぐ声に、ハッと気づいて顔を上げる。
困ったような颯太くんの顔。そうだ私、これから夕食へ行くために、駅で颯太くんと待ち合わせている最中なんだった。
「どうしたんですか。あ、SNSやってるんですか?」
「いや、これは仕事で」
「仕事? ……ああ、あれですね。社長代理の元カノの告発」
ふーっとため息を吐いて、颯太くんは私の手からスマホをそっと取り上げる。彼ももう知っていたのかと、情報が巡るスピードの速さになんだか薄ら寒い心地がする。
「ねえ凛さん。もう仕事は終わったんだから、社長代理のことを考えるのはやめましょうよ。どんなに凛さんが頑張ったって、残業代なんて一円も出ないし、得るものだって何もないんですから」
呆れたような表情の中には、明確な怒りが見え隠れしている。嫉妬……というよりも、未だに踏ん切りのつかない私への苛立ちといったところかな。
「……そうだね」
颯太くんの言うことは正しい。退社後に仕事のことをあれこれ考えても仕方ないし、今こうして颯太くんといるのに、いつまでも社長代理のことを考えているのは失礼だ。
「ごめん、もうやめるよ。今日はどこに行くんだっけ?」
「今日はイタリアンですよ! あそこのパスタはボリュームあって、俺、昔から大好きなんです」
麺類か。ラーメン食べたいな。
頭の中にちらとよぎった豚骨の香りを振り払い、私は笑顔の仮面をかぶると颯太くんの隣を歩き出した。
*
「あっ、すみません! こちらでお仕事されている方ですか!?」
朝、会社の傍で呼び止められてとっさに足を止めた私は、小さなマイクをずいと向けられて思わず変な声を上げた。
知らない男の人が二人、なんとも言い難い卑しい笑みで私の身体を取り囲む。一人は自撮り棒に固定したスマホをこちらへ向けているようだ。
「あの、こちらの社長さんのこと、ちょっと教えてもらいたいんです! すぐ終わりますんで!」
いいとも悪いとも言っていないのに、男はマイクを私へ突きつけると、
「あなたはここの社員として、椎名玲一社長をどう思っていますか!? 普段の生活や仕事ぶりについて、知っていることがあれば教えてください!」
と、矢継ぎ早にまくしたてる。
これは……一体なに? 私が横へ避けて逃げようとしても笑って行く手を遮ってくるし、ひとつも返事なんてしていないのに次から次へと質問を投げてくる。
元カノの告発が出ていましたけど、あれについてどう思いますか? 拡散された卒アル写真は本物だと思いますか? 社内での評判は? 手を出された社員は? 秘書をとっかえひっかえしているって本当?
「すみません、急いでいるので……」
両手でぎゅっと鞄を抱きしめ、顔を隠して通り過ぎようとする。でも、男たちはそんな私の反応すら楽しむみたいに、スマホのカメラを無遠慮に近づけ顔を覗き込もうとする。
そのとき、
「邪魔だ」
男たちのちょうど間から、地を這うように低い声が無遠慮に耳へ飛び込んできた。
思わず縮み上がってしまうような、得体の知れない威圧感。どうやらおののいたのは私だけではなかったようで、男たちも笑顔を引っ込めて、慌てて後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、背が高く、足が長く、めまいがするほど整った顔立ちの若い男性――えっ、波留さん!?
