ウィンチェスター家の呪い

四ツ谷

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第一話「始まり」

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 一頭の黒馬が、雨の湿気の渇ききらぬ土の道の上を疾走していた。馬は霧に霞む森の木々の間を駆け抜けていく。森を抜け、湿原を突っ切り、小麦畑や果樹園をスピードを落とすことなく駆けていく。

 黒馬を駆っているのは栗色の髪をした青年だった。名はアレクシス・ウィンチェスター。ウィンチェスター家の領地であるエルダーグレン、またの名をウィンチェスター・ムーアと呼ばれるこの地を治めるウィンチェスター家の若き当主である。

 アレクシスは道がぬかるむのも気にせずに馬を走らせる。激しい振動と蹄の音に身を任せて。何かに追い立てられるように、何かから逃げるように、焦りをごまかすように、脇目も振らず馬を駆り立てる。

 森を抜けると突然視界がひらけた。岸壁までやってきたのだ。アレクシスはそこでようやく手綱を引いて速度をゆるめた。馬を断崖まで近づけ、恐れる馬をなだめながらアレクシスは黒々と荒れる海を見下ろす。濃い灰色をした波が岸壁に打ち付けている。暗い海がどこまでも続き、水平線は霧で覆われていた。

「アレクシス!」

 背後から蹄の音と、アレクシスの名を呼ぶ男の声が聞こえた。

「アレクシス。飛ばしすぎだ」

 息を切らせながらアレクシスを追って馬を駆ってきた男の名はノア・グレイ。肩まで伸ばした黒髪を結び、健康的な肌の色をしたこの男はウィンチェスター・ムーアの森番だ。アレクシスは幼い頃、ノアとよく森で遊んだ。二人は幼馴染として、親友として育ったが、同時に兄弟でもあった。ノアはアレクシスの父、ヘンリー・ウィンチェスターが妾に産ませた子だった。正妻との間にアレクシスが生まれ、庶子であるノアは森番の息子としてエルダーグレンの森の中に棲むことになったのだった。

 ノアは当主であり友であり弟でもあるアレクシスの顔を覗き込む。眉をぐっとひそめてふさぎこむアレクシスに、励ますような声をかける。

「たしかに、この屋敷に人が来るのは久しぶりだ。でもそんなに緊張するなよ」

 ノアに心境を言い当てられたアレクシスは苛立ちを隠しきれない声で答える。

「新しい経済顧問は女性だと聞いた。ぼくはずっと寄宿学校にいたんだぞ。どうやって接すればいい?」
「お前は当主なんだ、堂々としてればいい。老獪な爺さんが来るよりマシだろ? 若い人だそうだから、意気投合するかもしれないじゃないか」
「そんな気楽にいくもんか。この家も土地も、すべてが値踏みされるんだぞ。このぼく自身だって……」

 今日はこの家に新しい経済顧問が来る日だ。ウィンチェスター家には長らく、経済顧問どころか執事すらもいなかった。七年前……アレクシスが国外に経ってから二年後、父であるヘンリー・ウィンチェスターが失踪し、数年後に執事と経済顧問が引退したあと、誰も成り手がいなかったのだ。一年前、十八歳になったアレクシスが国外から戻ってきて当主の座についたが、ウィンチェスター家の資産や財政を知る者が誰もいないのは問題だ。そこで急遽、新しく経済顧問を雇うことにしたのだ。

 とにかく急いでいたから、じっくりと人材選びなどしていられなかった。親戚筋から紹介された経済顧問を、経歴だけ確認してすぐに雇い入れることにした。しかし新しい経済顧問は若い女性だという。貴族の男子たちばかりが集まる寄宿学校で長く暮らしたアレクシスは、同年代の女性との接し方などほとんど教わっていない。

 アレクシスが不安がっているのはそれだけではない。アレクシスは常に当主たる振る舞いをしなければと気を張っていた。幼い頃に家を出、父は突然いなくなり、学校を出てすぐ当主にならなければならなかったアレクシスは、緊張と重圧と不安に常に苛まれていた。

「彼女はお前に雇われるんだ、敵じゃない。この家のためによくしてくれるさ。とにかく、そろそろ帰ろう。出迎えの準備をするんだろ」

 ノアになだめるように諭されて、アレクシスは観念したように馬の鼻先を元きた道へと向けた。ノアの馬の後ろをついていくように、屋敷への道を戻る。

 森や湿原を抜けた先に、ウィンチェスターの屋敷がある。小高い丘の上に立つ、アレクシスの生家。その背後に、高い塔の姿が霧に紛れて垣間見える。ウィンチェスター家の命運を静かに見守りながら、時に嘲笑い、時に呪いをかけるかのように不気味に沈黙している塔。幼い頃から恐れていたあの塔に、父もまた囚われていたのだとアレクシスは思う。ウィンチェスター家の当主がどのように生きようと、どのような選択をしようと、すべてはあの塔の意志に操られているように思ってしまう。それほどまでにあの塔はウィンチェスター家を支配し、呪ってきた。アレクシスは塔をにらみながら、屋敷へと馬を走らせた。





