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<番外編>

<弟が生まれた日/ハイネ>

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 あの三日間は、決して、幻なんかじゃなかった。



「母様!」
 入室を許されて駆け込んだボクの目の前で、母様は弱々しく微笑んだ。
「フランツ…」
「生まれたの?!」
「えぇ…」
 元々、線の細い人ではあったが、今はやつれたと言うよりも消え入りそうに儚げだ。
 ボクの問いに答えた母様は、ちらり、と、枕元に立つ侍女のアイダに目を向けた。
 その腕の中に、小さな布の塊。
 真っ白なおくるみは…絹?
 …何で?
 今、このハイネ家には、絹なんて用意する余裕はない。
 引っ掛かったものの、そんな事よりももっと大事な事がある。
「弟なの?妹なの?」
「…男の子よ」
 その言い方にも、何かが引っ掛かる。
 何で、弟、ではなく、わざわざ、男の子、と言う言い方をするのだろう。
 何で、母様は、赤ちゃんが生まれたと言うのに、嬉しそうじゃないのだろう。
「ほらほら、坊ちゃま。面会は短く、とお伝えしましたよね。奥様は大仕事でお疲れなのですよ」
 母様の乳姉妹で、嫁ぎ先にも着いて来たアイダに促される。
「…うん。でも、赤ちゃん、見たいな」
「…そうね。フランツはずっと、きょうだいが欲しかったのだものね」
 母様がアイダを促し、そっとおくるみの中を見せてくれた。
 ふさふさで艶やかな黒髪は、母様そっくりだ。
「名前は?もう決まってるの?」
「…いいえ、まだよ」
「ふぅん」
 男の子だったら、ルーファス。
 女の子だったら、アイリス。
 心の中で、勝手に決めていたけれど、その名を出すのはまだ早い。
 両親に何も案がなかったらで、いいだろう。
「可愛いね…」
 日焼けしたボクの肌と比べるべくもない、抜けるような白い肌。
 そっと人差し指を伸ばすと、ぱちりと目を開いた。
 眩しそうに細めた目は、まだ視力が十分でないからか、視線の先がぼんやりしている。
「綺麗…」
 白目はうっすらと青く、虹彩は夜空のように綺麗な藍色。
 母様の目も青いけれど、それよりもずっと深い青だ。
 父様の目は茶色で、ボクも父様譲りの茶色。
 母様の青と、父様の茶色が混ざって、濃い色になったんだろうか?
 見た事のない、吸い込まれそうな不思議な色だった。
 でも、とても綺麗。
「可愛い…ボクの弟…」
 生まれたばかりの弟に夢中になっていたボクは、母様とアイダが、痛ましそうに俯くのに、気づかなかった。

 ボクの生まれたハイネ家は、伯爵家…とは名ばかりの貧乏貴族だ。
 父様は文官として優秀な人だったそうだけれど、如何せん、生まれつき病弱で、ボクが生まれた頃からずっと、寝ついていた。
 先祖の功績で爵位を賜っただけの、領地を持たない宮廷貴族なので、王宮に仕えられない以上、碌な俸禄はない。
 であるにも関わらず、伯爵位と言う爵位が邪魔をして、無駄に張らなければならない見栄だけはある。
 領地のない仕官していない伯爵なんて、領地を持つ男爵よりもずっと下だと思うけれど、功績によって国王より賜ったものだけに、返上するわけにもいかない。
 両親は、恋愛結婚だった。
 家柄はあれど体の弱い父様との結婚を、母方祖父は大反対していたそうで、母様は実家から勘当されている。
 そのせいで、どんな窮状に陥っても、母方の実家からの援助は得られなかった。
 表立って貴族の女性が働けない社会で、母様は、病床にある父様に代わって得意な刺繍やレース編みの作品を細々と売り、仕立物の下請けをして、蓄えを切り崩しながら、何とかぎりぎりで生活をしていた。
 その昔は使用人も何人もいたらしいけれど、今は、母様の実家からついてきたアイダ一人だけだ。
 ボクも、大きくなってからは貴族の身分を隠して、市中の御用聞きみたいな事をしている。
 皆、ボクが何処の家の子供なのか気が付いているだろうけれど、見ない振りをして仕事をくれる。
 大した金額にはならなくても、何もしないよりはましだと思う。
 たかだか六歳であっても、家の経済状況位は判る。
 …だから、ずっときょうだいに憧れていたけれど、我が家でもう一人の子供を育てるのは、難しい事も判っていた。
 何しろ、ボクはもう六歳。
 家庭教師を雇う余裕がない以上、何らかの方法で勉強しないといけない。
 幸いにも父様は勉強が出来る人らしいから、父様に教わるのが現実的だけれど、その父様は病弱で寝たきりで、父様を医師に見せるにもお金がいる。
 このままでは、ボクは碌な教育も受けられず、まともな職業に就く事は難しいだろう。
 …貧乏な家の子供が貧乏になる、そんな負の連鎖の意味がよく判る。
 でも…だからこそ、何で、弟が生まれたのか。
 少しずつ少しずつ、引っ掛かる事が積み重なっていく。
 けれど、そんな事がどうでもいい位に、生まれた弟は可愛くて…ボクはすっかり、弟に夢中だった。
 この子の為なら、何でもする。
 家庭教師につけなかったとしても、一生懸命勉強して、いずれは王宮に出仕しよう。
 そうして、弟には不自由なく、将来を選ばせよう。
 お兄ちゃんが、何からも守ってあげる。
 約束するよ。

