黄金の海を目指して

益巣ハリ

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5. ウサギの後を追いかけて

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片山は悶々とした日々を過ごしつつ、漫談の合間や帰路の馬車で彼女が勧めてくれた本を読んだ。

 中でも1番気に入ったのが、洗朱の下町に住む仕立て屋の娘が、修道院で起こった密室殺人事件を解決する話だった。氷を使ったトリック自体は大したことのない話だったが、食べ物の描写が素晴らしく、読んでいるだけで思わずお腹が空いた。クロワッサン、パンオショコラ、カヌレ。水晶の館で開かれる豪華なパーティーを思い浮かべる。あそこで供される食べ物の少しでも、琥珀の口に入るのだろうか? 

 推理物の予定だったのに、小説に引っ張られすぎて米が小麦に駆逐される不条理なネタが出来上がったころ、ちょうどよいタイミングで漫談の依頼があった。会場は、最近社交界でよく名前を聞くようになった三段さんたんという商人の館だ。内々の催しのようだが、水晶の館から女中が派遣されてくるらしい。三段とは顔なじみではなかったが、出演料がかなり高かったし、何より琥珀に会えるならばと二つ返事で快諾した。

 そして今日が、待ちに待ったパーティーの日だ。

「片山様、おはようございます。今日はなんだかご機嫌がよさそうですね」
「やっぱわかる?」 

 鶴子に笑顔を返し、新聞を広げる。今日の一面は、老舗の反物店が劣悪な労働環境で商品を作らせていたというスキャンダルだった。被害者が多く悪質だったため、金で買った男爵位をはく奪されるそうだ。男爵位は簡単に手に入れられる分、はく奪されるのも早いのだ。記事の最後には、もう2度使われることのない、弓を模した彼らの家紋が掲載されていた。この弓、どこかで見た気がする。片山は新聞をめくる手を止めて記憶を手繰ったが、どうしても思い出せなかった。
 鶴子が焼いてくれたトーストを齧って朝食を済ませてから、洗面台で髪を整える。明りが切れているようで、洗面台は電気をつけても暗いままだった。

 その時ふと、あの弓のマークをどこで見たか思い出した。暗闇の中で見た。あの日、琥珀が抱えていた封筒だ。

 彼女はいったい何を盗んだのだろうか。深く追求すべきではないと分かっていながらも片山は好奇心を抑えられず、自室に戻るとすぐ、電話を手に取った。

「知りたいことは何でもどうぞ、捨杢すもく探偵所ですう」
 電話の向こうで間延びしたような男の声がした。彼は捨杢 樹すもく いつきといい、片山がひいきにしている情報屋である。

「いつもお世話になってますぅ、片山です。今日はちょっと調べてほしいことがありまして」
「なんやてんちゃんかいな。偉いお久しぶりでんなあ。国一番の漫才師様やから、もうこないな探偵所なんぞ忘れてしもたんかと思うてましたわ。で、調べてほしいことっちゅうのは?」
「今朝の一面に載ってた呉服屋のことや。記事のネタ元とか主人のこととか、何でもええから急ぎで教えてくれへん」
「なんでそないなもん…いや、うちはお客の事情に首突っ込まへんのがルールやさかい、チャチャっと調べさせてもらいますわ。そうやね、一時間後にいつものサ店はどうでっしゃろ」
「それで頼むわ」

 電話を切った後、片山は座布団を枕にしてごろりと寝転がった。手持無沙汰で落ち着かず、今日披露するネタを暗唱してみる。あの時琥珀が持っていた封筒は、本当に呉服屋のものだったのだろうか。暗くて見間違えただけかもしれない。彼女が盗んだものがなぜそんなに気になるのか、自分でも不思議だった。

