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<6/ルーカス>
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<ルーカス>
ロザリンドは、表と裏を上手に使い分けている。
公的な場では、完璧な令嬢、完璧な王子妃として振る舞う一方で、身内しかいない場では、自身の欲望に真っ直ぐだ。
よく言えば素直、悪く言えば享楽的。
彼女は、他人に甘える術を知っているし、どうすれば、周囲が自分の思惑通りに動くかを知っている。
だが、リリエンヌは。
彼女は、アーケンクロウ家で、愛されて来なかった。
いや、彼等には彼等なりの愛し方があるのかもしれないが、それは少なくとも、幼いリリエンヌの心を守るものではなかった。
初めて、リリエンヌに出会ったのは、彼女が生後六か月で、俺達が五歳の時。
「殿下方のお妃様になる女の子ですよ」
そう告げられた女の子は、まだ赤ん坊だと言うのに、ぱっちりとした大きな目と、しっとりと艶やかな銀の髪をしていた。
お嫁さんになるのですよ、と言われても、相手は赤ん坊だ。
王族としての教育を受け始めていたものの、まだ、結婚の意味も理解出来ない俺達にとっては、ただ、可愛い生き物との遭遇でしかなかった。
「うわぁ…ほっぺ、ふわふわ…」
セディが、人差し指でちょんちょん、と頬を突くと、リリエンヌは、ほにゃ、と笑った。
それが嬉しくて、セディがまた、ちょっかいを出す。
「ほら、ルークも触ってみなよ。やぁらかいよ」
「殿下。リリエンヌ様は、おもちゃではございませんよ」
「判ってるってば」
本当に、判っていたかどうかは判らない。
俺は、恐る恐る、リリエンヌの差し出した手に触れた。
きゅっ、と人差し指が握られて、その思い掛けない力強さに驚く。
五歳児から見ても小さな手は、俺の手と全く同じ作りをしていた。
小さな爪に細い指、ぷくぷくと脂肪のついた柔らかな掌。
心の奥底が震えて、自分よりも小さな生き物に対する庇護欲が沸き起こる。
「おんなじ女の子なのに、ローズとは違うねぇ」
セディの悪気のない一言に、思わず吹き出すと、リリエンヌが吃驚した顔でこちらを見た。
大きな声に驚いたのだろう。
ローズことロザリンドとは、五歳の頃には定期的に会うようになっていた。
会う、と言うよりは、タウンゼント公が、王宮に来る折に連れて来るのだ。
ロザリンドは、タウンゼント家で可愛がられている事がよく判る女の子だった。
お洒落が大好きで、可愛いものが大好きで、自分が一番でないとイヤで。
それは、例え場所が王宮でも、変わる事はない。
ロザリンドの凄い所は、大人の目があると、急に淑女に変わる事だ。
王宮でも、大人がいれば淑やかに振る舞うのに、三人だけになった途端に、あれこれと我儘を言い出す。
「セディ!私、あの赤い薔薇が欲しいわ。私の髪に似合うと思うの。取ってちょうだい。刺もちゃんと取ってよ。ルーク!お腹減っちゃった。お菓子持って来て。あ、ナッツは嫌い、ベリーのにして」
ロザリンドは、自分の要求が幼馴染とは言え、王子にするようなものではない事を、判っていた。
だが、賢い彼女は、例えどんな我儘を言われようと、五公爵家の令嬢を俺達が娶らなくてはならない事も、よく判っていた。
決して、自分が切り捨てられる事がないと、知っていたのだ。
ロザリンドに振り回されている状態が常だったセディが、リリエンヌを見て、癒しに似たものを覚えたのも、仕方あるまい。
同い年のロザリンドが、しょっちゅう、王宮を訪れるのに対し、五歳年下のリリエンヌとの接点は、多くなかった。
アーケンクロウ公が、リリエンヌを構う事がなかった、と言うのが、最も大きな要因だろう。
王家側から何度も催促して、漸く、連れてくるだけ。
