地味悪役令嬢、破滅回避のために全力で透明になります

黒瀬ユカ

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翌朝、聖女専用棟の奥深く。  
アニカ=フォン=ヴァレンティナは、霧のような香に包まれながら、静かに連れられていった。

香殿、それは神に祈るための部屋として設けられた、半ば祭壇めいた空間。  
だが、いまこの場は“改心”という名の支配のために使われていた。

「さあ、祈りましょう。心の底から赦しを乞えば、きっと救われますわ」

そう言いながら、ミリアンヌは香炉へ手をかざす。  
黄金の香符が差し込まれた瞬間、部屋に広がる香気が一段と濃く、甘くなった。

それはただ芳しいだけではない。  
吸い込むたびに、胸の痛みが和らぎ、思考がぼんやりと溶けていく
“感情誘導香”。  
幸福感と安堵の幻覚を与え、対象の抵抗心を奪うための香だ。

「ねぇ、アニカ様。  
あなたが“静か”になってくれれば、誰も傷つきませんのよ。  
あなたの魔法は危険なの。……あなた自身にも、世界にも」

その言葉を囁きながら、ミリアンヌは微笑を崩さない。

けれどアニカの瞳は、わずかに揺れる香の向こうで静かに燃えていた。

(……来る)

吸うごとに思考が鈍る。体が緩む。  
けれど、透明魔法の修練で培った“精神の核心”は、そう簡単には沈まない。

アニカは呼吸を最小限に抑え、意識を内に向ける。  
過剰な感情を抑え、自己認識の座標を保ちつづける。

(これは“祈り”じゃない。“洗脳”よ)

沈黙の中、ミリアンヌの微笑がふと揺らいだ。  
そして、彼女は囁いた。

「……ならば、力ごと奪うしかありませんわね」

その瞬間、香炉の火が淡く変色し、新たな魔符が差し込まれる。  
香気の質が変わり、今度はアニカの身体の奥にある“魔力核”が微かに軋んだ。

(……吸われてる……魔力が、引き出されていく……!)

言葉はない。  
音もない。  
だが、確かに沈黙の中で、アニカの魔法が“奪取”されようとしていた。

咄嗟に、彼女は内なる魔力の核に意識を集中させる。  
そこに眠る、あの“古の紋”、“声なき観測者”の証。

それが応えるように、脈動した。

「……わたくしの魔法は、誰にも渡しません」

その囁きは、かすかな声でしかなかった。  
けれど、香の檻を震わせるには充分だった。

魔力が跳ねる。香炉が一瞬、ひび割れたように揺れた。  
アニカの身体から発せられた“沈黙の衝撃”が、空間の魔力バランスを崩しはじめていた。

ミリアンヌは目を見開いた。  
初めて、その笑みの奥に“計算外”の色が差す。

「……やはり、あなたは観測してはならない者」

香はなおも満ちる。  
だがその中で、アニカの意識は沈まず、むしろ研ぎ澄まされていた。

“透明”とは、隠れる術ではない。  
“誰にも触れさせない核”を守る魔法。

いま、彼女はそれを確かに理解していた。
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