 

 揺れる馬車の窓のカーテンをそっと開けて、レティシア・ヴァレンタインは外を見た。もう少しでウィンチェスターの屋敷に着くはずだ。外を見ると、鬱蒼と生い茂る木々の向こうにウィンチェスターの屋敷が見えた。そしてその奥に黒々とした塔が立っているのも。

 今日からウィンチェスター家の経済顧問となるレティシア・ヴァレンタインは、二十六歳という若さ、女性であること、すべてが異例の存在だった。生家であるヴァレンタイン家が名家であったのは遠い過去のことだ。レティシアが生まれる遥か前にヴァレンタイン家は没落し、レティシアは家の後ろ盾に頼ることなく、生まれ持った才覚だけで生き抜く必要があった。レティシアを目にした者は誰しも、まず最初にブルネットの髪とアメジストの瞳をもつ彼女の美貌に目を見張るが、すぐに彼女の知性に舌を巻き、誰も彼女を馬鹿にしたり軽々しく扱うことなどできなくなる。

 ウィンチェスター・ムーアに来る前は、レティシアはウィンチェスター家の親戚筋の家で経済顧問として雇われていた。新しい時代を迎えるにあたり、商人や投資家たちの事情にも明るいレティシアの頭脳を必要としたのだ。だが伝統と格式に縋り付いていたい分家はすぐにレティシアを手放した。紹介という形で本家であるウィンチェスター家に送り込むことで、メンツを保ちながらもていよく厄介払いをしたということになる。

 しかしこの程度のことではレティシアはへこたれない。貴族の家々や商会をわたり歩き、経済と数字と会計の技術を身につけ、この身と頭脳だけで道を切り開いてきたのだ。華やかな生活を送る分家筋と違い、陰気で冷え切っていると噂されるウィンチェスターの本家に送り込まれても、レティシアはひるまないし恐れない。

 徐々に近づいてくる屋敷と塔から目を離して、レティシアは手帳を取り出して挟んであったカードを手に取った。カードには、「心はいつもあなたとともに あなたの愛するマーガレット・ローレンス」と書かれている。それを胸に当てて、レティシアは深呼吸をした。

 やがて馬車はウィンチェスターの屋敷の正門へと到着した。使用人数名とノア、侍従長、当主であるアレクシスが玄関扉の前に並んで立ち、レティシアの到着を待っていた。

 レティシアが馬車から降りるとすぐに使用人たちが荷物を取り出し、屋敷の中へと運んで行った。レティシアが淑女のドレスではなく、乗馬服のようなズボンに天鵞絨のジャケットを着込んだ姿であったことに、その場にいた皆が表情に出さず内心驚いていた。アレクシスは当主として恭しく礼をし、差し出されたレティシアの手を取って甲に口付けをした。

 当主として堂々たるところを見せようとしながらも緊張の抜けきれないアレクシスと対照的に、レティシアは落ち着いていた。

「手厚い歓迎をどうも。でも、堅苦しいことはなしにしましょ。当主様がお若い方で嬉しいわ。きっとスムーズに仕事ができるでしょうから」

 名門の分家であることを盾にして、礼節や伝統にばかりこだわる親戚筋の家でかなり苦労したのだろうと、アレクシスもノアも察していた。そして二人とも、今日会ったばかりのレティシアという女性に好感を抱いていた。貴族社会で大きな影響力を持ち、王家や教会ともつながりのあるウィンチェスター家だが、本家の屋敷は暗く重苦しい雰囲気が漂っている。そこに春の新緑のような、あるいは夏の日差しのような新しい風が舞い込んできたことを喜ばしく思った。

 アレクシスは勝気な笑みを見せるレティシアに微笑み返した。

「同感だ、ミス・ヴァレンタイン」
「レティシアでいいわ」
「レティシア。ぼくたちはどうやらうまくやっていけそうだ。長旅で疲れているだろう。夕食まで部屋で休むといい」
「お気遣いありがとう。でもさっそくだけどこのお屋敷を見て回りたいわ。案内していただける?」

 それを聞くとアレクシスはノアを振り返って目配せした。

「ノア、彼女の案内を頼む。レティシア、ぼくは書斎でやることがあるから、ここで失礼するよ。またあとで旅の話を聞かせてくれ」
「ええ」

 アレクシスは屋敷へと戻っていき、ノアとレティシアは連れ立って庭を歩いた。綺麗に刈り込まれた美しい生垣が続くが、人気のない寂しげな雰囲気は隠せない。

 ノアは隣を歩くレティシアに切り出した。


「……知っているんだろう? 俺とアレクシスのこと。」
「ええ、もちろん。あなたたちのことだけじゃないわよ。このお屋敷で仕事をする上で知るべきことはすべて知っているわ。」
「それは頼もしい。それじゃあの塔のことも知ってるよな?」