 ――…そんな未来が絶たれたのは、弟が生まれて、三日目の事だった。

「母様、赤ちゃんは?」
 いつもよりも張り切って、お小遣い稼ぎをして帰って来たボクは、家の空気がいつもと違う事に気が付いた。
 病人がいるからか、ハイネ家はいつも、何処か薬草臭い臭いがしているのに、何だかいい匂いがする。
 赤ちゃんの乳臭い甘い香りとは少し違う、高そうな香りだ。
 くんくんと鼻を動かしながら、母様の部屋に行くと、母様は、びくり、と肩を竦ませた。
「フランツ…あの…」
 お産を終えて以来、母様は、ずっと寝台で寝ている。
 ボクは、母様が弟を抱っこし、お乳を遣っている姿を、見た事がない。
 甲斐甲斐しく弟の世話をしていたのは、アイダ。
 その様子を、母様はいつも、何処かぼんやりと眺めていた。
 なのに。
 母様の寝台の隣に置かれていた筈の、弟の寝台が、ない。
「……母様?」
「…ごめん、なさい…あの、子は…」
「坊ちゃま…弟君は、旦那様の体質に似ていたらしくて…坊ちゃまがお出掛けになって、直ぐ…」
 アイダが、震え声で言いながら、目元を拭う。
 …全部を言わなくても、判る。
 あの子が、死んだ?
 そんな、バカな。
 だって、出掛ける前に挨拶した時、真っ赤な顔をして元気に泣いていたじゃないか。
 色白ではあるけれど、あれは、元々の白さだ。
 父様の、血色の悪い青白さとは全然違う。
「うそ…」
 言いながら、スーッと血が下がっていくのが判る。
 あの子は。
 名前もつけられていなかった、あの子は。
「フランツ!」
 立っていられなくなって、体が固い床に叩きつけられる。
 ボクの弟は、たった生後二日で、ボクの前から消えてしまった。