「歩道の真ん中で立ち止まられるのは通行の邪魔だ」
「あ、は、はい」
「あと、そういう棒を往来で振り回すのは立派な危険行為になる。現に俺の顔に当たりかけた」
「す、すみません」
「通行人の前に立ちふさがり歩行を妨害するのも、訴えられればまあ負けるだろう。その行為に何かしらの正当性があるなら別だが、見たところそういうわけでもなさそうだ」
抑揚のない声でつらつらと述べながら、波留さんは男たちの間を静かな足取りで歩いていく。彼から溢れる途方もない圧力と絶対零度の侮蔑の視線に、男たちはすっかり気を削がれて歩道の脇で縮こまってしまった。
やがて、なぜか男たちと一緒になって端に避けていた私の前で、波留さんはゆっくりとその足を止めた。底冷えするような切れ長の瞳。道端で干からびたミミズを見る目に、私は小さく身震いする。
「秘書の方ですね」
……あ、意外。私のこと、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
少しだけ嬉しくなった私だったけど、波留さんは相変わらず冷めきった表情のまま、
「椎名玲一のもとへご案内願えますか」
と、弊社ビルを軽く睨めつけた。
社長代理の今日のスケジュールに、波留さんとのアポイントは無かったはずだ。私は社長代理の秘書として、彼の一日の予定については常に把握するようにしている。
いかに波留さんが相手と言えど、約束の確認ができないのにお通しするわけにはいかない。私は慌てて社長代理に連絡し、波留さんがおいでになった旨をできるだけ簡潔にお伝えした。
私の言葉を聞いた社長代理は数秒黙り込み、でも、やがて諦めたみたいに『連れてきて』と短く言う。
(社長代理は、波留さんのために無理に時間を作ることにしたのかな)
エレベーターに案内しながら、傍らの波留さんの顔を見上げる。にこりともせず虚空を睨む、波留さんの表情は前回同様……いや、前回以上に峻険だ。
波留さんとともに秘書室に入ると、秘書の先輩方がぎょっと目を見張るのがわかった。そうだよね、だって波留さん、ものすごく目立つもの。いきなりこんなオーラを放つ美形が部屋に入ってきたら、たぶん誰でも驚くだろうし、色めき立つのも無理はない。
「お前の事務所、飛び込み営業が必要なほど仕事に困ってたの?」
社長室の椅子に腰かけ、指先を軽く組んだ社長代理は、波留さんの顔を見るなりそう皮肉っぽく言い捨てた。
波留さんは別段怒るわけでもなく、居酒屋のカウンターに座るみたいに来客用の椅子へ腰かける。長い足が置き場所に窮するように、斜め横へと乱暴に組まれる。
「仕事は忙しい」
ただでさえ険しい波留さんの眉間に、いつもより深いしわが刻まれる。
「でも、お前に話があって来た」
かすかに微笑む社長代理と波留さんの鋭い瞳が、小さな火花を散らしあいながら真っ向から睨みあった。
「……俺はないね。飲みの誘いなら歓迎するけど」
「はぐらかすな。本当はわかっているんだろう」
「さあ。なんのこと? そんな顔してると奥さんに嫌われるよ」
「俺は無駄話をしに来たわけじゃない」
このまま話が始まりそうだったので、私は二人へ一礼すると足早に部屋を出ようとした。お二人の会話に私が同席する必要はない。むしろ、私がいても却って邪魔になるだけだ。
ところが波留さんは、横を通り過ぎようとした私を手で指すと、
「さっきも外で彼女が妙な連中に絡まれていた」
と、社長代理の目を見つめ、なじるような声で言った。
社長代理の目線が私を一瞥し、また波留さんへ戻る。私は足を止めたまま……動くに動けず、ただ立ち竦む。
「お前の醜聞を探って公表しようとしている輩がいる。今はまだインターネット上のみに留まっているが、このままだといずれ話が大きくなっていく可能性もある」
「…………」
「何を相手にしているかは知らないが、釘を刺すなら早めがいい。会社の顧問弁護士を使いづらいなら、俺が手を貸してやれる」
社長代理は波留さんを見つめたまま、感情の読めない瞳でしばらく黙り込んでいたけど、やがてふっと口角を上げると、
「お前には関係ない」
と、ひどく冷たく、突き放すように言った。
波留さんがまた眉をひそめる。前はあれだけ親しげに見えた二人を取り囲む空気が、剣呑な、緊張感の漂うものに変わっていく。
無言の睨み合いが続き、やがて社長代理は椅子の背もたれにゆっくりと寄りかかった。彼は波留さんの、そのさらに奥を遠い眼差しで見据え、
