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第十一章 黄昏のバス
第三十六話
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シーナコーポレーション初の認可保育園施設。
そのオープンが延期に延期を繰り返したのは、一華社長が立地に異様なこだわりを見せたからだ。
広い園庭が用意できて、騒音も気にならない区画で、送迎用の駐車場はスクールバスも停められるほど広い。弊社ビルからも程よく近く、その気になれば駅も利用できる……となると、どうしても立地選びが難しく、必要な人員を確保していながらなかなか開設までこぎつけられずにいたらしい。
働く女性を一番に考える弊社のコンセプトを思えば、認可保育園の設立はむしろ遅すぎたくらいだろう。だからこそ、今回もまた大々的に、その開設を世間に向けてアピールする必要があるわけで。
「……社長代理、大丈夫ですか?」
斜め前を歩くスーツの背中はほとんど振り返らないまま、表情が見えない程度にわずかに首を横へ向ける。
「大丈夫だよ」
真新しい鉄柵の門を開けながら、社長代理は静かにそう言うと、園庭に足を踏み入れた。
今日の社長代理の仕事は広報だ。認可保育園の開設に際し、地元のメディアも呼んでちょっとしたお披露目会をすることになった。社長代理は弊社の顔として、実際に登園を始めたばかりの園児たちと一緒に、園庭やホールで交流する姿をメディアに披露することになる。
(大丈夫だよ、と口ではおっしゃるけれど)
鮫島先輩が対応を進めているとはいえ、いまだにSNS上では社長代理のあらぬ噂が絶えず拡散され続けている。
元カノを名乗る女性による下世話で低俗な思い出話は、その舞台を動画サイトに移して肉声での告発が始まった。どうやらいつぞやのゴシップ系動画投稿者が、彼女の存在に目を付けて自らオファーを出したらしい。
他にも、社長代理の整形疑惑や経営者としての手腕を揶揄したり、更には社長代理の自宅付近で張り込みをするようなものまで、あらゆる分野で悪意ある動画がちらほらと投稿され始めた。
卒アル写真のアカウントについても、小学校の修学旅行や運動会での写真などが、面白おかしいハッシュタグとともに次々投稿されている。そこへ連なるフォロワーのリプライは大喜利のようになっていて「いじめのようだからやめたほうがいい」というコメントが袋叩きにされる始末だ。
地元メディアはこれらの件について何も言ってきてはいないけど、さすがに彼らもまったく知らないということはないだろう。
今、社長代理は世間のおもちゃとして、多くの人々の好機の視線に晒されている最中にある。
(会社のためだから仕方ないとはいえ、本当はメディアになんて出たくないんじゃないのかな)
私が彼の立場だったなら、人の目が怖くて家から出ることすらままならないはずだ。
お披露目会はつつがなく進み、社長代理は始終きらきらした笑顔で子どもたちと戯れていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの腕まくりをして砂場に手を突っ込む姿は、カメラを通せばさぞ爽やかで素敵な写真になっているはずだ。
最後にスクールバスでの撮影を終え、今日の仕事はこれで終了。あとは本社で細々とした仕事を片付けることになっている……はずなのだけど。
「やだ! だめ!!」
甲高い声に顔を上げると、スクールバスの大きな窓越しに、困ったように微笑む社長代理の横顔が見えた。慌ててバスの中へ踏み込むと、社長代理は最後部の座席で、二人の女の子に取り囲まれ何やら言い募られている。
「お兄ちゃん先生もいっしょに帰るの!」
社長代理の腕にしがみつきながら、女の子たちが上目遣いで甘えたように声を上げる。わーお、小さくても女は女。これはなかなかのしたたかさだ。
「お兄ちゃん先生ねえ、ちょっとお仕事があるんだよね」
