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11,話
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徳性があるから、人は苦しむのだろうか。
人を尊いと思うから、別れに苦しむのだろうか。
喪失感は、何のためにあるんだろう。焼け付く胸の痛みは、何のためにあるんだろう。
僕が「そのこと」を告白されたのは、あの生ハメの日の夜中に夏休みの課題を進めていた時のことだった。
殆ど終わりかけていたのだけど、ラストに向けて一気呵成とばかりにペンを走らせていた時、僕のスマホが鳴り渡る。
画面を見ると、白石さんからの着信だった。通話を開始すると、聞きなれた声が端末の向こう側から聞こえて来る。
「もしもし、倉部くん……? 白石です」
「白石さん。こんばんは。何か用?」
「今忙しく無い? 大丈夫?」
「勉強してたところだけど、そろそろ休憩したいところだったし大丈夫」
「そう……あのね……君に話さなくちゃいけないことがあるの……」
何のことだろうと思った。
ふと頭に、避妊に失敗していたという可能性が浮かび、少し焦る。
万が一そうなった場合、腹を括らなくては。
しばらく彼女は沈黙していた。
嫌な沈黙。何か話づらいことの前触れ。
「……言わなくちゃいけないなって思ってたんだけど、言えなかったんだ……」
「話してみて。怒らないから」
「……私、転校するの」
なんだって……
「極端に遠くに行くわけじゃないんだけどね……刑事の父親の転勤で、千葉の勝浦の方へ引っ越すことになっちゃって……そこだと今の高校はちょっと遠すぎるから、転校なの……」
「確かに毎日高校に通うには遠いね……もう手続きは済んだの?」
「転入試験は合格して、そろそろ引越しの準備に入るところ……。試験は君と関係を持った頃に行ってた」
「そう、なんだ……」
「黙っててごめん」
「驚いたけど、大丈夫。でも、教えてくれてもよかったのに」
「……初めは特に関係の深くないクラスメイトの君に教える必要は無いと思ってた。性関係を結んで特別な存在にはなったけど、それ以上関係を開拓する必要も無いのかなと思ってた。でも、理由は少しづつ変質していったの。想定していたより、私と君はどんどん親しくなっていった。『別に教えなくても良いか』という当初の理由は、『教えたら君が苦しむ』んじゃないかって理由に変わっていった」
「……」
「騙すとか、そういう理由では無かったの。でも、もっと早いうちに言うべきだったね。……ごめん」
「いつ、転校するの」
「九月中には」
「どこの高校?」
彼女は高校名を告げる。
僕と今の彼女が在籍する学校よりも、更にレベルが高くて、ブランドのあるお嬢様学校。
僕の高校も結構名のある場所だったけど、それより数段実力のある、エリート校だった。
「凄いじゃないか。まあ、白石さん位学力のある子ならそれくらいの場所に行くのは当然だよ。うん」
「駄目元で受けたんだけどね……神様が味方してくれたみたいなんだ」
「白石さんの実力だよ。きっと。合格おめでとう。親しい人が高みに登ると、こっちまで嬉しくなっちゃうな」
……祝うのはあまりにも簡単だった。
笑ってしまうくらい。
なぜなら、思っていたことと正反対の感情を出せばいいんだから。
行かないで欲しいと言うのはもっと簡単のはずだった。
でも、そのことを僕は我慢する。
「ごめん。寂しいよね」
「寂しいけど、仕事の都合なら仕方ないよ。僕も子供じゃないし、そのくらいの事情は分かるし」
僕は子供だった。
「交通費とか受験勉強とかあるし、倉部くんに気軽に出会う……ってのは難しいけどね……でも、都内に出てきた時は偶然街中で遭遇するかも」
