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第三章 目覚め
第七話
しおりを挟む『稼いだ金を自分のために使いたい? 何言ってんだお前』
はっ、と露骨な嘲笑。はじめからわかっていたことだから、怒りも驚きも感じなかった。
『全部自分で使いたいわけじゃないの。少しだけでもいいから』
『それでお前、何買うつもりなんだよ』
『服とか、お化粧品とか……美容院に行くとか』
服! 化粧品! 美容院! 卓弥は大袈裟に声を上げ、肩を揺らして大笑いする。悪意の渦みたいな笑い声の中で、私はただ静かに立ちすくむ。
やがて卓弥は笑い疲れたみたいにはーっと息を吐くと、
『お前、何のために働いてるか忘れたの?』
と、私のお腹を小突いてみせた。
*
「榎本さん」
「わっ」
突然背中から声がかかり、菜箸を取り落としそうになる。
すみません、と柔らかく笑い、諏訪邉さんは私の肩越しにフライパンを覗き込んだ。
「今日は煮込みハンバーグですか?」
「あ、……はい。こちらは今夜食べていただいて、明日の分はこれから作ります」
諏訪邉さんはちいさな鼻でお肉の焼けるにおいを楽しみながら、
「美味しそうですね」
と、少年のように無邪気に微笑む。
……胸に巣食っていた嫌な記憶が一瞬で吹き飛ぶ可愛さ。この人、私よりちょっと年下のはずだけど、時折びっくりするほど無垢な表情を見せてくるんだ。
そのたびに私は馬鹿みたいにドキドキして……いや、もちろん恋愛感情的な意味じゃなくて、テレビの中の俳優の笑顔にときめくようなアレなのだけど。
(心の中で何を思うのも、私の自由なはずだよね。思ったことを言葉に出したり、相手に伝えたりしなければ)
「そういえば、榎本さん。今日は早めに帰ってもらう方がいいかもしれません」
テレビに映る天気予報を目線で促しながら、諏訪邉さんは言う。
「午後から雪が降るそうです。例年に無い大寒波で、かなり激しいようですよ」
「あ……そうなんですか」
そういえば朝のニュースでもそんなことを言っていたっけ? 仕事を始めてから朝はバタバタで、天気予報もまともに見ないまま家を飛び出してきてしまったけど、まさかここまでひどくなりそうとは正直予想外だ。
「電車が止まって帰りが遅くなったら、ご主人が心配なさるでしょう?」
あまりにも純な彼の言葉が、胸をちくりと傷つける。
私の帰りが遅くなったら、夫はきっと荒れるだろう。でもそれは私を心配してじゃない。自分自身が心配だからだ。
もし私が家にいなかったら、夫のご飯は誰が作る? スリッパを差し出すのは? お風呂を入れるのは? 裏返った靴下を元の形にきちんと整え、ズボンのポケットからくしゃくしゃのレシートや汚れたティッシュを取り出すのは誰の仕事?
俺の金で食っているんだろと、低い声が脳を反響する。頭が重く、くらくらしてきて、考えることすら億劫になる。
(諏訪邉さんが私の夫だったら、きっと心配してくれるんだろうな)
そんなの想像しても仕方のない、絶対にありえない夢だけど。
「ありがとうございます。では今日は、少し早めに上がらせていただきますね」
私は作り笑顔で答えると、再びフライパンに向き直った。親切から出た諏訪邉さんの言葉を、わざわざ無意味に否定することはない。夫が私をどう思っていようと、彼にはまったく関係ないことだ。
諏訪邉さんは小首を傾げ、何か言いたそうに私の横顔を見つめていたようだけど、結局何も言わないままリビングの方へと戻っていった。
結論から言うと、天気予報はちょっとだけ外れた。
窓の外を眺めてみれば、すさまじい寒波に合わせて濛々と巻き上がる雪煙。まるで日本海側の冬みたく横殴りに吹きつける吹雪の中、人々はコートの前をかき合わせて苦しそうに歩いている。
雪が降るという予報自体は、確かに正解と言えるだろう。
ただ、時刻は未だに午前十一時。午後と呼ぶにはちょっとだけ早いと思うのだけど。
「榎本さん、電車が」
諏訪邉さんのスマホを見せてもらうと、そこには案の定真っ赤な文字で運休、運休、運休……。
こんな吹雪じゃ、まあ止まるよね。いつもより少し早めに帰ればきっと大丈夫だろうなんて、私の見通しが甘かったようだ。
ニュースの合間に差し込まれた臨時の天気予報では『今日はできるだけ外出自粛を』なんて、今更な呼びかけが繰り返されている。どうやら動きが止まっているのは電車だけではないらしく、一般道路もあっちこっちで通行止めだと言っていた。
タクシーを呼ぼうと連絡先を調べてくれていた諏訪邉さんが、苦々しい面持ちで渋滞の映像を見つめている。それから彼はソファに寄りかかると、
「今日はおやすみにすればよかったですね」
と、ため息混じりに呟いた。
「すみません、気が利かなくて」
「いえ、そんな、とんでもない。私がもうちょっと手際よく仕事していればよかったんですけど」
「榎本さんの仕事は十分早かったですよ。ただ吹雪が予想より早く、しかもずっとひどかっただけで」
びゅうびゅうと風の哭く声がひっきりなしに聞こえてくる。
私はしばし黙って外を眺めていたけど、やがて意を決して立ち上がると、少ない荷物をお腹に抱えてむりやりコートのボタンを閉めた。「では」と頭を下げかけた私を見て、諏訪邉さんがぎょっと目を見張る。
「どちらへ行かれるんですか」
「えっ? あの、駅で電車を待とうかと」
「寒いですよ。それに、駅はきっと大混乱です。電車もすぐには動かないでしょうから、しばらくここで待っていた方がいい」
「でも、そんなご迷惑をおかけするのは」
「迷惑なんて思いませんから。どうせ用事もないですし、外に出て風邪でもひかれるほうがずっと困ります」
思ったよりも語気強く言われ、私は若干たじろいでしまう。本気で心配されているのだと、気づくと同時に乾いた頬がじわりと熱を持ってしまって、私は慌ててコートを脱ぐと改めて諏訪邉さんにお礼を述べた。
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