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第十一章 黄昏のバス
第三十七話
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ひとり、またひとりと、子どもたちが大きく手を振ってバスを降りていく。
最後の子は何度も振り返り、その場で懸命にジャンプしながら「お兄ちゃん先生、またね!」と社長代理へ両手を振っていた。
さきほどまでの賑やかさが嘘みたいに静かなバスの中、社長代理は一番後ろの席でぼんやりと外を眺めている。
「大人気でしたね、『お兄ちゃん先生』」
私は社長代理と同じ一番後ろの長い座席の、彼とは反対側の端へ腰を下ろした。社長代理は頬杖を突いたまま、疲れたように、でもどこか清々しい表情で、ふっと小さく笑みを見せる。
「困っちゃうね。もう、モテてモテて」
「どんな魔法を使ったんですか? この短時間であんなに仲良くなるなんて」
「特別なことはしてないよ。ただ目を合わせて、話を最後まで聞いてあげただけ。世の中それができない大人がちょっと多すぎるんだよな」
引率の先生の目配せを受けて、バスが再び動き出す。窓の下を覗き込めば、さっきの子どもがママと手を繋いで歩道を歩く姿が見える。
無邪気で可愛らしい笑顔が、ゆっくり後方へ遠ざかる。今日あった楽しい出来事を、いっぱい話しているのかな。
「ありがとう」
ふいの言葉に顔を上げると、社長代理は私の方へ曖昧な笑みを浮かべていた。あまりの綺麗さに少したじろいだ私を見据え、彼は朗々と、物語を読み聞かせるような声で続ける。
「気を遣ってくれたんでしょ? 俺が一人にならないようにって」
「…………」
「俺が脛に疵を持つせいで、高階にはずいぶん迷惑をかけているね。本当に、申し訳ないと思っているよ」
脛に疵なんて、そんなこと。今言いふらされている内容なんて、どれもこれも事実とは違う嘘ばかり。特に小学校の頃の写真をあげつらって嗤うなんて、あんなの程度の低い幼稚ないじめでしかない。
なのにどうして社長代理が謝らなければいけないのだろう。この人はただ被害者なだけ。治りきらない古傷をえぐられ、ひとり苦しんでいるだけだ。
「そんなこと……」
上手い言葉が思いつかなくて、私はそのまま押し黙る。どのような言葉を掛けたら社長代理を安心させてあげられるか、一生懸命考えるけど良い言葉が思い浮かばない。
震えるこぶしを両手に置いて、私はじっと黙り込む。社長代理は私の姿を軽く横目で見やってから、一人で何か納得したみたいにもう一度視線を外へと投げた。
見慣れない街の風景が夕闇に飲み込まれていく。色鮮やかな橙色を深く暗い闇が少しずつ覆い、その上にはぽつりぽつりと小さな星が煌めき始める。
夜が本当に早くなった。傍の公園の芝草の中で、青紫のりんどうの花が寄り集まるように咲いている。少し耳を澄ませてやれば、鈴虫の羽音も聞こえてきた。
黄昏時の物悲しさが、沈黙の車内に重く漂う。
「『自分の幸せ』は見つかった?」
思いのほか優しい声音で言われ、私はひゅっと息を呑んだ。
社長代理の眼差しが、反射した窓ガラス越しにこちらを向いているのがわかる。『自分の幸せ』。それを探しに行くために、離別を決めた私だったけど。
「まだ……です」
素直に答えた私の横顔を大きな瞳で見つめながら、社長代理は「そう」と、穏やかな声で言う。
彼の目線が奥へ逸れた。それだけで、どこか安心している自分がいる。
「俺もさ、探してるんだよね。『自分の幸せ』」
「…………」
「もう、長いこと……一年くらい探してるんだけど、なかなか見つからなくて。これがそうなのかなって思ったやつは、簡単に指をすり抜けていくし。たぶん、俺がもっと早く、しっかり掴んでいれば良かったんだろうけど」
ふぅ、と、細く長いため息を吐く。煙草を吸っている人が煙を夜空へ立ち昇らせるような、遠い何かに想いを馳せる、孤独な旅人の横顔。
「どうしてうまくいかないんだろうね」
半ばまで伏せられた長いまつ毛が、頬に淡い影を作っている。噛みしめるように閉じたまぶた。それが再び開いたとき、大きな鏡みたいに輝く彼の丸い瞳の中に、夜を迎えた街の光がきらきら眩しく映り込んだ。
世界中の夜空を巡って星々をみんなかき集めて、ひとつのまあるい金魚鉢に落とし込んだみたいに綺麗な瞳。輝くばかりに絢爛で、見とれてしまうほどまばゆくて、……でも、言いようのない不安と孤独、そして悲しみを感じさせる目。
その目がふいにこちらを向いた。玲一さんはぱちっと一度おおきな瞳を瞬きして、それから少し困ったように、くしゅっと力なく微笑む。
「そんな顔するなよ」
彼の輝く瞳に映る私のみっともない顔は、今にも泣き出しそうなくらい歪み、陰り、震えていて。
「もう、抱きしめてあげられないんだから」