「その時はカフェで何か奢ったりするよ。僕のこと、忘れないでよ?」
「忘れないよ。……特別な人だし。馴れ初めはちょっとアレだけど」
「ははは。……ホントごめん」
「まあ、君と関係持てて本当に良かったと思うよ。エッチなことも含めて」
「もしかして、今日セックスに誘ったのは……」
「まあ……ね。君のことを、刻んで欲しかったんだ。私が転校することを言った後じゃ、そういう気分にならなかったかも知れないし」
「僕は猿だから、構わずヤってたかも」
「倉部くんらしいね。でも、君は優しいから、本気で私を襲うとかはしない人だから」
彼女にアプローチをかけていなければ、こんなに苛まれることなどなかったはずなのに。
赤の他人の同級生が、いつの間にかいなくなるだけだったのに。
なぜ僕は、白石さんと関係を開拓していってしまったんだろう。
「そうだ、白石さん。お別れなら、何か思い出作っておかない?」
「思い出? 良いね」
「八月の末頃に、花火大会があるのは知ってる? そこに一緒に行こうよ」
「気が利くね。私も行きたいな。浴衣、用意しておこう」
「浴衣姿、楽しみにしてるよ」
「倉部くんも浴衣着るの?」
「僕は持ってないんだよなぁ」
別れをより辛くするだけなのに、僕はそんな約束をしてしまう。
胸の奥から痛みを感じた。痛いのが分かった。
でも、そんな痛みを彼女に悟られないように僕は振舞う。
自分が僕のことを悲しませていると思われたくなかったから。
「まあ、お別れの時が来ちゃうってことを教えたかった。もっと早く言ってればよかったね。……ごめんね」
「気にしてないって言ったら嘘になっちゃうかな。千葉に行っても元気で」
「今すぐ消えちゃう訳じゃないんだからまだ言わなくてもいいよ。ま、向こうに行くまでの間に仲良く色々思い出作ろうよ。喧嘩別れとか嫌だからね?」
「……うん」
「長話になっちゃったね。そろそろ切るね。夜遅くごめん。いい加減言わなくちゃって思ったんだ」
「急で驚いたけど、妊娠したとかそういうのじゃなくてよかったよ」
「あははっ。ちょっと出されちゃったし、ホントにおめでたになるかもね。笑いごとじゃないけど」
「もしもの時は責任取るよ」
「簡単に言うなぁ。私みたいな子の弱みをまた握ったとしても、手出しちゃ駄目だからね? 本当に妊娠させかねないし」
「酷い言い様」
「じゃ、電話切るね。お休み」
「うん。……お休みなさい」
通話が終わる。
僕はスマホをベッドの上に置くと、その横に腰掛けた。
白石さんが、いなくなる。
その実感が水を注いだように流れ込んできて、仄暗い気持ちが澱のように積もっていく。
落ち着けよ倉部祐樹。
白石さんが死んだわけじゃない。不治の病に罹ったわけじゃない。
首都圏ならその気になれば再会出来るし、転校するまでも時間がある。
「大丈夫。大丈夫だから……」
そう自分に言い聞かせる。
……何も知らなければ。彼女と関係を持つことをしなければ、こんなに辛い気持ちにはならなくて済んだのに。
セックスの相手がいなくなるから悲しいのだろうかと思ったけど、どうにもそれは違うようだった。
肉体の繋がりも確かに大きな比率を占めていたけど、僕の脳裏を過ぎるのはそれ以外の記憶。
彼女とキスをした時。
彼女と手を繋いだ時。
彼女とショッピングモールでデートをした時。
彼女とプールに行った時。
研ぎ澄ました鋭さを持っているかのようだった白石さんが、僕に対して心を開いてくれたのが嬉しくて、僕も彼女を楽しませてあげたくて。
馴れ初めが人に言えない結びつき方だったとしても、それでも彼女は僕にとってかけがえの無い存在になっていて。
勉強して、気を紛らわせよう。
僕はベッドから立ち上がると、机の方へと歩く。
窓の傍を通りかかった時、カーテンを閉めていなかったことに気が付いた。
