それでも僕らは夢を見る

雪静

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第二章 知れば知るほど

第五話

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 とても不思議なことなんだけど、この家で働かせていただく中で、彼の周りに色恋事の気配を感じたことは一度もない。

 顔、金、若さの三つをばっちり兼ね揃えている諏訪邉さんだ。彼女くらいいても良さそうなものだけど、今のところ彼の眼中にはスカイくんしかいないらしい。今もベランダから下を覗けば、お庭のウッドデッキでスカイくんの背中にブラシをかける彼の姿が見える。

 その頬に浮かぶ笑みと言ったらもう、ひだまりの中でお昼寝をする子猫みたいに穏やかで……見ているだけで私の心まで柔らかくなるような良いお顔だ。

(この家は平和だなあ)

 箒と塵取りを脇に置いて、青空に向かってのびをする。

 今日もとってもいい天気――冬がこんなに暖かくって、空がこんなに綺麗だなんて、主婦として家に閉じこもっていた頃は全然わからなかった。

 だってあの頃、私の世界は自分と夫の二人きりでできていた。夫婦仲が良いならともかく、うちはその正反対。夫の機嫌で一日のすべてが左右されるような生活は、思い返せばやっぱり少し窮屈だったような気もする。

(卓弥は仕事が忙しいから、仕方ないとは思うけどさ)

 ふと、疑問が脳裏をよぎった。……諏訪邉さんって、お仕事は何をされているんだろう?

 契約前の資料の中では、在宅勤務と書いてあったはず。だから作家さんとかプログラマーとか、自分のお部屋でデスクに向かうお仕事をされているのだと思っていた。

 でも、私の知っている諏訪邉さんは、基本的にはリビングのソファでスカイくんとごろごろしている。たまにお部屋にいらっしゃるときは文庫本が開いてあるし、どうにもあまりお仕事中のようには見えないのが本音だ。

(お金持ちの家に生まれた方だから、仕事なんてする必要ないのかな。……私とはド庶民とは住む世界が違うってことか)

 ふいに視線を感じて我に返ると、お庭の中からスカイくんが私を見上げている姿が見えた。私が小さく手を振ると、大きな尻尾がふわりと揺れて、それに促されたみたいに諏訪邉さんもこちらを見上げる。

 あっ、と止まる私の指先。かち合う視線。春風が吹いたみたいに柔らかく緩む彼の頬と、上品に、少しためらい気味に、ちいさく振り返される白い手。

(……きれいだ……)

 なんかもう、ここまで来ると、お金持ち云々以前に人として完敗している気もする。

「お疲れ様です、榎本さん」

 少し眩しそうに目を細めながら、諏訪邉さんはいつもより少し声を張って言う。

「掃除はひと段落ですか?」

「はい。あんまりいい天気だったので、ちょっとのんびりしちゃいました。スカイくんもひなたぼっこ気持ちよさそうですね」

「たぶんスカイは、本当は散歩に行きたいんだと思います。家の庭がもっと広ければ、思い切り走らせてあげられるのですが……」

 いつになく歯切れ悪い調子で、諏訪邉さんは視線をスカイくんへと向ける。それから、彼女のわがままに振り回される彼氏のような甘い苦笑を浮かべ、

「どうしようね」

 と、スカイくんの首のあたりを撫でつつ語り掛けた。

 スカイくんは長い鼻を諏訪邉さんの方へと向けて、ぺろんとその薄い唇を舐める。ふ、と微笑む諏訪邉さん。……綺麗な人と綺麗な犬って、一緒に居るだけで本当に絵になるなぁ。まるで映画のワンシーンでも見ているみたい。

 顔を上げた諏訪邉さんが、ほんの少し目を細めながら再び私の方を見上げた。絵に描いたような形の良い瞳が、食い入るようにこちらを見つめる。当然たじろぐ私に対し、彼はかすかに破顔すると、