リリエンヌの物心がついた頃には、王子妃教育の為の家庭教師が派遣されていたが、アーケンクロウ家の内情を知らない俺達が、その教師にタウンゼント家の息が掛かっていると気が付いたのは、大分大きくなってからだった。
年に一度会えればいい方だったリリエンヌは、会う度に、どんどん表情を失っていく。
いや、彼女は、完璧な美しい微笑を浮かべてはいる。
けれど、その笑みには何の意味もない。
ただの仮面だ。
数少ない機会に、何とか言葉を交わそうとしても、ロザリンドが邪魔をする。
確かに、子供の五歳は大きな差だ。
会話の内容を選ぶだろう。
だが、ロザリンドは、リリエンヌに合わせようとは決してしなかった。
「あら、だって、わたくし達は将来、同じ王子妃になるんですのよ?今から、わたくしがリリエンヌ様に合わせるのは、リリエンヌ様の為になりませんわ」
最もらしい事を言って、俺とセディの間に割り込み、三人にしか判らない話題を振って、笑うのだ。
リリエンヌはその様子を、微笑を浮かべて見ていた。
何も語らない、硝子玉の瞳で。
正当な王子妃教育を受けていれば、ただ笑うだけではいけない時があるのだと言う事も、教わる筈だ。
だが、リリエンヌの家庭教師であるラダナ夫人は、ひたすらに、感情を表に出すな、常に微笑みを浮かべろ、内心を悟られるな、いや、心など持つな、と、そればかりを繰り返し、指導していたと言う。
俺達がそれを知ったのは、アーケンクロウ公爵家に用事があった従者が偶然、ラダナ夫人がリリエンヌを扇で打擲する場面を見たからだった。
リリエンヌの状況を知ったものの、俺達は、五公爵家に不安定な立場として見られている。
下手に口を出すのは、リリエンヌの為に良くないのではないか。
その時点で、リリエンヌは十二歳。
貴族が通う義務のある学園への、入学直前だった。
リリエンヌの世界は、狭い。
けれど、学園に通うようになれば、彼女の世界は広がるだろう。
これまで、アーケンクロウ家の中しか知らなかったリリエンヌも、学園で様々な立場の生徒と接し、多種多様な価値観に触れる事で、視野が広くなる筈。
学園生活は、六年間あるのだ。
学友達と学び、語らい、様々な経験をすれば、ロザリンドのように、本音と建て前を使い分ける事が出来るようになるのでは。
王子妃として、学習面も礼儀も完璧なのだから、ここから先は、リリエンヌが彼女自身の気持ちを育てていくべきだ。
そうすればいずれ、初めて会ったあの日、俺達に見せた無垢な笑みを見せてくれるだろう。
入学は、良いきっかけになる。
――…だが、期待は、叶わなかった。
リリエンヌは学園に在籍していながら、必要最低限の単位を取るだけで、殆ど、通わなかったのだ。
いや、通えなかった、と言った方がいい。
当然、学園外に遊びに行くどころか、学友すら作れなかったようだ。
将来の王子妃である事は誰もが知っているので、下心付きであっても取り巻き程度は出来るのでは、と思っていた。
ところが、その取り巻きすら寄り付けない程、リリエンヌは学園に顔を出さなかった。
本人の意思ではないのは、それとなくアーケンクロウ家を見張らせていた手の者の報告で判っている。
これもまた、ラダナ夫人…タウンゼント家の意向と言う事だ。
学園の勉強以外の課題を与え続け、リリエンヌを孤立させていくタウンゼント家の、ロザリンドの思惑が、そこにあった。
学園に通っていた六年間、ロザリンドは、俺達二人と常に行動を共にした。
彼女は、いつでも物事の中心に立ち、人々の注目を集めていたいのだ。
完璧な令嬢として振る舞いながら、両隣に王子を侍らせる。
実際にはロザリンドが強引に俺達の手を引いているのに、傍目には、俺達が望んでエスコートしているように見えるよう、彼女は振る舞っていた。
傍から見れば、王子二人に求愛される令嬢に見えていた筈だ。
だが、彼女が俺達のどちらかに恋慕していたわけではない。
彼女はただ、愛する人すら己の意思で選べない現状に鬱屈した気持ちを、俺達にぶつけていただけだ。
