黄金の海を目指して

益巣ハリ

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19. 天使の羽を捥ぐ

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裁判の日はすぐに来た。
 この一週間、片山はずっと泥の中にいるようだった。何を食べても味がせず、身体の中心が地獄に引き摺られていくような感覚だった。自首しようと決めた次の瞬間にはもう、やっぱりこのまま黙っていようと思う。気持ちが定まらず、常に葛藤の最中で苦しんでいた。 
 そして何よりも恐ろしかったのは、自分に失望しきった彼女と顔を合わせることだった。 
  
 結局当日になってもまだ心が決まらないまま、片山は裁判所へと向かった。堕ちてしまった神の末裔を一目見ようとたくさんのやじ馬が裁判所に押しかけ、辺りに人だかりができていた。片山はカーテンをしっかりと閉め、誰にも顔がわからないようにして馬車を進ませた。噂話に飢えた群衆は裁判所に入ろうとする馬車を見逃さず、たちまち周りを取り囲んで窓を叩く。すでに廃されたとはいえ、やはり元王家の持つ影響力は相当なもので、人々は琥珀の存在に半ば熱狂しているようだった。混乱を極めた中を職員の手引きでなんとか潜り抜け、周りに誰も居なくなったことを確認して馬車を降りる。

 目の前に聳え立つ堅牢な裁判所を前にして、片山は足がすくんだ。これまで裁判所というものに縁がない人生だったから、余計に緊張してしまう。もし罪を告白すれば自分もここで裁かれるのかと思うと、背筋を悪寒が這いあがった。
 傍聴席に座って、ため息をつく。心臓が不自然なリズムで脈打ち、身体が自分の意志でコントロールできない感覚に陥る。近くに座っていた氷冠がこちらに気づき、ほほ笑んで片手を上げた。その恐ろしいほど整った笑顔からどす黒い本性が透けて見え、吐き気がせりあがってきた。
 落ち着かないと、と深呼吸して辺りを見渡すと、傍聴席にいる面々に見覚えがあることに気が付いた。漫談の客だろうか、としばし考えて、彼らが「輝石の呪い」の被害者だと思い至った。琥珀に恨みを持つ者たちばかりが集められ、場の雰囲気は完全に琥珀の敵に回っていた。

 弁護人や裁判官は既に自分たちの持ち場についており、あとは琥珀を待つだけだった。職員の話では数分で彼女が来るとのことだったが、その短い時間が何時間にも感じられ、片山は落ち着きなく貧乏ゆすりを繰り返した。琥珀を悪し様に言う囁き声が飛び交うこの場所で、彼女の味方は間違いなく片山一人だけのようだった。愛しい人への悪口に耐えきれず、反論しようと口を開いたまさにその時、ついに琥珀が入ってきた。

 琥珀はしっかりと背筋を伸ばし、まっすぐ顔を上げて歩いてきた。目の下には薄い隈があり、さすがに疲れているようだったが、その気高い美しさは全く損なわれていなかった。
 先ほどまで口々に文句を言っていた聴衆も、神の娘の迫力を前にして気圧されたようで、誰もが固唾をのんで彼女の一挙手一投足を見つめていた。静まり返った緊張の中、一人の男が口火を切った。

「恥知らず」氷冠の使いの男だった。恐らく氷冠が言わせたのだろうが、そんなことを知らない周りからはどよめきが起こった。廃されたとはいえ、元王族を直接貶めることに畏れを感じていた彼らだったが、一度誰かが始めてしまえばあとは簡単で、雪崩のような怒号が後に続き始めた。

「お前のせいで、うちは廃業だ!」
「誇りはないのか?売国奴め」

 片山はただひたすらに琥珀が哀れだった。氷冠に目をやると、彼は大変満足そうに目を細めて頷いていた。
 罵声を投げかけられた琥珀は怒りの籠った瞳で傍聴席を睨みつけた。有無を言わせぬ力を持ったその視線に人々は言い知れぬ恐怖を感じて思わず口をつぐむ。そして彼女の視線は、片山を見て止まった。
 片山は凍りつき、思わず視線が逸らせなくなる。まるで初めて会った日のように彼女の瞳は少しもたじろぐことなく片山を見据え、次の瞬間、その瞳が喜びできらめいた。険しい表情が緩み、口元には笑みさえ浮かんでいた。私は大丈夫、とばかりにうなずいて見せる彼女は、何とも哀れなことに片山の事をまだ信じ切っているようだった。

 裏切り者と罵られる覚悟を済ませていた彼は拍子抜けしてしまい、憎まれていないことに一瞬安堵しかけたものの、これから彼女が絶望する瞬間を見なければならないことに気付いて心が沈んだ。
 家と父親を失い、復讐のためだけに生きている彼女にとって自分は唯一の寄る辺であるのに、その愚かなまでの信頼を裏切ってしまった罪の重さが余計に重くのしかかってくる。

 琥珀が裁判長に向き合う。ようやく裁判が始まった。

「まず最初に断っておきますが」裁判長が琥珀を見下ろした。
「かつての身分がどうであろうと、あなたは今平民です。それをお忘れなきよう」
「弁えております」琥珀がはっきりと答えた。
「よろしい。それでは開廷します。被告人、名前を名乗りなさい」
「輝石琥珀です」
「お前は国宝をみだりに売った不敬罪のみならず、不法侵入罪と窃盗罪に問われている。検察官、起訴状を」

