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衛兵の目撃談 9 見事なすれ違い
しおりを挟む……その言葉を耳にしたとき、ウルツの思考は文字通り止まる。
──ウルツ殿下にお会いしたくて!
──ウルツ殿下に……!
──ウルツ殿下……殿下に……、……、……
(ぉ──……俺に⁉)
反響する言葉を聞いた次の瞬間、ウルツを襲ったのはドッと押し寄せてくる歓喜と、猛烈な照れくささであった。
動悸は恐ろしいほどに早まり、心臓の音が耳まで届いた。この己の激変に、ウルツは混乱する。
「⁉」
まず、理解できなかった。
自分がなぜ、その一言でこんなにも喜んでいるのか。そして、顔から火が出そうなほどに恥ずかしいのかが、まったく。
(ど、どういうことだ⁉ 顔面が……燃えるように熱いぞ⁉ い、いや……身体もか⁉)
これはいったいなんだと戸惑い、結果、疑問と困惑に、ウルツは完全なるキャパオーバー。
「──⁉」
にっちもさっちもいかなくなった心身は凍り、ウルツはただひたすらに、頭の中に響き続けるロアナの言葉を聞き続けることに。
そんなこととは露知らず。彼に会いに来たロアナは必死。
「わた、わたくしめはですねっ、昼間のお詫びとお礼をどうしても殿下に今日中にお伝えしたく──イアンガード様にこうして無理を聞いていただき、こうしてはせ参じたしだいで──……あら……⁉」
しかし、ふと気がつくと。目の前の王子が自分を凝視したまま押し黙っている。
大きく見開かれた青い瞳にじっと見つめられた、ロアナはたじろいだ。
かつてない疑問に襲われているウルツの眉間には、あらんかぎりの深いしわが。放たれる威圧感もこれまでとはけた違いで。これにはロアナはおののく。
「う……⁉ で、殿下……? あ……あの……わたくし、何か失礼なことを申しましたでしょうか……⁉」
「…………」
おそるおそる訊ねるも、相手からの反応はない。ロアナは全身に冷や汗が噴き出るのを感じた。
(……わ、わた、わたし……殿下を怒らせてしまったの……⁉)
無言のウルツに、ひたすら見つめられたロアナは身をすくめる。気分は完全に、蛇に睨まれたカエル。
思い当たることはひとつ。
……つまり、厳格な第三王子は、きっとこんな時間に押しかけて来たロアナにとても腹を立てているのだ。
(……二の宮の下っ端侍女でしかないわたしが、こんな時間に、国王陛下や王妃陛下のおわす一の宮に押しかけたばかりか……ロスウェル殿下と騒ぎまで起こしてしまって……。そりゃあウルツ殿下が迷惑にお思いになっても無理はない……)
そう考えたロアナの顔からは、スーッと血の気が引いていく。
やってしまったと思った。
冷静に考えてみれば、彼の母イアンガード妃にも無理を聞いてもらった時点で、これはとても図々しい行いだった。
……彼女が息子に接近することには大歓迎のイアンガードの思惑など、何も知らない娘は──痛恨という顔。
(で、でも、ここまで来てしまったからには、せめてお礼くらいはお伝えしないと……イアンガード様たちのご尽力も無になってしまう……!)
ロアナは肝は冷えたし、胃も痛かったが、なんとかふんばった。
おそらく自分は、今回無理を聞いてもらったことで、主イアンガードから受けられる恩恵を、一生分使い切ってしまったに違いない。
ゆえに今それを言わねば、もう二度と一の宮に来る機会も、ウルツに個人的に言葉を伝える機会もないかもしれない。
だって今、そのウルツは、猛烈に不快そうな顔(※困惑顔)で自分を睨み、これはもう絶対に嫌われてしまった。
(……多分……殿下はもう二度とわたしには会ってくださらないわ……)
そう思うと、なんだかとても悲しくなって。
ロアナは半べそで勢いよく頭を下げた。
「っ何度もご不快な思いをさせてしまい……申し訳ありまひぇん!」(※噛んだ)
「わたくしめ、謝罪と、お礼をお伝えしたく……」
いいながら、ロアナは持参したものをウルツの前に掲げた。
その手に乗せられているのは、油紙に青いリボンを巻き、中央で蝶結びにされた手のひら大の包み。
そこからただよう香ばしい香りに、ここでやっとフリーズしていたウルツが我に返る。
「ん⁉」
気がつくと、なぜかロアナが自分に向けて頭を下げている。どうしてなのか……その声は涙声。
再起動直後で、状況がつかめぬウルツは焦る。
「(し、しまった、聞いていなかった⁉)」
「で、殿下……本日は……わたくしをお助けいただきありがとうございました! それなのに……フォンジー様に誤解を与えてしまい……殿下のお心遣いを無にしてしまったこと、誠に反省しております! 弟君様には後日、必ず説明いたします!」
そこまで言い切って、ロアナは手のひらの上の包みを、戸惑うウルツにぐっと差し出した。
「これは、本日お手伝いいただきました菓子でございまふ!」(※また噛んだ)
「よ、よろしければ、お、お納めください‼」
思い切って伸ばした腕は緊張で震えた。舌を噛みまくり、お礼さえまともに言えないのかと、自分に落ち込んだロアナは、怖くてウルツの顔は見られなかった。
そんな彼女に包みを差し出されたウルツは、一瞬状況がつかめず困った。
しかし、ひどく緊張した様子の娘が差し出した包みからただよう匂いにハッとする。
小麦の焼けた香ばしさと、バターのかぐわしい香り。
気がついたウルツは、また呆然とする。
(まさか……昼間の……⁉)
それが、彼女が昼間に二の宮で作っていたクッキーだと察したウルツは、激しい感動に包まれる。
(ここまで……わざわざ⁉ 持ってきてくれたのか⁉)
ロアナがそれを、自分のところまで──こんな時間に一の宮に来てまで届けてくれたのかと思うと……胸には計り知れない喜びが。
(……ぅ、嬉──……っく!)
心の底からじーんとした男は、その場に立ち尽くした。
喜びすぎて身動きができず、思わず気が遠くなった。
逆につらそうな顔で目頭を指で押さえて耐える兄の顔を。そばで目撃していたロスウェルや衛兵たちは、困惑のまなざし。
幸いロアナは、まだ頭をさげたままだったが……。
──しかし、いつまでもクッキーを受け取ってもらえない不安で、その腕はブルブル震えている……。
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