私たちの間にある子ども三人分の距離が、今は途方もなく遠く、決して縮まらないもののように思えた。
最後の子は何度も振り返り、その場で懸命にジャンプしながら「お兄ちゃん先生、またね!」と社長代理へ両手を振っていた。
さきほどまでの賑やかさが嘘みたいに静かなバスの中、社長代理は一番後ろの席でぼんやりと外を眺めている。
「大人気でしたね、『お兄ちゃん先生』」
私は社長代理と同じ一番後ろの長い座席の、彼とは反対側の端へ腰を下ろした。社長代理は頬杖を突いたまま、疲れたように、でもどこか清々しい表情で、ふっと小さく笑みを見せる。
「困っちゃうね。もう、モテてモテて」
「どんな魔法を使ったんですか? この短時間であんなに仲良くなるなんて」
「特別なことはしてないよ。ただ目を合わせて、話を最後まで聞いてあげただけ。世の中それができない大人がちょっと多すぎるんだよな」
引率の先生の目配せを受けて、バスが再び動き出す。窓の下を覗き込めば、さっきの子どもがママと手を繋いで歩道を歩く姿が見える。
無邪気で可愛らしい笑顔が、ゆっくり後方へ遠ざかる。今日あった楽しい出来事を、いっぱい話しているのかな。
「ありがとう」
ふいの言葉に顔を上げると、社長代理は私の方へ曖昧な笑みを浮かべていた。あまりの綺麗さに少したじろいだ私を見据え、彼は朗々と、物語を読み聞かせるような声で続ける。
「気を遣ってくれたんでしょ? 俺が一人にならないようにって」
「…………」
「俺が脛に疵を持つせいで、高階にはずいぶん迷惑をかけているね。本当に、申し訳ないと思っているよ」
脛に疵なんて、そんなこと。今言いふらされている内容なんて、どれもこれも事実とは違う嘘ばかり。特に小学校の頃の写真をあげつらって嗤うなんて、あんなの程度の低い幼稚ないじめでしかない。
なのにどうして社長代理が謝らなければいけないのだろう。この人はただ被害者なだけ。治りきらない古傷をえぐられ、ひとり苦しんでいるだけだ。
「そんなこと……」
上手い言葉が思いつかなくて、私はそのまま押し黙る。どのような言葉を掛けたら社長代理を安心させてあげられるか、一生懸命考えるけど良い言葉が思い浮かばない。
震えるこぶしを両手に置いて、私はじっと黙り込む。社長代理は私の姿を軽く横目で見やってから、一人で何か納得したみたいにもう一度視線を外へと投げた。
見慣れない街の風景が夕闇に飲み込まれていく。色鮮やかな橙色を深く暗い闇が少しずつ覆い、その上にはぽつりぽつりと小さな星が煌めき始める。
夜が本当に早くなった。傍の公園の芝草の中で、青紫のりんどうの花が寄り集まるように咲いている。少し耳を澄ませてやれば、鈴虫の羽音も聞こえてきた。
黄昏時の物悲しさが、沈黙の車内に重く漂う。
「『自分の幸せ』は見つかった?」
思いのほか優しい声音で言われ、私はひゅっと息を呑んだ。
社長代理の眼差しが、反射した窓ガラス越しにこちらを向いているのがわかる。『自分の幸せ』。それを探しに行くために、離別を決めた私だったけど。
「まだ……です」
素直に答えた私の横顔を大きな瞳で見つめながら、社長代理は「そう」と、穏やかな声で言う。
彼の目線が奥へ逸れた。それだけで、どこか安心している自分がいる。
「俺もさ、探してるんだよね。『自分の幸せ』」
「…………」
「もう、長いこと……一年くらい探してるんだけど、なかなか見つからなくて。これがそうなのかなって思ったやつは、簡単に指をすり抜けていくし。たぶん、俺がもっと早く、しっかり掴んでいれば良かったんだろうけど」
ふぅ、と、細く長いため息を吐く。煙草を吸っている人が煙を夜空へ立ち昇らせるような、遠い何かに想いを馳せる、孤独な旅人の横顔。
「どうしてうまくいかないんだろうね」
半ばまで伏せられた長いまつ毛が、頬に淡い影を作っている。噛みしめるように閉じたまぶた。それが再び開いたとき、大きな鏡みたいに輝く彼の丸い瞳の中に、夜を迎えた街の光がきらきら眩しく映り込んだ。
世界中の夜空を巡って星々をみんなかき集めて、ひとつのまあるい金魚鉢に落とし込んだみたいに綺麗な瞳。輝くばかりに絢爛で、見とれてしまうほどまばゆくて、……でも、言いようのない不安と孤独、そして悲しみを感じさせる目。
その目がふいにこちらを向いた。玲一さんはぱちっと一度おおきな瞳を瞬きして、それから少し困ったように、くしゅっと力なく微笑む。
「そんな顔するなよ」
彼の輝く瞳に映る私のみっともない顔は、今にも泣き出しそうなくらい歪み、陰り、震えていて。
「もう、抱きしめてあげられないんだから」
私たちの間にある子ども三人分の距離が、今は途方もなく遠く、決して縮まらないもののように思えた。
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