表向きは完璧な公爵令嬢として節度を守っているから、彼女の本心に気づいた者は少ない。
俺達が、ロザリンドの我儘に慣らされていた、また、諦めていた、と言うのもあるだろう。
それで、彼女が納得してくれるのなら、と、受け入れてしまっていた。その方が、楽だったから。
ロザリンドに流されるように五年を過ごし、最上級生になった時、リリエンヌが入学した。
ロザリンドとリリエンヌは、王子妃候補として対等だ。
そう言って、リリエンヌをロザリンドと同様に扱おうとした結果が、リリエンヌに与えられた大量の課題だった。
それを知った俺達は、ロザリンドに逆らう事を止めた。
リリエンヌの平穏の為に。
そんな言葉は、自分達の誤魔化しだったのだろう。
しかし、他の方法を思いつかなかった。
ハークリウス王国では、貴族令嬢の結婚適齢期は、成人を迎える十八から二十二歳。
ロザリンドは卒業後、直ぐに結婚したがったが、リリエンヌを理由に、彼女が卒業するまで待つよう、求めた。
リリエンヌは、まだ子供だ。
政略結婚とは言え、離縁も出来ず側室も持てない結婚なのだから、どちらの王子がどちらの令嬢とより相性がいいのか、見極めてから決めたい。互いを大切にしていく為に、必要な時間だ。
そう説明すると、タウンゼント公も強く反対出来なかった。
結婚しないと言っているわけではない、寧ろ、妃を大切にしたいのだ、と話しているのに、無理矢理、ロザリンドの婚姻を進めるわけにはいかない事は、判ったのだろう。
だが、安心したのは束の間。
結婚が先延ばしになった為、社交界デビューしたロザリンドは、華やかな容姿に軽妙な話術で、社交界の花となる。
学園での人脈を生かし、社交界で着々と地位を築いていくロザリンドに対し、リリエンヌは学友を一人も作れない上に未だ学生の身の上。
五年分の差は、大きい。
いつしか社交界では、ロザリンドと結婚する王子が王太子になる、と噂されるようになった。
実際の所、両親にも重臣達にも、そのような考えはなかった。
唯一、タウンゼント公だけは、その噂に乗りたい様子を見せていたものの、気づかない振りをした。
いや、寧ろ、あの噂を流したのが、タウンゼント公だったのだろうか。
両親には、どちらがどちらを娶るのか、自分達でよく考えるように言われた。
ロザリンドは、我が強く己の欲望に忠実だが、王子妃としての立場は弁えているし、社交界での伝手は強い。
彼女の人脈は、国家運営に大きく役に立つだろう。
俺達の事を、見栄えのいい装飾品と思っている節はあるが、嫌われているわけではないから、心を通い合わせられるかはともかく、大きな波風なく過ごせる筈だ。
タウンゼント家は、代々、武官を多く輩出する家だ。
武官の後ろ盾を強化するなら、ロザリンドとの縁組が望ましい。
リリエンヌは、王子妃教育の出来としては、ロザリンドと遜色ない。
国内の歴史、政治、経済に明るく、国交のある主要な外国の要人についても網羅している。
記憶力を要するものに関しては、ロザリンドを上回ると思われる。
但し、学友がいないから、本人の人脈は当てに出来ない。
アーケンクロウ家は、代々、文官を多く輩出し、長男のマーカスは宰相を務めている。
リリエンヌとの関係性は微妙だが、文官の後ろ盾を強化するなら、アーケンクロウ家との繋がりを求めるべきだ。
俺とセディは、散々、話し合った。
セディは、情報の取扱いに長けており、人の懐に入り込むのが上手く、外交に強い。
俺は、剣技が得意で、近衛騎士団で要職に就いた。
本来なら、セディがリリエンヌ、俺がロザリンドを娶る方が、国力の強化には相応しいのだろう。
だが、幼馴染達に生真面目と評される俺が、セディと三人ならともかく、ロザリンドと一対一で、同等の関係を築けるとは思えない。
人形のように感情を見せなくなってしまったリリエンヌとも、上手くやれる自信はないが、彼女は彼女で、俺達に求めているものはないようだから、破綻はしないのではないか。