「被告人は呂色国に伝わる国宝『輝石の石』を、王家に返還せず質屋にて金品に換えようとした。また2年前より、女中を装って住居に侵入し契約書や金品を窃取するなど、複数の犯罪行為を行っている」検察官は部屋中に響く大声で起訴状を読み上げた。
「これは事実か?」ペンで机を叩きながら、裁判長が問いかけた。
「復讐のために盗みをしたのは事実です。犯した罪はちゃんと償います。ですが、私は家宝を売ったりなんか絶対しません。何かの間違いです」琥珀がはっきりと言い切った。
「弁護人は意見があるか?」
「僕は、まぁ、特に」琥珀の弁護人はもごもごと呟いた。最初から弁護する気など全くないのだろう、手元には何の資料もなかった。
「証人として、被告人が使った情報屋の尋問を請求します」

 ドアが開き、姿を現したのは捨杢だった。

「こんな人知りません!」琥珀が語気を強めた。
「静粛に。貴方の名前は?」証言台に立った巣杢に、裁判官が尋ねた。
「捨杢樹、いいます。しがない探偵所やらせてもろてますぅ」
「これからお前に証人として尋ねる。嘘を言わないと神に誓えるか?」
「へえ、賢泉家の神さんに誓わせていただきますわ」捨杢はへらへらと笑いながら誓った。
「被告人に質屋を教えたのはお前か?」
「間違いありません」
「そんなの嘘よ。あなたなんか会ったこともないわ!」

「全くもってその通りです。彼女は女中として真面目に働いていたのに、どうやってこんな裏の情報屋と知り合うというんですか?」声の主は氷冠だった。自分が琥珀を陥れたにも関わらず、しらじらしい顔で彼女を弁護している。一体どういうつもりなのか理解できず、片山は眉をひそめた。

「これはこれは賢泉王。畏れ多くも我が意見を申させてもらいますと、琥珀さんはある人から紹介されたんですわ」捨杢は大げさにお辞儀をした。
「それが本当なら、紹介した名前を言うべきです」氷冠がなおも追求した。
「えっと、琥珀さんを紹介してきたのは…」捨杢が傍聴席を振り返った。

「そこにおる、片山はんです」

 片山は自分の耳を疑った。だが何度瞬きをしても、捨杢の指はまっすぐ自分を指している。琥珀に目をやると、彼女は口をあんぐりと開けてこちらを見ていた。
 本当ですか、と尋ねる裁判官の声が遠く聞こえる。心臓が跳ね、全てがコマ送りのように感じられる。財宝。平民上がり。大臣の座。紫乃。嘘。裏切り者。脳の中であらゆる思考が濁流のように渦巻き、自分の意志とは関係なく、勝手に口が動いていた。

「そうです」
「そう、とは?」
「ボクが琥珀さんに情報屋を紹介しました」

 大きな音がして、片山は我に返った。見ると琥珀が膝から崩れ落ち、床にへたり込んでいた。彼女は目を見開き、放心したように片山のことを見つめていた。漆黒の瞳の中に最後まで残っていた、人間への希望や祈りのような輝きが彼女の中で死ぬ瞬間を、片山は確かに見た。
 
 自分がやった。彼女の中の天使を今、殺したのだ。
 
 強烈なめまいを感じ、片山も椅子に崩れ落ちた。大臣になったら助けに行くから、どうか許してくれ、と震える手で指を組み、もう顔を上げることができなかった。
 差し出された捨杢の手を振り払い、琥珀は自力で立った。証言台にもたれかかる彼女の方は細かく震えていて、静かな裁判上に嗚咽が響く。

「それじゃあ、本当に琥珀が売ったんですね!彼女がそんなことをするなんて、とても信じられません」氷冠が追い打ちをかけた。

「もしかして、片山さんが売らせたのでは?傍聴席にいる人間で、呪いの被害者じゃないのはあなただけですから」
「確かに。彼は呪いを受けてない」氷冠の言葉を受け、傍聴席にささやきが広がる。
「そういえば、今は女中に熱を上げてるって噂を前聞いたよ。まさか輝石の姫が相手だったのか?」
「じゃあ今のは嘘ってこと?罪を擦り付けたのかしら」

 先ほどまでは琥珀に集中していた非難の視線が、今度は片山に集中する。彼女を裏切ってまで保身に走ったのに、結局は全て無駄なのか。氷冠は二人まとめて片付けるつもりで、またしても自分は彼の罠にはまったのだ。その時、琥珀が口を開いた。

「片山様は関係ありません。私がいい店を教えてくれって頼んだだけです」かすかに震えてはいるが、よく通る美しい声だった。
「それでは、罪を認めるのか?」
「ええ。私が売りました。だってしょうがないでしょう?輝石の呪いには金がかかるんですもの」琥珀は刺々しい声で言い、自分を嘲るように投げやりに笑った。
「呪いの被害者に何か言いたいことはあるか?謝罪や、反省は?」
「私は輝石の家を陥れた悪人に報いを受けさせただけ。償いはしても、反省なんかしません」

 琥珀は傍聴席に振り返って、聴衆に微笑んだ。

「私が牢に入って、安心ですか?これでもう呪いは消えたと思うのですか?残念ながら、それは間違いです。貴方たちはこの国の礎を裏切ったのです。その罪はこの先、呂色国を重く蝕むでしょう」そして片山の方を見据えた。その表情は笑顔にも、今にも泣きだしそうな様にも見えた。

「貴方を許します。私を踏み台にして、思う通りに生きてください。貴方の心の穴を埋められる誰かが現れるように牢から願っています。でもどうか、私のことを忘れないでください。貴方が夢を叶えて笑う時、私のことを思い出してください」彼女の白い頬を一筋の涙が伝った。

 琥珀はしっかりと背筋を伸ばし、扉へと歩いていった。戴冠式の主役のような堂々とした足取りで牢へと向かうその姿が、片山が見た最後の姿だった。
 彼の心に琥珀の一言一言が焼き印のように深く刻まれ、その罪悪感は生涯消えることが無かった。
  
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