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第三章 シイナの知らない世界
21話
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シイナは朝日が昇り切る前に柔らかな布団の中で目をぱちりと開いた。
初めの頃はこの暖かさがもどかしくてなかなか慣れなかったが、今では慣れたもので最初の日に布団で絡まって転がり落ちたのが嘘のようだった。
シイナは寝巻きに使っている白いワンピース姿のままベッドから離れると、部屋の扉から顔を少しだけ出す。
廊下には朝早くから仕事をしている使用人たちが慌ただしく行き交っている。シイナは少しの間、扉の隙間からその人たちのことを観察したあと、するりと部屋から出た。
近くを通った使用人が朝早くに出てきたシイナを見て驚いた様子を見せるが、シイナはそわそわとしており気がつくことはなかった。
シイナはよく考えれば身支度を整える前に部屋の外に出たのは初めてかもしれない、と思いながら廊下の隅を通って歩き始める。
シイナは今、遠足前の子供のように浮き足立っていた。その理由は、今日からシイナのための授業が開かれることになっているからだ。
ワクワクとした気持ちとドキドキとした気持ちの両方を持て余しながら、耐えられなくなって早起きをして外に出てきたのだ。誰かと話すことでこの気持ちの昂りを落ち着けたいと思っていた。
シイナが玄関に続く中央の階段に辿り着くと、使用人の仕事をしていたジェイクに会った。
「あ、あれ?お嬢さま?」
ジェイクは籠いっぱいに入った洗濯物を両手で抱えていた。どうやらお風呂場から汚れ物を運んでいるようだった。
「随分と早いですね。それに、その格好のまま出てきたんですか?」
籠を床に置き近くにきたジェイクはシイナの格好を見て驚いたように目を見開く。
「ダメだった?」
「ダメ、と言いますか……叔母さんが見たら悲鳴をあげると言うか……」
シイナは知らなかったが、年頃の女の子が寝巻き姿で屋敷の中をうろつくのははしたないと倦厭される行為だった。ジェイクは困り顔でどう伝えたものかと頭を捻る。
シイナの常識はいまだに孤児院の生活が基準になっており、貴族の生活を理解するのが難しい部分もあった。それがわかっているからこそジェイクは何も言えなかった。それにその辺りの勉強も含めて、これから学んでいくことでもあった。
「ジェイクー?洗濯物早くって言ってるよー」
声がした方を見れば階段からアンナが上がって来るところだった。アンナはすっと顔を上げた時にジェイクの隣に寝巻き姿のシイナが立っているのを見て小さな悲鳴をあげた。そして思わず足を踏み外しそうになったのを手すりを掴むことで耐えた。ジェイクはそれを見て「あちゃー、見つかっちゃった」と額に手を置いてため息をついた。
「シ、シイナ様!?お、おはようございます……?いや、それよりも、その格好で出てきてしまったんですか!」
アンナにも今の格好を指摘されて、シイナは失敗したんだなと思った。しゅんと耳を下げるシイナを見てアンナは慌てて残りの階段を駆け上ってきた。
「あ!も、申し訳ございません!大丈夫ですよ、シイナ様は何も悪くございません!」
「でも、ジェイクもアンナさんも困った顔をしてるよ」
何を失敗したのか理解はできなかったが、失敗したことを恥じるようにシイナが指摘する。
「とりあえず、部屋に戻りましょう、お嬢さま」
ジェイクが誤魔化すように笑った。それに便乗してアンナも首を縦に振る。
「お部屋に戻って、身支度を整えましょう?私が一緒に行きますから」
「……わかった」
シイナは素直に頷く。それを見たアンナとジェイクがホッとしたように息を吐く。
シイナは自分の浮き足だった気持ちがしおしおと萎んでいくのがわかった。
*
部屋に戻ったあと身支度を整えて、ご飯を済ませた。そしてアルベリヒに昼前には先生が来ると言われ、シイナの気持ちはまたそわそわし始めた。
自室の窓から外を眺め、その先生が来るのを今か今かと待ちわびる。
ドキドキしながら待っていると馬車の音が遠くから聞こえてきた。シイナは窓から乗り出すように、馬車を見ようとした。
ポートランド家が使用する馬車とはまた違った形をした馬車が入り口のそばにつけられる。そこから降りてきたのは長い髪を頭の高いところで綺麗にお団子状に留めた、背筋がしっかりと伸びた女性だった。シイナがその美しい佇まいにほぅっと息を吐いていると、その女性がシイナの視線に気がついたのか顔を上げた。
その女性はシイナと視線を交わらせるとにこりと笑った。とても気品に溢れる微笑み方でシイナは思わず顔を赤らめた。
女性はそのあとすぐにシイナから視線を外すと屋敷の中へと入り口にいた兵士に案内されていった。
シイナは窓から体を戻して、壁を背にずるずると座り込む。両手を頬に当てて遠くを見つめる。
(とっても綺麗な人だった。あの人が私の先生になるのかな……?)