そんな思惑で、セディとロザリンド、俺とリリエンヌの縁組が決定した。
「ローズは、王子妃である事を楽しめると思う。彼女は、注目されてないと生きていけない人種だからね。でも、リリーは…。王子妃になる為に作られて、ちっちゃい頃から、五歳も違うローズと同じだけのレベルを求められて。いつしか、自分の気持ちを見失っちゃったんだろうね。リリーにとって、これまでの人生は、余所見すら許されない一本道だったんだから。だからさ、ルーク。結婚したら、リリーをたっぷり甘えさせて、あの子の気持ちを救ってあげよう」
「…お前なら、それが出来るんだろうな。だが…俺には、どうすればいいのか、さっぱり判らん」
リリエンヌの事を思えば、本当は、セディと娶せた方がいい。
結局は、消極的選択なのだ。
「う~ん…まぁ、最初から甘やかそうとしても、リリーが心を開いてくれるとは思えないけどね。取り敢えずは、リリーを注目される場所から離してみようか?ローズと違って、あの子は、注目されるのが好きなようには見えない。寧ろ、これだけ社交界がローズ有利になっている今、リリーを表舞台に立たせるのは、負担が大き過ぎる」
実際のリリエンヌの能力ではなく、不当に過小評価される可能性が高い。
それを避ける為にも、出来るだけ早いうちに、妊娠を理由に人前から遠ざけさせる。
男児が生まれれば、出産で体が弱ったとして、公の場から退かせる。
アーケンクロウ夫人の例があるから、世間は納得するだろう。
リリエンヌを見ていて、それを拒むとは思えなかった。
これは、俺とセディの贖罪だ。
彼女は、俺達双子の為だけに、作られた子供なのだから。
――…その考えに逸る余り、リリエンヌとの距離を詰めず、話し合いもしないまま、一方的に医療的な妊娠を押し付けた事は、否めない。
セディならきっと、もっと上手くやっただろう。
だが、俺は。
結婚式の誓いの口づけで、リリエンヌの瞳に、期待も不安も決意も戸惑いも、何の感情も浮かんでいない事に気が付いた時、これ以上、あの硝子玉の目を向けられる事に、耐えられなかった。
本当ならば唇にしなければならなかった口づけを、額に軽く触れる真似で済ませたのは、触れた肌がビスクのように冷たかったら、と、恐ろしい想像に駆られたからに他ならない。
「ルーク?リリーに何かあったの?」
過去の事をあれこれと思い出し、言葉に詰まった俺に、セディが気遣わし気に声を掛けるのに気が付いて、顔を上げる。
「いや…そう言うわけではないんだが…」
「じゃあ、何でそんな、難しい顔してるのさ」
「リリエンヌが…」
「うん?」
「リリエンヌが、笑ったんだ。赤ん坊の顔を見て」
セディの目が、驚きで見開かれる。
きっと、あの時の俺も、同じ顔をしていた筈だ。
「リリーが…笑った?」
「あぁ。妊娠中は、思い詰めた様子だったと聞く。出産すらも、医師によれば静かで、リリエンヌらしい自制が利いていたようだった。だから、産まれた赤ん坊が男児だと知って、責務を果たしたと安心はするだろうと思っていたのだが…まさか、あんな幸せそうな顔で笑うなんて」
涙を零しながら、笑っていたリリエンヌ。
菫色の瞳は、いつもの光のない硝子玉ではなく、きらきらと輝いていた。
だが、その様子は、笑顔の仮面に隠されていた本音が思わず零れ落ちた、と言うようには見えなかった。
赤ん坊と同時に、新たなリリエンヌとして生まれ変わったように見えたのだ。
「俺は、リリエンヌを全ての責務から解放する為に、早々に子供を取り上げようと思っていた。だが…あの顔を見てしまうと、それが良策なのか、悩ましい」
「そっか…」
セディは考え込むような顔をしていたが、小さく笑って、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「ま、産まれたばかりなんだ。急いで結論を出す事もないだろ?何が、リリーと子供にとって最善なのか、まだ考える時間は十分ある」