 横たわって畳の目に指を滑らせながら、片山はため息をついた。事情を知って早々に離婚してしまったが、最初は彼も紫乃と暖かい家庭を築くつもりがあった。夫婦二人で食卓を囲み、いずれは子供にも恵まれ、その子を肩車して公園を歩く。紫乃が最初からそのつもりが無いと知った時は、自分の人生を踏みにじられたようで強い怒りを感じたものだが、彼女によってもたらされた公爵位の恩恵が大きすぎて次第に怒りも薄れていった。以来、愛情に飢える心を一晩限りの関係で誤魔化して芸一筋に邁進してきたが、年のせいだろうか、最近そんな生活に虚しさを感じ始めたところに琥珀と出会った。

 彼女とは一度会っただけだが、これまでになく強く惹かれるものがあった。暖かい家、片山のためだけに整えられた二人だけの食卓で、優しく微笑む彼女の姿がはっきりと想像できる。真剣に一人の相手と向き合おうとするのなんて結婚以来だから、臆病になってしまっているのだろう。片山はため息をついて立ち上がった。

「ちょっと出かけてきます。夕方までには戻ってパーティー行くから、今日はアンサンブル出しとってください」

 鶴子に言付けて、片山は着流し姿で喫茶店に出かけた。寂れた喫茶店に入ると、一見浮浪者か何かと間違えそうな小汚い男が奥に座っていた。男は片山を見つけると、大げさに手を振った。

「天ちゃん、元気そうやないの」捨杢が動くたびに、煙草の臭いがあたりに漂う。
「どうも、そちらさんも」
「ほいこれ、超特急で調べてん。料金は百万円なり…って冗談や!」

 捨杢の軽口を受け流しながら手渡された封筒を開けると、一時間で集めたとは思えない量の資料が出てきた。

「今回のことは、新聞社に違法な契約書が匿名で届いて発覚したそうや。調べたけど、通報したやつはわからへんかった。でもこの俺が調べても見つけられへんってことは、そこらの記者とかやあらへん。もっと上…華族とかそこら辺が絡んどると見てええな」
「華族が?」

 資料最初の数ページは、劣悪な作業所で働かされている子供たちの写真だった。その哀れな姿を直視できず、片山はそこを飛ばしてページをパラパラとめくった。主人の生い立ちから今までが詳細に記された文章を見つけ、手を止める。

「先の革命時、開店から世話になっていた輝石家を裏切り、賢泉家に鞍替えする。そこから違法な労働に手を出すようになり…ここでも“輝石家”が出てくるんか」
「ええ目の付け所してまんなあ。ご指摘の通り、この家も昔輝石家を裏切ってますねん。また輝石の呪いやって、華族たちがざわついてますわ」
「呪いが本当にあると思います?」運ばれてきた紅茶を一口すすり、片山は切り出した。輝石の呪いだ何だと言われているが、話を聞く限り、後ろ暗いところがあるやつばかり標的になっているようだ。亡霊が復讐しているというよりは、悪事が暴かれ正当な罰が下っているだけのことを、呪いという名をつけて大げさに言い立てているだけなのではないか。

「俺は目に見えるもの以外信じひん。それに呪いがホンマにあるんなら、現王の賢泉家がピンピンしてるのはおかしいと思うねん」片山が続けた。

 捨杢は煙草を吸い、ため息交じりの煙を吐きだした。

「“3神”が崩れて、神さんが賢泉家だけになったからなあ。国民みーんなうしろめたくて、呪いなんぞがある気ィすんのかもしれへん」

 捨杢の言葉が妙に耳に残る。打ち捨てられた輝石の像、金をたかるばかりの高貴な元妻、金で売り買いされる爵位。うしろめたさ、という言葉がまさにぴったりで、片山は何と言葉を続ければいいかわからなくなってしまった。

「今日は急な頼みに対応してくれてホンマありがとうな。資料も役立ったわ」

 まだ時間に余裕はあったが、夜の予定を言い訳にそそくさと席を立つ。帰路、資料を入れたカバンがやけに重く感じた。証拠として届いたという契約書。琥珀があの夜盗んでいたのは、呉服屋の家紋が入った封筒だった。あの中に契約書が入っていたとしたら?
 帰宅する気にもならず、あてどなくただ足を動かす。“あなたに私は荷が重い”。彼女は確かにそう言っていた。それはどういう意味だったのだろうか。