 ノアは立ち止まって後ろを振り返り、屋敷の奥に聳え立つ塔を指差した。

 レティシアは頷きながらも、半信半疑の表情を隠さずに言った。

「……話にはね。でも本当なの? 呪いなんて」

 ウィンチェスター家には、代々語り継がれている伝説がある。

 『ウィンチェスター家は塔によって生かされ、繁栄をもたらされ、支配され、そして呪われている』というものだ。

 レティシアの疑問に、ノアは緩やかに首を横に振る。

「呪いが代々語り継がれていることは確かだ。それが真実かは、正直俺にもわからない……でもアレクシスは本気で信じているんだ。その呪いが降りかかるのは当主にだけだから……」
「私にとって重要なのはウィンチェスター家の事業やこの屋敷の資産価値だけよ。あの塔も例外じゃないわ。それを見極めるのに呪いや伝承は関係ない」

 ノアは笑ってレティシアに手を差し出す。

「あんたがこの家に来てくれてよかった。俺は貴族の事情や財政には詳しくない。あいつを補佐してやれるのはあんただけだ。あいつを守ってやってくれ」
「ええ。私が彼に雇われている間はね。」

 二人は笑って、握手を交わした。




 レティシアとノアが屋敷に戻ると、用事を済ませたアレクシスが玄関ホールで二人を出迎えた。アレクシスはレティシアをねぎらい、礼儀正しく食事に誘おうとしたが、レティシアの興味は別のところにあった。

「夕食の前に、アレクシス、塔へ案内してもらえないかしら?」

 その提案を聞いて、アレクシスもノアもぎょっとした。近くで聞いていた使用人たちも。ノアがあわててレティシアを制する。

「レティシア、それは後日にしよう。何も今日でなくても……」

 アレクシスの表情から緊張が消え失せ、真剣な表情になってレティシアを正面から見据えた。

「なぜ塔に興味が?」
「私には朽ちかけた塔にしか見えないけれど、あの塔はこの家で無視できない存在のようだから。この目で見ておきたいの、どんな場所なのか」
「……父のことを知っていてか?」
「ええ……。前当主のヘンリー・ウィンチェスター卿は、あの塔で失踪したと噂されているのよね」

 アレクシスはレティシアから目を離さずに首を振る。

「噂じゃない。本当だ」
「ならどうして事故や事件として届けていないの? それに、お父様が失踪したとき、あなたは国外にいたはずよ。どうして本当だとわかるの?」

 緊迫感の高まりを感じて、ノアがなんとか間に入ろうとする。

「レティシア、その話はまた今度……」
「いいだろう。そんなに興味があるなら案内しよう。ノア、君も来い」

 レティシアは挑戦的な笑みを濃くし、ノアはため息をついて肩を落とした。



 三人は塔の頂上へと続く長い螺旋階段を登った。塔の最上階は天井の高く開けた空間だったが、古ぼけた石壁に囲まれているだけで何もない空間だ。ただ一つ特徴的なのは、階の中央に大きな鏡が置かれていることだった。鏡には両開きの扉が取り付けられていたが、いまは閉ざされている。

 レティシアはランプをかざして階の中を見て回った。アレクシスは出入り口に立ったままで、階の中まで入ろうとせず、ノアはそんなアレクシスを守るように隣に立っていた。

「ここが、お父様の失踪現場と噂されている場所よね。誰かヘンリー卿がこの塔へ入っていくのを見たの?」

 アレクシスは首を横に振る。何一つとして確固たる証拠がないのに、前当主の失踪の現場がこの塔であるとアレクシスが信じ切っているのがレティシアには不思議だった。

 鏡の前に立ち、ふと足元を見ると、煤のようなものがこびりついているのが目に入った。ランプをかざしてよく床を観察すると、かすれてほとんど消えかけているが鏡を取り囲むように紋様が描かれている。

 レティシアは、この塔にまつわる呪いの伝承について思い出していた。確かに呪いの存在がまことしやかに囁かれていてもおかしくないほど不気味な塔であることには違いない。

 塔の中を熱心に観察するレティシアの背後から、アレクシスが声をかけた。

「レティシア。君がこの塔について何かを知り得ようと、あるいは何も知らなくても、それは君には関係のないことだ。この塔の呪いは当主だけが受けるのだから」

『ウィンチェスター家は塔によって生かされ、繁栄をもたらされ、支配され、そして呪われている』──

 それが真実であろうとなかろうと、レティシアがそれを否定しようと肯定しようと、アレクシスにとっては本物なのだ。レティシアは目の前にある事実よりも何よりも、それを強く感じ取った。若き当主は家を背負う責任に圧され、同時に呪いを恐れてもいる──


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