それでも僕らは夢を見る

雪静

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第二章 知れば知るほど

第四話

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 家事代行のお仕事は、想像以上に順調だった。

 料理も掃除もとても楽しい。最近は多少慣れてきたこともあり、前よりも手際よく、時間を節約して色んなことができるようになってきた。

 こういう仕事はやっぱり私に合っていたみたい。お弁当屋さんでのパートと悩んでこちらを選んだ自分を褒めてやりたい。

 諏訪邉さんは、いい人だ。

 公園での一件以来、私と彼との距離は少し縮まってくれたように思う。今までみたいに露骨に避けられることはなく、話すときはきちんと目が合うし、ときどき食事のリクエストなんかもしてくれるようになった。

 もちろん彼がスカイくんといるときの表情に比べれば、まだまだ私への態度はぎこちないのかもしれないけれど……でもまあ、これで十分だろう。

 スカイくんを可愛がる姿を気兼ねなく見せてもらえるだけでも、最初に比べれば私に心を許してくれている証だと思う。

「榎本さん」

 二階のベランダで洗いたてのシーツを干していると、いつの間にか部屋の入口に諏訪邉さんが立っていた。彼は振り返った私の顔を、戸惑うようなためらうような、なんともいえない複雑な面持ちで見つめている。

「お呼びですか?」

「いえ、あの……榎本さん、お疲れではないですか? あまりよく眠れていないとか、疲労がずっと残っているとか」

 本気で心配しているような顔つきに、私は内心ドキッとしながら、

「そんなことないですよ。私、とっても元気です」

 と、両手でありもしない力こぶを作ってみせる。

 何か言おうとした唇が、きゅっと結ばれ、逸れていく。結局彼は長い前髪で目元を隠したまま、

「……そうですか」

 とだけ言って、自分の部屋へと引き返していった。

(……さすが、鋭いなぁ)

 今日はたいして顔も合わせていないのに、どうして気づかれたんだろう? 隈は消したつもりだったんだけどな、と軽く自分の顔を撫でる。

 昨夜は卓弥が接待飲み会でずいぶん帰りが遅くなった上、ワイシャツについたシミを取り除くのに夜中までかかったんだ。おかげで今朝はどうにも寝不足、油断するとまぶたが閉じてしまいそうになる。

 青空の下に干し出された薄いブルーのベッドシーツが、冷たい風に緩く煽られ音も立てずに揺れている。私は空っぽになった洗濯籠を小脇に抱えると、料理の準備に取り掛かるため階段を降りようとした。

(あ)

 と思ったのは、これはまずいとわかったからだ。階段下を覗き込んだ瞬間、脳みそがふわっと軽くなる感覚。視界が真っ白に塗りつぶされて、手すりを握ろうとした手が宙を切る。自分の身体がなすすべもないまま重力の底へ放り出されていく――

 がっ、と。

 背中が引っ張られると同時に、首ががくんと上下に揺れた。シャツがお腹に食い込んで、痛い、と一瞬思ったけれど、すぐ布よりも厚いものが私の身体を乱暴に引き寄せる。

 遠くでガコンと音が聞こえた。洗濯籠が階段の下まで転がり落ちていく音だと気づいたとき、ふわふわの意識の中でようやく恐怖が背筋を走った。

「危なかった」

 耳元から声。

 振り返ろうとしたつもりだけど、身体に力が入らない。もたれた背中がずるずる崩れて指先が冷たい床に着くと、大きな腕が私の肩を支えるように抱き寄せてくれる。すみません、と言おうとしたのに、呂律がぜんぜん回らない。

「榎本さん、大丈夫ですか。榎本さん」

 諏訪邉さん、……助けてくれたんだ。

 人形のように四肢を投げ出したまま物を言うことすらできない私を、彼は横抱きで軽々抱え上げまっすぐ自分の部屋へと向かった。ああ、彼って華奢に見えるけどずいぶん力があるんだな。お姫様みたいに運ばれながら、私は上の空で考える。

 ドアを開けると同時に暖かな空気が廊下へ流れ出す。早足で部屋へと入った彼は、壊れものを扱うみたいにそうっと私の身体を横たえた。

 背中に柔らかな感触……たぶん、彼のベッドだ。視界はまだぼやけていて光の濃淡程度しか見えないのに、少しだけ甘い男のひとのにおいが怖いくらい脳に流れ込んでくる。なんだか、頭がおかしくなりそう。

「やはり無理をされていたんですね」

 彼のシルエットが光を遮り、私の視界へ影を落とす。

「今朝お会いした時から、顔色が悪いと思っていたんです」

「…………」

「貧血のように見えますが、念のため病院へかかったほうがいい。今、タクシーを呼びますから」

 そう言って立ちあがろうとした彼の手を、私は無意識のうちに掴み留めていた。振り返った諏訪邉さんの顔が、普段よりずっと近くへ寄せられる。

「榎本さん」

「ただの、貧血です。いつもの……」

 そう、いつもの。

 逃れられない毎月の苦痛が、今回もまたやってきた。でも、ちょっとめまいがするくらいなら別にいつものことだから、働いているうちに落ち着くだろうと勝手に信じ込んでいた。