「そう、だな…」
ロザリンドは、表と裏を上手に使い分けている。
公的な場では、完璧な令嬢、完璧な王子妃として振る舞う一方で、身内しかいない場では、自身の欲望に真っ直ぐだ。
よく言えば素直、悪く言えば享楽的。
彼女は、他人に甘える術を知っているし、どうすれば、周囲が自分の思惑通りに動くかを知っている。
だが、リリエンヌは。
彼女は、アーケンクロウ家で、愛されて来なかった。
いや、彼等には彼等なりの愛し方があるのかもしれないが、それは少なくとも、幼いリリエンヌの心を守るものではなかった。
初めて、リリエンヌに出会ったのは、彼女が生後六か月で、俺達が五歳の時。
「殿下方のお妃様になる女の子ですよ」
そう告げられた女の子は、まだ赤ん坊だと言うのに、ぱっちりとした大きな目と、しっとりと艶やかな銀の髪をしていた。
お嫁さんになるのですよ、と言われても、相手は赤ん坊だ。
王族としての教育を受け始めていたものの、まだ、結婚の意味も理解出来ない俺達にとっては、ただ、可愛い生き物との遭遇でしかなかった。
「うわぁ…ほっぺ、ふわふわ…」
セディが、人差し指でちょんちょん、と頬を突くと、リリエンヌは、ほにゃ、と笑った。
それが嬉しくて、セディがまた、ちょっかいを出す。
「ほら、ルークも触ってみなよ。やぁらかいよ」
「殿下。リリエンヌ様は、おもちゃではございませんよ」
「判ってるってば」
本当に、判っていたかどうかは判らない。
俺は、恐る恐る、リリエンヌの差し出した手に触れた。
きゅっ、と人差し指が握られて、その思い掛けない力強さに驚く。
五歳児から見ても小さな手は、俺の手と全く同じ作りをしていた。
小さな爪に細い指、ぷくぷくと脂肪のついた柔らかな掌。
心の奥底が震えて、自分よりも小さな生き物に対する庇護欲が沸き起こる。
「おんなじ女の子なのに、ローズとは違うねぇ」
セディの悪気のない一言に、思わず吹き出すと、リリエンヌが吃驚した顔でこちらを見た。
大きな声に驚いたのだろう。
ローズことロザリンドとは、五歳の頃には定期的に会うようになっていた。
会う、と言うよりは、タウンゼント公が、王宮に来る折に連れて来るのだ。
ロザリンドは、タウンゼント家で可愛がられている事がよく判る女の子だった。
お洒落が大好きで、可愛いものが大好きで、自分が一番でないとイヤで。
それは、例え場所が王宮でも、変わる事はない。
ロザリンドの凄い所は、大人の目があると、急に淑女に変わる事だ。
王宮でも、大人がいれば淑やかに振る舞うのに、三人だけになった途端に、あれこれと我儘を言い出す。
「セディ!私、あの赤い薔薇が欲しいわ。私の髪に似合うと思うの。取ってちょうだい。刺もちゃんと取ってよ。ルーク!お腹減っちゃった。お菓子持って来て。あ、ナッツは嫌い、ベリーのにして」
ロザリンドは、自分の要求が幼馴染とは言え、王子にするようなものではない事を、判っていた。
だが、賢い彼女は、例えどんな我儘を言われようと、五公爵家の令嬢を俺達が娶らなくてはならない事も、よく判っていた。
決して、自分が切り捨てられる事がないと、知っていたのだ。
ロザリンドに振り回されている状態が常だったセディが、リリエンヌを見て、癒しに似たものを覚えたのも、仕方あるまい。
同い年のロザリンドが、しょっちゅう、王宮を訪れるのに対し、五歳年下のリリエンヌとの接点は、多くなかった。
アーケンクロウ公が、リリエンヌを構う事がなかった、と言うのが、最も大きな要因だろう。
王家側から何度も催促して、漸く、連れてくるだけ。
リリエンヌの物心がついた頃には、王子妃教育の為の家庭教師が派遣されていたが、アーケンクロウ家の内情を知らない俺達が、その教師にタウンゼント家の息が掛かっていると気が付いたのは、大分大きくなってからだった。
年に一度会えればいい方だったリリエンヌは、会う度に、どんどん表情を失っていく。