「俺ひとりでなんとかするよ」
と言って、どこか力なく微笑んだ。
件のアカウントは私物のようで、作成されたのは二年前。遊びに行った場所や食べたものの写真、そしてお友達との写真が全部顔出しで載せられていた。行動範囲から見れば、少なくとも神奈川県内に住んでいるのは間違いないと思う。
次にもうひとつのSNSの方。今なお着実に拡散が進む、小学校の卒業アルバムの写真。
こちらの投稿主はアイコンを見るに男性で、アカウントは最近作成されたばかりのもの。個人情報についてはほとんど拾えなかったけど、例の投稿に最初に反応したのがある雑誌のアカウント……そう、以前波留さんと一緒に殴り込みに行った、あの不届きな三流雑誌である点が気になった。
元カノを名乗る女の投稿。
卒アルを晒す不審な人物と、それに呼応したアカウント。
ほとんど同時のタイミングでの動きに、何か作為的なものを感じてしまうのは私だけだろうか。しかもこの女のSNS、少し前の投稿を遡ってみると、卒アルの投稿主らしき男と飲んでいる写真が見受けられるのだけど……。
「凛さん」
真上から降り注ぐ声に、ハッと気づいて顔を上げる。
困ったような颯太くんの顔。そうだ私、これから夕食へ行くために、駅で颯太くんと待ち合わせている最中なんだった。
「どうしたんですか。あ、SNSやってるんですか?」
「いや、これは仕事で」
「仕事? ……ああ、あれですね。社長代理の元カノの告発」
ふーっとため息を吐いて、颯太くんは私の手からスマホをそっと取り上げる。彼ももう知っていたのかと、情報が巡るスピードの速さになんだか薄ら寒い心地がする。
「ねえ凛さん。もう仕事は終わったんだから、社長代理のことを考えるのはやめましょうよ。どんなに凛さんが頑張ったって、残業代なんて一円も出ないし、得るものだって何もないんですから」
呆れたような表情の中には、明確な怒りが見え隠れしている。嫉妬……というよりも、未だに踏ん切りのつかない私への苛立ちといったところかな。
「……そうだね」
颯太くんの言うことは正しい。退社後に仕事のことをあれこれ考えても仕方ないし、今こうして颯太くんといるのに、いつまでも社長代理のことを考えているのは失礼だ。
「ごめん、もうやめるよ。今日はどこに行くんだっけ?」
「今日はイタリアンですよ! あそこのパスタはボリュームあって、俺、昔から大好きなんです」
麺類か。ラーメン食べたいな。
頭の中にちらとよぎった豚骨の香りを振り払い、私は笑顔の仮面をかぶると颯太くんの隣を歩き出した。
*
「あっ、すみません! こちらでお仕事されている方ですか!?」
朝、会社の傍で呼び止められてとっさに足を止めた私は、小さなマイクをずいと向けられて思わず変な声を上げた。
知らない男の人が二人、なんとも言い難い卑しい笑みで私の身体を取り囲む。一人は自撮り棒に固定したスマホをこちらへ向けているようだ。
「あの、こちらの社長さんのこと、ちょっと教えてもらいたいんです! すぐ終わりますんで!」
いいとも悪いとも言っていないのに、男はマイクを私へ突きつけると、
「あなたはここの社員として、椎名玲一社長をどう思っていますか!? 普段の生活や仕事ぶりについて、知っていることがあれば教えてください!」
と、矢継ぎ早にまくしたてる。
これは……一体なに? 私が横へ避けて逃げようとしても笑って行く手を遮ってくるし、ひとつも返事なんてしていないのに次から次へと質問を投げてくる。
元カノの告発が出ていましたけど、あれについてどう思いますか? 拡散された卒アル写真は本物だと思いますか? 社内での評判は? 手を出された社員は? 秘書をとっかえひっかえしているって本当?
「すみません、急いでいるので……」
両手でぎゅっと鞄を抱きしめ、顔を隠して通り過ぎようとする。でも、男たちはそんな私の反応すら楽しむみたいに、スマホのカメラを無遠慮に近づけ顔を覗き込もうとする。
そのとき、
「邪魔だ」
男たちのちょうど間から、地を這うように低い声が無遠慮に耳へ飛び込んできた。
思わず縮み上がってしまうような、得体の知れない威圧感。どうやらおののいたのは私だけではなかったようで、男たちも笑顔を引っ込めて、慌てて後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、背が高く、足が長く、めまいがするほど整った顔立ちの若い男性――えっ、波留さん!?