 ふと時計に目をやると、もう時刻は夕方に差し掛かっていた。早足で家に帰ると、鶴子が今日の衣装を準備してくれていた。いつもより少しカジュアルに、大島紬のアンサンブルに二重回しのコートを身につけ、片山は鏡の中の自分に微笑んだ。とりあえず今は、目の前の仕事をこなさなければ。気を引き締めて馬車に乗り、今日の会場である三段氏の館へと向かう。館は静かな町はずれにあったが、今日は招待客たちが乗った馬車で道が渋滞していた。飛び交う怒号にうんざりした片山は、御者に多めに心づけを渡して馬車を降り、館まで歩くことにした。大体10分ほど歩くと、ど派手な黄色い館が見えてきた。たかが渋滞で騒ぎ立てる招待客といい、この館のセンスといい、今日のパーティーでよい人脈は得られそうもなかった。玄関番に扉を開けてもらった瞬間、頭上から歓声が聞こえてきた。見上げると、館に負けず劣らず派手な女が満面の笑みで立っていた。

「片山様、本日は来てくださってほんまにありがとうございますぅ。まさかうちらの集まりに来ていただけるなんて」

 女は太った身体を揺らしながら、息せき切って階段を駆け下りてきた。どうやら彼女が三段夫人のようだ。媚びる気満々のべとついた視線と下品な装いに、片山のやる気はげっそりと削がれてしまった。会場には、彼が想像した通り成金丸出しの招待客が多かったが、中には世間で名を知られているような政府の高官や名家の跡取りなどもちらほら見かけた。これはどういう集まりなのかと訝しみながら部屋を見渡す。広い部屋のそこら中に高価そうな調度品が置かれていたが、統一感のないその雰囲気は悪趣味というほかなかった。足を踏み入れたばかりの社交界にすっかり浮かれて、上流社会に馴染もうと必死で金をばらまいたのだろう。平民上がりの男爵など、彼らは最初から物の数にも入れていないというのに。三段氏が昔の自分と重なり、哀れみにも似た不思議な感情が湧いた。

 すれ違う人に挨拶し、会場のゆったりとしたソファに浅く座る。隣に座った男と中身のない雑談を交わしていると、女中たちが料理を追加しにやってきた。愛想よく笑顔を浮かべた女中たちのなかで一人、無表情で淡々と食器を並べている女中が目に付いて眺めていると、女中がはっと顔を上げた。琥珀だった。感情のない機械のように淡々と働く彼女だが、自分や本の前ではあの仮面のような顔がほころぶのだ。口づけを交わした後の潤んだ瞳を知っているのは自分だけなのだと思うと、自然と笑みが浮かび、周囲の目も忘れ彼女をじっと見つめた。琥珀がこちらに気付いて顔を上げるのとほぼ同時に、漫談の準備で呼ばれてしまい、顔を赤らめる彼女に名残惜しさを感じながら席を立った。


 資料のおかげで、ネタは大受けだった。片山は普段、科学や文芸を好んで題材にしていたが、今回身近な題材でネタを作ってみたところ、いつもよりは聴衆にネタが伝わっているようだった。自分一人でネタを探しに図書館にこもるだけでは得られなかったであろう充足感に、片山は胸の内で琥珀に感謝した。彼女にもぜひ聞いていて欲しかったが、台所で作業でもしているのだろうか、会場には姿が見当たらなかった。

「みなさん、ご清聴ありがとうございました」 

 ネタの披露を終え、ステージを次の演者に譲る。今日は彼以外にも音楽家や歌手など、様々な表現者たちが呼ばれているようだった。高額の出演料をこの人数に払っていると考えると、今晩だけでかなりの金が動いていることになる。霞氏夫人に張り合うようなサロンでも作るつもりなのだろうか。