いや、彼女は、完璧な美しい微笑を浮かべてはいる。
けれど、その笑みには何の意味もない。
ただの仮面だ。
数少ない機会に、何とか言葉を交わそうとしても、ロザリンドが邪魔をする。
確かに、子供の五歳は大きな差だ。
会話の内容を選ぶだろう。
だが、ロザリンドは、リリエンヌに合わせようとは決してしなかった。
「あら、だって、わたくし達は将来、同じ王子妃になるんですのよ?今から、わたくしがリリエンヌ様に合わせるのは、リリエンヌ様の為になりませんわ」
最もらしい事を言って、俺とセディの間に割り込み、三人にしか判らない話題を振って、笑うのだ。
リリエンヌはその様子を、微笑を浮かべて見ていた。
何も語らない、硝子玉の瞳で。
正当な王子妃教育を受けていれば、ただ笑うだけではいけない時があるのだと言う事も、教わる筈だ。
だが、リリエンヌの家庭教師であるラダナ夫人は、ひたすらに、感情を表に出すな、常に微笑みを浮かべろ、内心を悟られるな、いや、心など持つな、と、そればかりを繰り返し、指導していたと言う。
俺達がそれを知ったのは、アーケンクロウ公爵家に用事があった従者が偶然、ラダナ夫人がリリエンヌを扇で打擲する場面を見たからだった。
リリエンヌの状況を知ったものの、俺達は、五公爵家に不安定な立場として見られている。
下手に口を出すのは、リリエンヌの為に良くないのではないか。
その時点で、リリエンヌは十二歳。
貴族が通う義務のある学園への、入学直前だった。
リリエンヌの世界は、狭い。
けれど、学園に通うようになれば、彼女の世界は広がるだろう。
これまで、アーケンクロウ家の中しか知らなかったリリエンヌも、学園で様々な立場の生徒と接し、多種多様な価値観に触れる事で、視野が広くなる筈。
学園生活は、六年間あるのだ。
学友達と学び、語らい、様々な経験をすれば、ロザリンドのように、本音と建て前を使い分ける事が出来るようになるのでは。
王子妃として、学習面も礼儀も完璧なのだから、ここから先は、リリエンヌが彼女自身の気持ちを育てていくべきだ。
そうすればいずれ、初めて会ったあの日、俺達に見せた無垢な笑みを見せてくれるだろう。
入学は、良いきっかけになる。
――…だが、期待は、叶わなかった。
リリエンヌは学園に在籍していながら、必要最低限の単位を取るだけで、殆ど、通わなかったのだ。
いや、通えなかった、と言った方がいい。
当然、学園外に遊びに行くどころか、学友すら作れなかったようだ。
将来の王子妃である事は誰もが知っているので、下心付きであっても取り巻き程度は出来るのでは、と思っていた。
ところが、その取り巻きすら寄り付けない程、リリエンヌは学園に顔を出さなかった。
本人の意思ではないのは、それとなくアーケンクロウ家を見張らせていた手の者の報告で判っている。
これもまた、ラダナ夫人…タウンゼント家の意向と言う事だ。
学園の勉強以外の課題を与え続け、リリエンヌを孤立させていくタウンゼント家の、ロザリンドの思惑が、そこにあった。
学園に通っていた六年間、ロザリンドは、俺達二人と常に行動を共にした。
彼女は、いつでも物事の中心に立ち、人々の注目を集めていたいのだ。
完璧な令嬢として振る舞いながら、両隣に王子を侍らせる。
実際にはロザリンドが強引に俺達の手を引いているのに、傍目には、俺達が望んでエスコートしているように見えるよう、彼女は振る舞っていた。
傍から見れば、王子二人に求愛される令嬢に見えていた筈だ。
だが、彼女が俺達のどちらかに恋慕していたわけではない。
彼女はただ、愛する人すら己の意思で選べない現状に鬱屈した気持ちを、俺達にぶつけていただけだ。
表向きは完璧な公爵令嬢として節度を守っているから、彼女の本心に気づいた者は少ない。
俺達が、ロザリンドの我儘に慣らされていた、また、諦めていた、と言うのもあるだろう。