それを閉めるために窓に向き直る。
夜の闇が透き通るガラス窓に、僕の顔が映る。
そこで僕は、自分が泣いていたことに初めて気が付いた。
人を尊いと思うから、別れに苦しむのだろうか。
喪失感は、何のためにあるんだろう。焼け付く胸の痛みは、何のためにあるんだろう。
僕が「そのこと」を告白されたのは、あの生ハメの日の夜中に夏休みの課題を進めていた時のことだった。
殆ど終わりかけていたのだけど、ラストに向けて一気呵成とばかりにペンを走らせていた時、僕のスマホが鳴り渡る。
画面を見ると、白石さんからの着信だった。通話を開始すると、聞きなれた声が端末の向こう側から聞こえて来る。
「もしもし、倉部くん……? 白石です」
「白石さん。こんばんは。何か用?」
「今忙しく無い? 大丈夫?」
「勉強してたところだけど、そろそろ休憩したいところだったし大丈夫」
「そう……あのね……君に話さなくちゃいけないことがあるの……」
何のことだろうと思った。
ふと頭に、避妊に失敗していたという可能性が浮かび、少し焦る。
万が一そうなった場合、腹を括らなくては。
しばらく彼女は沈黙していた。
嫌な沈黙。何か話づらいことの前触れ。
「……言わなくちゃいけないなって思ってたんだけど、言えなかったんだ……」
「話してみて。怒らないから」
「……私、転校するの」
なんだって……
「極端に遠くに行くわけじゃないんだけどね……刑事の父親の転勤で、千葉の勝浦の方へ引っ越すことになっちゃって……そこだと今の高校はちょっと遠すぎるから、転校なの……」
「確かに毎日高校に通うには遠いね……もう手続きは済んだの?」
「転入試験は合格して、そろそろ引越しの準備に入るところ……。試験は君と関係を持った頃に行ってた」
「そう、なんだ……」
「黙っててごめん」
「驚いたけど、大丈夫。でも、教えてくれてもよかったのに」
「……初めは特に関係の深くないクラスメイトの君に教える必要は無いと思ってた。性関係を結んで特別な存在にはなったけど、それ以上関係を開拓する必要も無いのかなと思ってた。でも、理由は少しづつ変質していったの。想定していたより、私と君はどんどん親しくなっていった。『別に教えなくても良いか』という当初の理由は、『教えたら君が苦しむ』んじゃないかって理由に変わっていった」
「……」
「騙すとか、そういう理由では無かったの。でも、もっと早いうちに言うべきだったね。……ごめん」
「いつ、転校するの」
「九月中には」
「どこの高校?」
彼女は高校名を告げる。
僕と今の彼女が在籍する学校よりも、更にレベルが高くて、ブランドのあるお嬢様学校。
僕の高校も結構名のある場所だったけど、それより数段実力のある、エリート校だった。
「凄いじゃないか。まあ、白石さん位学力のある子ならそれくらいの場所に行くのは当然だよ。うん」
「駄目元で受けたんだけどね……神様が味方してくれたみたいなんだ」
「白石さんの実力だよ。きっと。合格おめでとう。親しい人が高みに登ると、こっちまで嬉しくなっちゃうな」
……祝うのはあまりにも簡単だった。
笑ってしまうくらい。
なぜなら、思っていたことと正反対の感情を出せばいいんだから。
行かないで欲しいと言うのはもっと簡単のはずだった。
でも、そのことを僕は我慢する。
「ごめん。寂しいよね」
「寂しいけど、仕事の都合なら仕方ないよ。僕も子供じゃないし、そのくらいの事情は分かるし」
僕は子供だった。
「交通費とか受験勉強とかあるし、倉部くんに気軽に出会う……ってのは難しいけどね……でも、都内に出てきた時は偶然街中で遭遇するかも」
「その時はカフェで何か奢ったりするよ。僕のこと、忘れないでよ?」
「忘れないよ。……特別な人だし。馴れ初めはちょっとアレだけど」