「榎本さんに頼んでみようか」

 と言って、スカイくんの耳元に頬を寄せた。




 さて。

 クレートごとスカイくんを連れて、到着したのは少し離れたところにある大きな公園だ。広大な敷地の中にはグラウンドや有料バーベキュー場、四季ごとの花が楽しめる散歩コースが設けられている。

 今回は料理はしなくていいと言われ、乞われるままついてきた私だけど、まさか一緒にタクシーに乗って遠出をするとは思っていなかった。クレートを預けた諏訪邉さんはスカイくんにリードを付けながら、

「榎本さんのおかげだね」

 と、ご機嫌に微笑んでいる。

「あの、私、いったい何をすれば……」

「一緒に居てくだされば結構です。具体的にお願いしたいことがあるわけではないので」

 一緒に居るだけ? そんなのでお給料を頂いていいのかな。

 とはいえ、雇い主の頼み事なら口を挟むこともない。私は少し戸惑いながらも、諏訪邉さんと並んで公園を歩くことになった。

 スカイくんはぴんと尻尾を持ち上げ、優雅な足取りで歩いている。ゴムチップの敷き詰められた地面は感触も柔らかで、いつものアスファルトの地面よりスカイくんも歩きやすそうだ。

 特段の会話もないまましばらく進んでいくと、賑やかな人と犬の声が遠くから聞こえてきた。公園の中のひと区画だけ、柵で覆われた場所が見える。中ではたくさんの犬と飼い主がボールやフリスビーを投げたり、一緒に追いかけっこをしたり、思い思いに遊びながら楽しい時間を過ごしているようだ。

「ドッグランですか?」

「はい。スカイはここが大好きで、よく遊びに来ていたんですよ」

 受付で手続きを済ませると、諏訪邉さんは早速中へ入り、スカイくんをリードから解き放った。スカイくんは走り出しこそしないものの、見るからに楽しそうな足取りで芝生の上を自由に歩き回る。時折他の犬たちがスカイくんの方を見上げて、その大きさに驚いたみたいに逃げていくのがちょっとおかしい。

 諏訪邉さんは傍の柵に寄りかかって、特に何をするわけでもなくスカイくんの姿を眺めている。私が所在なさげにしていると、彼は笑って、自分の隣に並ぶよう指先で促した。

(……いいのかな。本当に何もしないで)

 私、一応仕事のためにここまでついてきたはずなんだけど、これじゃ本当にただ一緒にお散歩をしに来ただけみたい。

「本当にいるだけでいいんですよ」

 私の心を見透かしたみたいに、諏訪邉さんは笑みを深くする。

「僕にとっては、隣にいてもらうことが一番大事です」

「そ、そうなんですか」

「はい。前はよくスカイとここへ来ていたのですが、一人でいると色々な方から声を掛けられてしまうんですよね。その場限りの会話ならともかく、連絡先を求められたり、ドッグランの外までついてこられることがあって」

 ……ああ、つまりアプローチを受けてしまうということなのかな。確かに今も話しかけてはこないけど、あちこちで色々な飼い主からなんともいえない視線を受けている気がする。

 諏訪邉さんは気づいていないのか、素知らぬ顔でスカイくんばかりを見つめているけど、この視線に晒され続けるのはなかなか心が疲れそうだ。

「つまり私は魔除けってことですね?」

「魔、って」

 ふっ、と諏訪邉さんは軽く吹き出す。

「僕、そこまで言っていませんよ」

「す、すみません。つい」

「まあ、否定はしませんけどね。二人でいれば、さすがにしつこくつきまとわれることもないでしょうから」

 ある意味『魔』かもしれませんね、といたずらっぽく笑う諏訪邉さん。視線の先ではスカイくんが、後ろ足をうさぎみたいに揃えてジャンプさせながら、いつもの散歩よりずっと速いスピードでランを駆け回っている。

「僕の事情でずっと足が遠のいていたものですから、スカイには少し申し訳ないなと思っていたんです」

 そこで言葉を切り、諏訪邉さんは長い前髪を耳にかけると、

「榎本さんがいてくれてよかった」

 と言って、私の方へと微笑んだ。
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