それで、彼女が納得してくれるのなら、と、受け入れてしまっていた。その方が、楽だったから。
ロザリンドに流されるように五年を過ごし、最上級生になった時、リリエンヌが入学した。
ロザリンドとリリエンヌは、王子妃候補として対等だ。
そう言って、リリエンヌをロザリンドと同様に扱おうとした結果が、リリエンヌに与えられた大量の課題だった。
それを知った俺達は、ロザリンドに逆らう事を止めた。
リリエンヌの平穏の為に。
そんな言葉は、自分達の誤魔化しだったのだろう。
しかし、他の方法を思いつかなかった。
ハークリウス王国では、貴族令嬢の結婚適齢期は、成人を迎える十八から二十二歳。
ロザリンドは卒業後、直ぐに結婚したがったが、リリエンヌを理由に、彼女が卒業するまで待つよう、求めた。
リリエンヌは、まだ子供だ。
政略結婚とは言え、離縁も出来ず側室も持てない結婚なのだから、どちらの王子がどちらの令嬢とより相性がいいのか、見極めてから決めたい。互いを大切にしていく為に、必要な時間だ。
そう説明すると、タウンゼント公も強く反対出来なかった。
結婚しないと言っているわけではない、寧ろ、妃を大切にしたいのだ、と話しているのに、無理矢理、ロザリンドの婚姻を進めるわけにはいかない事は、判ったのだろう。
だが、安心したのは束の間。
結婚が先延ばしになった為、社交界デビューしたロザリンドは、華やかな容姿に軽妙な話術で、社交界の花となる。
学園での人脈を生かし、社交界で着々と地位を築いていくロザリンドに対し、リリエンヌは学友を一人も作れない上に未だ学生の身の上。
五年分の差は、大きい。
いつしか社交界では、ロザリンドと結婚する王子が王太子になる、と噂されるようになった。
実際の所、両親にも重臣達にも、そのような考えはなかった。
唯一、タウンゼント公だけは、その噂に乗りたい様子を見せていたものの、気づかない振りをした。
いや、寧ろ、あの噂を流したのが、タウンゼント公だったのだろうか。
両親には、どちらがどちらを娶るのか、自分達でよく考えるように言われた。
ロザリンドは、我が強く己の欲望に忠実だが、王子妃としての立場は弁えているし、社交界での伝手は強い。
彼女の人脈は、国家運営に大きく役に立つだろう。
俺達の事を、見栄えのいい装飾品と思っている節はあるが、嫌われているわけではないから、心を通い合わせられるかはともかく、大きな波風なく過ごせる筈だ。
タウンゼント家は、代々、武官を多く輩出する家だ。
武官の後ろ盾を強化するなら、ロザリンドとの縁組が望ましい。
リリエンヌは、王子妃教育の出来としては、ロザリンドと遜色ない。
国内の歴史、政治、経済に明るく、国交のある主要な外国の要人についても網羅している。
記憶力を要するものに関しては、ロザリンドを上回ると思われる。
但し、学友がいないから、本人の人脈は当てに出来ない。
アーケンクロウ家は、代々、文官を多く輩出し、長男のマーカスは宰相を務めている。
リリエンヌとの関係性は微妙だが、文官の後ろ盾を強化するなら、アーケンクロウ家との繋がりを求めるべきだ。
俺とセディは、散々、話し合った。
セディは、情報の取扱いに長けており、人の懐に入り込むのが上手く、外交に強い。
俺は、剣技が得意で、近衛騎士団で要職に就いた。
本来なら、セディがリリエンヌ、俺がロザリンドを娶る方が、国力の強化には相応しいのだろう。
だが、幼馴染達に生真面目と評される俺が、セディと三人ならともかく、ロザリンドと一対一で、同等の関係を築けるとは思えない。
人形のように感情を見せなくなってしまったリリエンヌとも、上手くやれる自信はないが、彼女は彼女で、俺達に求めているものはないようだから、破綻はしないのではないか。
そんな思惑で、セディとロザリンド、俺とリリエンヌの縁組が決定した。