そんなことを考え込みながらシイナはしばらくその場に座り続けた。
やがていくらか時間が経ったころ部屋の扉が叩かれる。
「お嬢さま、旦那様がお呼びです」
外からジェイクの声が聞こえて、シイナはハッとしたように意識を取り戻し立ち上がる。そして部屋の外に出てジェイクと合流する。
「たぶん、先生が到着したんだと思います。慣れないことで大変だと思いますけど、頑張ってくださいね!」
書斎までの道を歩きながらジェイクがシイナを励ます。シイナもその言葉にこくこくと頷く。
そしていつものようにジェイクが入室の許可をとり、その扉を開ける。
部屋の中にはいつもの場所にアルベリヒが座り、客人用にと置かれた長椅子に先ほど部屋から見た女性が座っていた。
近くで見てもとても綺麗な女性だった。派手すぎず地味すぎない、程よいブラウンの髪がふんわりと纏まっており、その髪と似た色素の薄い茶色の瞳がシイナを見ていた。左の目元には小さな泣き黒子がちょんとついており、口元には優しい笑みを湛えていた。
「こんにちは、シイナ様」
女性はその場に立ち上がるとシイナに向かってお辞儀をした。ふんわりとドレスの両端を持ち上げて美しく礼をする。女性の声は高めで、だけど不快感はなく安心を誘うような声色だった。
「頑張ってくださいね」
女性に魅入っているとジェイクが後ろからこっそり話しかけてから部屋を出ていった。
「シイナ、こちらに来なさい」
ジェイクが扉を閉めるのを確認したあとにアルベリヒがシイナを呼ぶ。シイナは呼ばれるままにアルベリヒの近くまで行く。
アルベリヒは立ち上がりシイナの横に立つと女性の方を向く。
「この子が私の娘のシイナだ。見ての通り、獣人だがこの子はとても優しく、少しだけ人見知りだ。貴方ならすぐ慣れると思うが……」
じっと女性を見つめるシイナをアルベリヒが上から見下ろす。女性はアルベリヒの紹介を受けてシイナに向かってにっこりと笑った。シイナは何だが照れくさくなってアルベリヒの足元に少しだけ近づいた。
「シイナ、こちらの女性はアドリアーナ・ジェプソン。これからシイナの先生になる方だ」
「よろしくお願いします、シイナ様」
紹介を受けたアドリアーナはシイナのそばまで来ると視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。シイナは同じ視線になったアドリアーナの瞳をじっと見つめる。
「よ、よろしく、お願いします」
シイナは小さく頭を下げた。ぎこちないその動きにアドリアーナは可愛らしく笑った。
「それでは、アドリアーナ。これからよろしく頼む」
「えぇ、わかりましたわ。私にお任せください」
アドリアーナは微笑みながら頷いた。
初めの頃はこの暖かさがもどかしくてなかなか慣れなかったが、今では慣れたもので最初の日に布団で絡まって転がり落ちたのが嘘のようだった。
シイナは寝巻きに使っている白いワンピース姿のままベッドから離れると、部屋の扉から顔を少しだけ出す。
廊下には朝早くから仕事をしている使用人たちが慌ただしく行き交っている。シイナは少しの間、扉の隙間からその人たちのことを観察したあと、するりと部屋から出た。
近くを通った使用人が朝早くに出てきたシイナを見て驚いた様子を見せるが、シイナはそわそわとしており気がつくことはなかった。
シイナはよく考えれば身支度を整える前に部屋の外に出たのは初めてかもしれない、と思いながら廊下の隅を通って歩き始める。
シイナは今、遠足前の子供のように浮き足立っていた。その理由は、今日からシイナのための授業が開かれることになっているからだ。
ワクワクとした気持ちとドキドキとした気持ちの両方を持て余しながら、耐えられなくなって早起きをして外に出てきたのだ。誰かと話すことでこの気持ちの昂りを落ち着けたいと思っていた。
シイナが玄関に続く中央の階段に辿り着くと、使用人の仕事をしていたジェイクに会った。
「あ、あれ?お嬢さま?」
ジェイクは籠いっぱいに入った洗濯物を両手で抱えていた。どうやらお風呂場から汚れ物を運んでいるようだった。
「随分と早いですね。それに、その格好のまま出てきたんですか?」
籠を床に置き近くにきたジェイクはシイナの格好を見て驚いたように目を見開く。
「ダメだった?」
「ダメ、と言いますか……叔母さんが見たら悲鳴をあげると言うか……」
シイナは知らなかったが、年頃の女の子が寝巻き姿で屋敷の中をうろつくのははしたないと倦厭される行為だった。ジェイクは困り顔でどう伝えたものかと頭を捻る。
シイナの常識はいまだに孤児院の生活が基準になっており、貴族の生活を理解するのが難しい部分もあった。それがわかっているからこそジェイクは何も言えなかった。それにその辺りの勉強も含めて、これから学んでいくことでもあった。
「ジェイクー?洗濯物早くって言ってるよー」
声がした方を見れば階段からアンナが上がって来るところだった。アンナはすっと顔を上げた時にジェイクの隣に寝巻き姿のシイナが立っているのを見て小さな悲鳴をあげた。そして思わず足を踏み外しそうになったのを手すりを掴むことで耐えた。ジェイクはそれを見て「あちゃー、見つかっちゃった」と額に手を置いてため息をついた。