「歩道の真ん中で立ち止まられるのは通行の邪魔だ」
「あ、は、はい」
「あと、そういう棒を往来で振り回すのは立派な危険行為になる。現に俺の顔に当たりかけた」
「す、すみません」
「通行人の前に立ちふさがり歩行を妨害するのも、訴えられればまあ負けるだろう。その行為に何かしらの正当性があるなら別だが、見たところそういうわけでもなさそうだ」
抑揚のない声でつらつらと述べながら、波留さんは男たちの間を静かな足取りで歩いていく。彼から溢れる途方もない圧力と絶対零度の侮蔑の視線に、男たちはすっかり気を削がれて歩道の脇で縮こまってしまった。
やがて、なぜか男たちと一緒になって端に避けていた私の前で、波留さんはゆっくりとその足を止めた。底冷えするような切れ長の瞳。道端で干からびたミミズを見る目に、私は小さく身震いする。
「秘書の方ですね」
……あ、意外。私のこと、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
少しだけ嬉しくなった私だったけど、波留さんは相変わらず冷めきった表情のまま、
「椎名玲一のもとへご案内願えますか」
と、弊社ビルを軽く睨めつけた。
社長代理の今日のスケジュールに、波留さんとのアポイントは無かったはずだ。私は社長代理の秘書として、彼の一日の予定については常に把握するようにしている。
いかに波留さんが相手と言えど、約束の確認ができないのにお通しするわけにはいかない。私は慌てて社長代理に連絡し、波留さんがおいでになった旨をできるだけ簡潔にお伝えした。
私の言葉を聞いた社長代理は数秒黙り込み、でも、やがて諦めたみたいに『連れてきて』と短く言う。
(社長代理は、波留さんのために無理に時間を作ることにしたのかな)
エレベーターに案内しながら、傍らの波留さんの顔を見上げる。にこりともせず虚空を睨む、波留さんの表情は前回同様……いや、前回以上に峻険だ。
波留さんとともに秘書室に入ると、秘書の先輩方がぎょっと目を見張るのがわかった。そうだよね、だって波留さん、ものすごく目立つもの。いきなりこんなオーラを放つ美形が部屋に入ってきたら、たぶん誰でも驚くだろうし、色めき立つのも無理はない。
「お前の事務所、飛び込み営業が必要なほど仕事に困ってたの?」
社長室の椅子に腰かけ、指先を軽く組んだ社長代理は、波留さんの顔を見るなりそう皮肉っぽく言い捨てた。
波留さんは別段怒るわけでもなく、居酒屋のカウンターに座るみたいに来客用の椅子へ腰かける。長い足が置き場所に窮するように、斜め横へと乱暴に組まれる。
「仕事は忙しい」
ただでさえ険しい波留さんの眉間に、いつもより深いしわが刻まれる。
「でも、お前に話があって来た」
かすかに微笑む社長代理と波留さんの鋭い瞳が、小さな火花を散らしあいながら真っ向から睨みあった。
「……俺はないね。飲みの誘いなら歓迎するけど」
「はぐらかすな。本当はわかっているんだろう」
「さあ。なんのこと? そんな顔してると奥さんに嫌われるよ」
「俺は無駄話をしに来たわけじゃない」
このまま話が始まりそうだったので、私は二人へ一礼すると足早に部屋を出ようとした。お二人の会話に私が同席する必要はない。むしろ、私がいても却って邪魔になるだけだ。
ところが波留さんは、横を通り過ぎようとした私を手で指すと、
「さっきも外で彼女が妙な連中に絡まれていた」
と、社長代理の目を見つめ、なじるような声で言った。
社長代理の目線が私を一瞥し、また波留さんへ戻る。私は足を止めたまま……動くに動けず、ただ立ち竦む。
「お前の醜聞を探って公表しようとしている輩がいる。今はまだインターネット上のみに留まっているが、このままだといずれ話が大きくなっていく可能性もある」
「…………」
「何を相手にしているかは知らないが、釘を刺すなら早めがいい。会社の顧問弁護士を使いづらいなら、俺が手を貸してやれる」
社長代理は波留さんを見つめたまま、感情の読めない瞳でしばらく黙り込んでいたけど、やがてふっと口角を上げると、
「お前には関係ない」
と、ひどく冷たく、突き放すように言った。
波留さんがまた眉をひそめる。前はあれだけ親しげに見えた二人を取り囲む空気が、剣呑な、緊張感の漂うものに変わっていく。
無言の睨み合いが続き、やがて社長代理は椅子の背もたれにゆっくりと寄りかかった。彼は波留さんの、そのさらに奥を遠い眼差しで見据え、
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