   ***

 心の中で、私はずっと弟の事を、『ルーファス』と呼んでいる。
 ルーファスが消えてから、ハイネ家の状況は劇的に変化した。
 私を子供だと侮っていたせいなのか、それとも、それだけ追い詰められていたせいなのか。
 もしも私ならば、もう少し慎重に事を運んだだろうが、母は、ルーファスが消えた翌日、何処から出て来たのか不明な大金で、父を医師に見せる事を選んだ。
 確かに、あの時、父の病状は危うい所まで来ていた。
 生来の病弱とは言え、お金さえあれば何とか持ち直せるものだっただけに、母は、自分に出来る全ての手段を使った、と言う事なのだろう。
 …あの頃の父が、寝たきりであった事を、私は誰よりも知っている。
 であるにも関わらず、子供が生まれたと言う事は…母は、誰かに腹を貸した、と言う事だ。
 当時のハイネ家に相応しくない絹のおくるみは、きっと、ルーファスを望んだ人からの贈り物だったのだ。
 生後二日で、ルーファスは迎えに来た人に、連れて行かれてしまった。
 多額の報酬と、引き換えに。
 その報酬で、父は医師に診て貰えるようになり、回復した。
 繊弱な体質である事は変わらないから無理は出来ないが、仕事が出来るまでになったのだから、上々だろう。
 相変わらず、家庭教師を雇うだけの余裕はないけれど、父が病床に伏していないだけでも、財政状況は変わる。
 お陰で、私は父から教育を受ける事が出来、それなりに優秀な成績で学園に入学する事が出来た。
 一時期は、貴族全員が通う事を求められている学園すら、学費の問題で通えないと思っていただけに、感慨深い。
 ハイネ家の財政は、下の下から中の下まで回復したとは言え、社交界で広く交流する程の余裕はない。
 その為、学園でも、顔を売り交流の幅を広げるよりも、得られる知識を貪欲に求める事に終始した。
 一方で、入学して直ぐに親しくなったオスカー・フラネルに付き合って、剣術の鍛錬にも力を入れる。
 父は結局、激務である王宮に出仕する事は諦め、伝手を使ってある貴族家の事務を任せられるようになったが、私はどうしても、王宮に行きたいのだ。
 きっかけは、七歳の時に目にした王子殿下の姿絵だった。
 ハークリウス王家では、王族が一歳の誕生日を迎えるまで、名も性別も伏せられる。
 代わりに、一歳をお迎えになると、大々的に国中に知らせが巡る。
 国王陛下ご夫妻には、長くお子様がお生まれにならなかった。
 国民待望のお子様は、双子の王子殿下。
 金髪緑瞳のセドリック殿下と、黒髪青瞳のルーカス殿下だ。
 最初は、『ルーファス』と『ルーカス』、名前の響きが似ているから気になっただけだった。
 ルーファスと同い年なのだな、と、思っただけだった。
 けれど、一歳をお迎えになった王子殿下方の姿絵を見に行って、衝撃で立ち尽くした。
 私が知っているのは、生後二日まで。
 赤ん坊の顔なんて変わるし、まだ一歳の姿絵なのだから、これからも変わっていくだろう。
 けれど。
 もしも、絵師が、王宮お抱えの名に恥じぬ腕を持つのならば…これは、この子は、ルーファスだ。
 だって、あの瞳。
 夜空をそのまま閉じ込めたような、深い藍色の瞳。
 この、瞳は。
 頭では、判っている。
 黒髪青瞳なんて、ありふれてはいないが、珍しいわけでもない。
 そもそも、王妃殿下が黒髪青瞳なのだから、ご子息であるルーカス殿下が同じ色をお持ちであっても、何の不思議もない。
 …けれど。
 どうしても、万が一の可能性を否定出来ない。
 母が、何処かの貴族家の為に腹を貸し、子を生んだのは確かだろう。
 一度もルーファスを抱こうとしなかったのは、愛着を持たない為だったのだろうから。
 亡くした、と言い、痛みを堪える様子ながらも、沈み込んでいなかったのは、最初から別れる定めと判っていたからだ。
 では、あの子は、ルーファスは、何処に引き取られたのか?
 長年、お子を授からなかった国王夫妻の元に、ルーファスと同じ色を持つ王子殿下がいらっしゃるのは、本当にただの偶然なのか?
 芸術には疎いから、絵の具で正確にあの子の色を再現出来るものなのか、判らない。
 だから、王宮に出仕したい。
 間近で、お顔を拝見したい。
 そう決めてからずっと、王宮に出仕する日を夢見て、努力を続けて来た。
 剣術の腕を磨いたのは、近衛となれれば、お顔を拝見する機会も多いのではないか、と思ったからだ。
 …あの一件以降、私は両親と、一歩、心の距離を取るようになった。
 実家と絶縁していた母に、他の手段はなかったのだろう、と、頭では判っている。
 死の縁に立つ愛する夫を救う為の大金を得るのは、容易な事ではない。
 そう、判っていても。
 『子供を売ったのだ』と言う事に気づいた時、最初に思ったのは、嫌悪だった。
 母は、父の為ならば、子供を手離せる人なのだ。
 判っている。
 母は、決して、冷酷な人ではない。
 悩みに悩んで出した結論で、そのせいで思い悩んでいた事も。
 財政状況が回復しても子を作らないのは、あの子を思うからだとも。
 もしも、当時、手離さない選択をした所で、困窮していた我が家で健康に育てられたとも思えない。
 それでも…母は、いざとなれば、私も何処かに売るのだろう、と思ってしまう。
 幼心に、捨てられるかもしれない、と思う事は、大きな恐怖だった。
 母の苦渋の決断は、父を救うと同時に、私達家族の中に、大きな傷を残した。
 だからこそ、ルーファスは、恵まれた環境で、愛情深く育てられているだろうと、思いたいのだ。
 他人の腹を借りてまで、望んだ子供なのだから。
 そうでなければ…私達家族の苦悩が、報われない。



 最初は、ルーカス殿下がルーファスなのか、知りたいだけだった。
 幸せに暮らしていると判れば、それで満足出来ると思っていた。
 けれど。
 成長につれて、例え、ルーカス殿下に謁見したとしても、ルーファスなのか判断しようがない事に気が付いた。
 何しろ、確認する方法など、ない。
 瞳の色一つでは、証立てのしようもない。
 そう判っているのに、ルーカス殿下のお傍に仕えたい、と思うのは…いつからか、ルーカス殿下とルーファスを同一視する事が、私の中で当たり前になってしまったからだろう。
 令嬢と違い、子息に関する情報は、何かと手に入る。
 調べられる範囲で、ルーファスと同い年の貴族子息について調べたけれど、黒髪青瞳はいても、あの子のような夜空の藍色を持つ人物は見つからなかった。
 だから。
 ルーカス殿下が、ルーファス本人でなかったとしても、構わない。
 もしも、ルーファスが別にいるのだとしても、私にはもう、探しようがないのだから。
 学園で過ごす中で、少しずつ、王宮の複雑な状況が判って来た。
 ルーカス殿下もセドリック殿下も、王子殿下でありながら、その環境はとても、恵まれているように見えない。
 ルーファスが…ルーカス殿下が、そのような環境でお過ごしになっている事を思うと、胸が痛む。
 ルーカス殿下にお仕えし、ルーカス殿下をお幸せにする。
 それが、いつの日か、ルーファスと一方的に交わした約束を、叶える事になりはしないか。
 ただの、自己満足。
 ルーカス殿下には申し訳ない位、一方的な欲だ。
 でも。
 それが、あの日、あの子を守れなかった幼い私の心を、救ってくれると、信じている。
 例え、兄と名乗れなくとも。

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