「ごめんなさい……」

 こんなふうに職場で倒れて、仕事も満足にできないまま、私は雇い主のベッドで無様に介抱されている。

 多大なご迷惑をおかけして、家事代行失格だな。クレームが入るか、解雇されるか……どこか他人事みたいに諦め調子で考えていると、

「謝ることはないですよ」

 彼の左袖へすがる私の手に、ひとまわり大きな手がそっと覆い被さるのがわかった。

「そう仰るならタクシーは呼びませんが、今日はこのまま休んでください。下手に一階に降りようとして、また階段で転びそうになっても危ないですから」

「でも……」

「仕事のことなら問題ありません。僕も子どもじゃないですし、数日くらいどうとでもなります」

 私の手を撫でるようにさする、指先の温もりが心地よくて。

 やっと焦点の合い始めた視界が、今度はまぶたに覆われていく。仕事中だ。寝てはいけない。頭ではわかっているはずなのに、心と身体は彼の言いなりで素直に甘える準備を始める。

「ここで寝てしまってもいいですよ」

 ……そんなに優しい声で囁かれたら、抵抗なんてできるはずない。

 昨夜の寝不足がダメ押しとなって、私の理性はとうとう陥落。柔らかな毛布がかけられると同時に、そっと意識を手放した。





 ほんの微か、触れるか触れないか。何かが私のこめかみあたりで行ったり来たりを繰り返している。

 気持ちいい……心地よい感覚の中で、ふるっとまつ毛が身震いをして、柔らかな光を取り込むようにまぶたがゆっくりと開いていく。

 なにかとても、幸せな夢を見ていた気がする。内容ははっきり思い出せないけど、私が大きな犬になって、大好きな飼い主の側に横たわり優しく頭を撫でられているような……。

「……すみません。起こしてしまいましたか」

 すぐ傍から降り注ぐ声に、まどろみの中でぬくぬくしていた意識が急速に浮上する。がばっ、と慌てて身体を起こして、そのときはじめて気づいたのは、私の右手が彼の左手をぎゅうと握りしめていたこと――。

「う、うわあっ!? すみません! すみません!!」

 飛んできた虫を放り出すみたいな勢いで彼の手を離してしまい、私はその場で正座をすると必死になって頭を下げる。

 諏訪邉さんは苦笑と微笑の中間みたく曖昧に笑い、宙に投げ出されていた手をそっと自分の膝へと置いた。

「体調は良さそうですね」

「お、おかげさまで。本当にすみません……」

「いえ、寝ても良いと言ったのは僕の方ですから。まだ時間はありますし、もう少し休んでいてもらってもいいですよ」

 言われてようやく時計を見上げると、時刻はちょうどお昼の一時を回ろうとする頃だった。掃除と片付けをあらかた終えて、料理を始めようとした頃に貧血を起こしてしまったのだから……えっ、私、一時間以上もここで寝ていたの!?

「すみません……」

 もうまともに彼の顔を見られずに、ひたすらペコペコ頭を下げ続ける。
 諏訪邉さんは私のつむじをしばし無言で見つめた後、

「僕の方こそ」

 と、少しうつむき、目を逸らした。

「不用意な行動だったと思います。スカイを迎えた頃のことを思い出して、つい」

「え……?」

「女性に対して馴れたことをしてしまったと思っています。本当にすみません」

 私はおずおずと顔を上げて、目をぱちくりと瞬きさせる。

 彼は小首を傾げると、

「僕が髪に触れたせいで、起こしてしまったのではないですか?」

 と、ためらい気味に問いかけた。

 髪? と、……一瞬の疑問が、あっという間に答えに繋がる。あの心地良い、幸せな夢。大好きな飼い主に撫でられる大きな犬になった私。

(夢じゃなかったんだ)

 気づくと同時にみるみるうちに顔が真っ赤に染まり上がって、私はぎゅうと毛布を握りしめ縮こまるように顔を伏せる。

「いえ、その……」

 むしろありがとうございます、おかげで気持ちよく眠れました。

 なんて当然言えるはずもなく、もじもじしながら私はうつむく。諏訪邉さんもまた決まり悪そうに、本棚の辺りへ目を泳がせている。

 沈黙に包まれた部屋の中で、ふいに渡り鳥の低い声が響いた。私たちは弾かれたように顔を上げ、お互い何かに操られたみたく真正面から視線を交わすと、結局また何も言えないまま、恥じ入るように目を逸らした。
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