 時計は夜の8時を指していた。パーティーはまだまだ終わりそうにないが、片山はこの雑多な雰囲気にやられてかなり疲れてしまった。少しでいいから琥珀と話して、すぐ家に帰ろうと思い、近くにいた女中を呼びつけた。

「君たちのとこにいる琥珀って女中さん、いまどこにおるかな。前借りた本のことで聞きたいことあってん」
「琥珀ですか?あの子なら今、体調を崩して裏で休んでます」

 いったいどこが悪いのだろうか。彼女が今辛いと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。体調が悪い彼女を無理に呼ぶのも忍びなく、今日は大人しく帰ることにした。彼女に会えないのなら、もとよりこんなところには用はない。マダムには恩があるし、彼女のサロンに張り合おうとする人間とは近づかない方が無難だろう。

 ステージにくぎ付けになっている聴衆の間をそっと通り、1人で会場を抜けだしたはいいものの、片山の足はすぐに止まってしまった。この館は内装も悪趣味らしく、妙なところにある隠しドアや、どこにも続いていない階段のオブジェなどが彼を惑わし、すっかり迷ってしまった。

「まったく、出口はどこやねん」

 1人文句を言いながら歩いていると、廊下の向こうを人影が横切り、メイド服を着た女が一瞬だけ見えた。片山がずっと頭の中で想い焦がれていた女だから、見間違えるはずはない。あれは確かに琥珀だ。

 体調が悪いといって奥に下がり、こんな人気のない場所をうろついているとなると、今回も盗みを働くつもりだろう。確かにこの家は高価そうな品物が無造作にあちこち置かれているし、何かをくすねるにはぴったりの場所だ。疑念を頭で振り払い、きっとただの盗みに違いない、と自分に言い聞かせる。もういっそのこと、彼女がただ金目当ての泥棒であってくれと願う。政治的な何かに関わっていたり、秘密があったり、そういう厄介な荷を背負っていないでくれ。どうか、俺が幸せにできる範囲の荷であってくれ。

 追いかけてはいけないと本能が危険信号を鳴らす。だがこの疑念を抱えたままでは、彼女と本気で向き合えない気がした。彼女のことをもっと知って、そしてお互いの寂しさを埋め合いたい。抗い難い欲望に突き動かされ、片山は彼女の後を追いかけた。

 派手な深紅のカーペットが足音を消してくれる。片山は息を潜め、柱の陰から琥珀の様子をうかがった。耳をそばだてると、何かを嗅ぐ時のように鼻を啜る音が聞こえた。琥珀は鼻を啜りながら時々足を止め、廊下をどんどん進んでいき、突き当りにある部屋の前で止まった。そして扉の前で膝をつくと、何かを穴に差し込んで両手を動かし始めた。

 錠前破りだ。

 盗むといっても、せいぜい装飾品をくすねるくらいだろうと甘く考えていた。だが彼女は明らかに犯罪行為に慣れている。片山が狼狽えている間にも琥珀は器用に手を動かしてあっという間に鍵を開けると、するりと部屋の中に滑り込んで扉を閉めた。

 片山は扉の前まで行き、ドアノブに手をかけようとし、また戻す。琥珀は自分が思っていたよりも深い秘密を持っているようだ。このまま関係を深めたら、いずれややこしいことになるかもしれない。そうすれば、自分が築き上げてきた地位も終わりだ。女色の元妻、無礼な親族、教養のない観客。心を殺してまで得た今の地位を、恋愛ごときで失うわけにはいかない。そう心に決め、踵を返した時だった。

「冗談じゃないで!?今から部屋を確認すればいいのん?」
「念のためだよ、念のため」
「まったく、お客様放置してこないなことやってられへん」

 男女の声が向こうから聞こえきた。女の方は、かなり怒っているように聞こえる。

 耳に響くあの声は、おそらく三段夫人だ。となると男の方はこの館の主人、三段氏だろう。
 2人の声がだんだんと近づいてくる。今にもあの角を曲がって、鉢合わせしてしまいそうだ。

 片山は覚悟を決め、再び扉に向かった。
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