「シ、シイナ様!?お、おはようございます……?いや、それよりも、その格好で出てきてしまったんですか!」
アンナにも今の格好を指摘されて、シイナは失敗したんだなと思った。しゅんと耳を下げるシイナを見てアンナは慌てて残りの階段を駆け上ってきた。
「あ!も、申し訳ございません!大丈夫ですよ、シイナ様は何も悪くございません!」
「でも、ジェイクもアンナさんも困った顔をしてるよ」
何を失敗したのか理解はできなかったが、失敗したことを恥じるようにシイナが指摘する。
「とりあえず、部屋に戻りましょう、お嬢さま」
ジェイクが誤魔化すように笑った。それに便乗してアンナも首を縦に振る。
「お部屋に戻って、身支度を整えましょう?私が一緒に行きますから」
「……わかった」
シイナは素直に頷く。それを見たアンナとジェイクがホッとしたように息を吐く。
シイナは自分の浮き足だった気持ちがしおしおと萎んでいくのがわかった。
*
部屋に戻ったあと身支度を整えて、ご飯を済ませた。そしてアルベリヒに昼前には先生が来ると言われ、シイナの気持ちはまたそわそわし始めた。
自室の窓から外を眺め、その先生が来るのを今か今かと待ちわびる。
ドキドキしながら待っていると馬車の音が遠くから聞こえてきた。シイナは窓から乗り出すように、馬車を見ようとした。
ポートランド家が使用する馬車とはまた違った形をした馬車が入り口のそばにつけられる。そこから降りてきたのは長い髪を頭の高いところで綺麗にお団子状に留めた、背筋がしっかりと伸びた女性だった。シイナがその美しい佇まいにほぅっと息を吐いていると、その女性がシイナの視線に気がついたのか顔を上げた。
その女性はシイナと視線を交わらせるとにこりと笑った。とても気品に溢れる微笑み方でシイナは思わず顔を赤らめた。
女性はそのあとすぐにシイナから視線を外すと屋敷の中へと入り口にいた兵士に案内されていった。
シイナは窓から体を戻して、壁を背にずるずると座り込む。両手を頬に当てて遠くを見つめる。
(とっても綺麗な人だった。あの人が私の先生になるのかな……?)
そんなことを考え込みながらシイナはしばらくその場に座り続けた。
やがていくらか時間が経ったころ部屋の扉が叩かれる。
「お嬢さま、旦那様がお呼びです」
外からジェイクの声が聞こえて、シイナはハッとしたように意識を取り戻し立ち上がる。そして部屋の外に出てジェイクと合流する。
「たぶん、先生が到着したんだと思います。慣れないことで大変だと思いますけど、頑張ってくださいね!」
書斎までの道を歩きながらジェイクがシイナを励ます。シイナもその言葉にこくこくと頷く。
そしていつものようにジェイクが入室の許可をとり、その扉を開ける。
部屋の中にはいつもの場所にアルベリヒが座り、客人用にと置かれた長椅子に先ほど部屋から見た女性が座っていた。
近くで見てもとても綺麗な女性だった。派手すぎず地味すぎない、程よいブラウンの髪がふんわりと纏まっており、その髪と似た色素の薄い茶色の瞳がシイナを見ていた。左の目元には小さな泣き黒子がちょんとついており、口元には優しい笑みを湛えていた。
「こんにちは、シイナ様」
女性はその場に立ち上がるとシイナに向かってお辞儀をした。ふんわりとドレスの両端を持ち上げて美しく礼をする。女性の声は高めで、だけど不快感はなく安心を誘うような声色だった。
「頑張ってくださいね」
女性に魅入っているとジェイクが後ろからこっそり話しかけてから部屋を出ていった。
「シイナ、こちらに来なさい」
ジェイクが扉を閉めるのを確認したあとにアルベリヒがシイナを呼ぶ。シイナは呼ばれるままにアルベリヒの近くまで行く。
アルベリヒは立ち上がりシイナの横に立つと女性の方を向く。
「この子が私の娘のシイナだ。見ての通り、獣人だがこの子はとても優しく、少しだけ人見知りだ。貴方ならすぐ慣れると思うが……」
じっと女性を見つめるシイナをアルベリヒが上から見下ろす。女性はアルベリヒの紹介を受けてシイナに向かってにっこりと笑った。シイナは何だが照れくさくなってアルベリヒの足元に少しだけ近づいた。
「シイナ、こちらの女性はアドリアーナ・ジェプソン。これからシイナの先生になる方だ」
「よろしくお願いします、シイナ様」
紹介を受けたアドリアーナはシイナのそばまで来ると視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。シイナは同じ視線になったアドリアーナの瞳をじっと見つめる。
「よ、よろしく、お願いします」
シイナは小さく頭を下げた。ぎこちないその動きにアドリアーナは可愛らしく笑った。
「それでは、アドリアーナ。これからよろしく頼む」
「えぇ、わかりましたわ。私にお任せください」
アドリアーナは微笑みながら頷いた。
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