「えーっ、やだあ! いっしょに帰らなきゃだめ!」
「んー、一緒にいてあげたいんだけどねえ。困ったな……」
苦笑する社長代理の姿はたじろぎながらもどこか楽しそうで、ここ最近のぴりぴりした空気が少し和らいでいるように見える。思わず私がくすっと笑うと、社長代理ははにかみながらこっちへ来るよう目線で促す。
「高階。このバスって、一周して園へ戻ってくるまでどのくらいかかる予定?」
「およそ四十五分です」
「そっか、案外早いな。ならいいか……」
女の子をあやしながら、社長代理は少し考えるそぶりを見せる。そして、
「俺、この子たちとバスに乗ってぐるっと回ってから戻るから。高階は先に本社へ戻っていいよ」
と言うと、左右の女の子たちが一斉に「いえーい!」と可愛い声を上げた。
彼女たちはもう私の存在などまるで眼中にないらしい。鞄につけたキーホルダーを見せたり、数字を三十まで数えられるのを自慢したり、ありとあらゆる手を使って社長代理の気を引こうとする。
『お兄ちゃん先生』はその勢いに若干圧倒されながらも、ひとりひとりの話を丁寧に聞き、全部にきちんと言葉をかけて同じ目線で笑っている。
(こんなに笑顔な社長代理、なんだか本当に久しぶり)
でも、一歩このスクールバスを降りれば、またどこの誰が社長代理を狙っているかわからない。私が先に本社へ戻ったら、彼は一人で本社までの夜道を歩くことになるだろう。
もし、先日みたいな変な連中が、カメラを片手に社長代理を追いかけまわしたりしたら? 嫌な想像が脳裏をよぎり、私は小さく身震いする。
「社長代理」
「ん?」
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
社長代理は大きな瞳で私の顔をじっと見てから、許可というより同意の視線で小さくこくりと頷いた。
私はスクールバスの前の方、引率の先生が座る座席のすぐ後ろに腰を下ろす。背後からはまだ楽しげな声が賑やかに聞こえている。
(ずっとこの雰囲気が続いてくれればいいのに)
社長代理の穏やかな笑い声を背中に聞きながら、私は静かに目を閉じた。
そのオープンが延期に延期を繰り返したのは、一華社長が立地に異様なこだわりを見せたからだ。
広い園庭が用意できて、騒音も気にならない区画で、送迎用の駐車場はスクールバスも停められるほど広い。弊社ビルからも程よく近く、その気になれば駅も利用できる……となると、どうしても立地選びが難しく、必要な人員を確保していながらなかなか開設までこぎつけられずにいたらしい。
働く女性を一番に考える弊社のコンセプトを思えば、認可保育園の設立はむしろ遅すぎたくらいだろう。だからこそ、今回もまた大々的に、その開設を世間に向けてアピールする必要があるわけで。
「……社長代理、大丈夫ですか?」
斜め前を歩くスーツの背中はほとんど振り返らないまま、表情が見えない程度にわずかに首を横へ向ける。
「大丈夫だよ」
真新しい鉄柵の門を開けながら、社長代理は静かにそう言うと、園庭に足を踏み入れた。
今日の社長代理の仕事は広報だ。認可保育園の開設に際し、地元のメディアも呼んでちょっとしたお披露目会をすることになった。社長代理は弊社の顔として、実際に登園を始めたばかりの園児たちと一緒に、園庭やホールで交流する姿をメディアに披露することになる。
(大丈夫だよ、と口ではおっしゃるけれど)
鮫島先輩が対応を進めているとはいえ、いまだにSNS上では社長代理のあらぬ噂が絶えず拡散され続けている。
元カノを名乗る女性による下世話で低俗な思い出話は、その舞台を動画サイトに移して肉声での告発が始まった。どうやらいつぞやのゴシップ系動画投稿者が、彼女の存在に目を付けて自らオファーを出したらしい。
他にも、社長代理の整形疑惑や経営者としての手腕を揶揄したり、更には社長代理の自宅付近で張り込みをするようなものまで、あらゆる分野で悪意ある動画がちらほらと投稿され始めた。