「ローズは、王子妃である事を楽しめると思う。彼女は、注目されてないと生きていけない人種だからね。でも、リリーは…。王子妃になる為に作られて、ちっちゃい頃から、五歳も違うローズと同じだけのレベルを求められて。いつしか、自分の気持ちを見失っちゃったんだろうね。リリーにとって、これまでの人生は、余所見すら許されない一本道だったんだから。だからさ、ルーク。結婚したら、リリーをたっぷり甘えさせて、あの子の気持ちを救ってあげよう」
「…お前なら、それが出来るんだろうな。だが…俺には、どうすればいいのか、さっぱり判らん」
リリエンヌの事を思えば、本当は、セディと娶せた方がいい。
結局は、消極的選択なのだ。
「う~ん…まぁ、最初から甘やかそうとしても、リリーが心を開いてくれるとは思えないけどね。取り敢えずは、リリーを注目される場所から離してみようか?ローズと違って、あの子は、注目されるのが好きなようには見えない。寧ろ、これだけ社交界がローズ有利になっている今、リリーを表舞台に立たせるのは、負担が大き過ぎる」
実際のリリエンヌの能力ではなく、不当に過小評価される可能性が高い。
それを避ける為にも、出来るだけ早いうちに、妊娠を理由に人前から遠ざけさせる。
男児が生まれれば、出産で体が弱ったとして、公の場から退かせる。
アーケンクロウ夫人の例があるから、世間は納得するだろう。
リリエンヌを見ていて、それを拒むとは思えなかった。
これは、俺とセディの贖罪だ。
彼女は、俺達双子の為だけに、作られた子供なのだから。
――…その考えに逸る余り、リリエンヌとの距離を詰めず、話し合いもしないまま、一方的に医療的な妊娠を押し付けた事は、否めない。
セディならきっと、もっと上手くやっただろう。
だが、俺は。
結婚式の誓いの口づけで、リリエンヌの瞳に、期待も不安も決意も戸惑いも、何の感情も浮かんでいない事に気が付いた時、これ以上、あの硝子玉の目を向けられる事に、耐えられなかった。
本当ならば唇にしなければならなかった口づけを、額に軽く触れる真似で済ませたのは、触れた肌がビスクのように冷たかったら、と、恐ろしい想像に駆られたからに他ならない。
「ルーク?リリーに何かあったの?」
過去の事をあれこれと思い出し、言葉に詰まった俺に、セディが気遣わし気に声を掛けるのに気が付いて、顔を上げる。
「いや…そう言うわけではないんだが…」
「じゃあ、何でそんな、難しい顔してるのさ」
「リリエンヌが…」
「うん?」
「リリエンヌが、笑ったんだ。赤ん坊の顔を見て」
セディの目が、驚きで見開かれる。
きっと、あの時の俺も、同じ顔をしていた筈だ。
「リリーが…笑った?」
「あぁ。妊娠中は、思い詰めた様子だったと聞く。出産すらも、医師によれば静かで、リリエンヌらしい自制が利いていたようだった。だから、産まれた赤ん坊が男児だと知って、責務を果たしたと安心はするだろうと思っていたのだが…まさか、あんな幸せそうな顔で笑うなんて」
涙を零しながら、笑っていたリリエンヌ。
菫色の瞳は、いつもの光のない硝子玉ではなく、きらきらと輝いていた。
だが、その様子は、笑顔の仮面に隠されていた本音が思わず零れ落ちた、と言うようには見えなかった。
赤ん坊と同時に、新たなリリエンヌとして生まれ変わったように見えたのだ。
「俺は、リリエンヌを全ての責務から解放する為に、早々に子供を取り上げようと思っていた。だが…あの顔を見てしまうと、それが良策なのか、悩ましい」
「そっか…」
セディは考え込むような顔をしていたが、小さく笑って、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「ま、産まれたばかりなんだ。急いで結論を出す事もないだろ?何が、リリーと子供にとって最善なのか、まだ考える時間は十分ある」
「そう、だな…」
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