卒アル写真のアカウントについても、小学校の修学旅行や運動会での写真などが、面白おかしいハッシュタグとともに次々投稿されている。そこへ連なるフォロワーのリプライは大喜利のようになっていて「いじめのようだからやめたほうがいい」というコメントが袋叩きにされる始末だ。
地元メディアはこれらの件について何も言ってきてはいないけど、さすがに彼らもまったく知らないということはないだろう。
今、社長代理は世間のおもちゃとして、多くの人々の好機の視線に晒されている最中にある。
(会社のためだから仕方ないとはいえ、本当はメディアになんて出たくないんじゃないのかな)
私が彼の立場だったなら、人の目が怖くて家から出ることすらままならないはずだ。
お披露目会はつつがなく進み、社長代理は始終きらきらした笑顔で子どもたちと戯れていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの腕まくりをして砂場に手を突っ込む姿は、カメラを通せばさぞ爽やかで素敵な写真になっているはずだ。
最後にスクールバスでの撮影を終え、今日の仕事はこれで終了。あとは本社で細々とした仕事を片付けることになっている……はずなのだけど。
「やだ! だめ!!」
甲高い声に顔を上げると、スクールバスの大きな窓越しに、困ったように微笑む社長代理の横顔が見えた。慌ててバスの中へ踏み込むと、社長代理は最後部の座席で、二人の女の子に取り囲まれ何やら言い募られている。
「お兄ちゃん先生もいっしょに帰るの!」
社長代理の腕にしがみつきながら、女の子たちが上目遣いで甘えたように声を上げる。わーお、小さくても女は女。これはなかなかのしたたかさだ。
「お兄ちゃん先生ねえ、ちょっとお仕事があるんだよね」
「えーっ、やだあ! いっしょに帰らなきゃだめ!」
「んー、一緒にいてあげたいんだけどねえ。困ったな……」
苦笑する社長代理の姿はたじろぎながらもどこか楽しそうで、ここ最近のぴりぴりした空気が少し和らいでいるように見える。思わず私がくすっと笑うと、社長代理ははにかみながらこっちへ来るよう目線で促す。
「高階。このバスって、一周して園へ戻ってくるまでどのくらいかかる予定?」
「およそ四十五分です」
「そっか、案外早いな。ならいいか……」
女の子をあやしながら、社長代理は少し考えるそぶりを見せる。そして、
「俺、この子たちとバスに乗ってぐるっと回ってから戻るから。高階は先に本社へ戻っていいよ」
と言うと、左右の女の子たちが一斉に「いえーい!」と可愛い声を上げた。
彼女たちはもう私の存在などまるで眼中にないらしい。鞄につけたキーホルダーを見せたり、数字を三十まで数えられるのを自慢したり、ありとあらゆる手を使って社長代理の気を引こうとする。
『お兄ちゃん先生』はその勢いに若干圧倒されながらも、ひとりひとりの話を丁寧に聞き、全部にきちんと言葉をかけて同じ目線で笑っている。
(こんなに笑顔な社長代理、なんだか本当に久しぶり)
でも、一歩このスクールバスを降りれば、またどこの誰が社長代理を狙っているかわからない。私が先に本社へ戻ったら、彼は一人で本社までの夜道を歩くことになるだろう。
もし、先日みたいな変な連中が、カメラを片手に社長代理を追いかけまわしたりしたら? 嫌な想像が脳裏をよぎり、私は小さく身震いする。
「社長代理」
「ん?」
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
社長代理は大きな瞳で私の顔をじっと見てから、許可というより同意の視線で小さくこくりと頷いた。
私はスクールバスの前の方、引率の先生が座る座席のすぐ後ろに腰を下ろす。背後からはまだ楽しげな声が賑やかに聞こえている。
(ずっとこの雰囲気が続いてくれればいいのに)
社長代理の穏やかな笑い声を背中に聞きながら、私は静かに目を閉じた。
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