「ははは。……ホントごめん」
「まあ、君と関係持てて本当に良かったと思うよ。エッチなことも含めて」
「もしかして、今日セックスに誘ったのは……」
「まあ……ね。君のことを、刻んで欲しかったんだ。私が転校することを言った後じゃ、そういう気分にならなかったかも知れないし」
「僕は猿だから、構わずヤってたかも」
「倉部くんらしいね。でも、君は優しいから、本気で私を襲うとかはしない人だから」
彼女にアプローチをかけていなければ、こんなに苛まれることなどなかったはずなのに。
赤の他人の同級生が、いつの間にかいなくなるだけだったのに。
なぜ僕は、白石さんと関係を開拓していってしまったんだろう。
「そうだ、白石さん。お別れなら、何か思い出作っておかない?」
「思い出? 良いね」
「八月の末頃に、花火大会があるのは知ってる? そこに一緒に行こうよ」
「気が利くね。私も行きたいな。浴衣、用意しておこう」
「浴衣姿、楽しみにしてるよ」
「倉部くんも浴衣着るの?」
「僕は持ってないんだよなぁ」
別れをより辛くするだけなのに、僕はそんな約束をしてしまう。
胸の奥から痛みを感じた。痛いのが分かった。
でも、そんな痛みを彼女に悟られないように僕は振舞う。
自分が僕のことを悲しませていると思われたくなかったから。
「まあ、お別れの時が来ちゃうってことを教えたかった。もっと早く言ってればよかったね。……ごめんね」
「気にしてないって言ったら嘘になっちゃうかな。千葉に行っても元気で」
「今すぐ消えちゃう訳じゃないんだからまだ言わなくてもいいよ。ま、向こうに行くまでの間に仲良く色々思い出作ろうよ。喧嘩別れとか嫌だからね?」
「……うん」
「長話になっちゃったね。そろそろ切るね。夜遅くごめん。いい加減言わなくちゃって思ったんだ」
「急で驚いたけど、妊娠したとかそういうのじゃなくてよかったよ」
「あははっ。ちょっと出されちゃったし、ホントにおめでたになるかもね。笑いごとじゃないけど」
「もしもの時は責任取るよ」
「簡単に言うなぁ。私みたいな子の弱みをまた握ったとしても、手出しちゃ駄目だからね? 本当に妊娠させかねないし」
「酷い言い様」
「じゃ、電話切るね。お休み」
「うん。……お休みなさい」
通話が終わる。
僕はスマホをベッドの上に置くと、その横に腰掛けた。
白石さんが、いなくなる。
その実感が水を注いだように流れ込んできて、仄暗い気持ちが澱のように積もっていく。
落ち着けよ倉部祐樹。
白石さんが死んだわけじゃない。不治の病に罹ったわけじゃない。
首都圏ならその気になれば再会出来るし、転校するまでも時間がある。
「大丈夫。大丈夫だから……」
そう自分に言い聞かせる。
……何も知らなければ。彼女と関係を持つことをしなければ、こんなに辛い気持ちにはならなくて済んだのに。
セックスの相手がいなくなるから悲しいのだろうかと思ったけど、どうにもそれは違うようだった。
肉体の繋がりも確かに大きな比率を占めていたけど、僕の脳裏を過ぎるのはそれ以外の記憶。
彼女とキスをした時。
彼女と手を繋いだ時。
彼女とショッピングモールでデートをした時。
彼女とプールに行った時。
研ぎ澄ました鋭さを持っているかのようだった白石さんが、僕に対して心を開いてくれたのが嬉しくて、僕も彼女を楽しませてあげたくて。
馴れ初めが人に言えない結びつき方だったとしても、それでも彼女は僕にとってかけがえの無い存在になっていて。
勉強して、気を紛らわせよう。
僕はベッドから立ち上がると、机の方へと歩く。
窓の傍を通りかかった時、カーテンを閉めていなかったことに気が付いた。
それを閉めるために窓に向き直る。
夜の闇が透き通るガラス窓に、僕の顔が映る。
そこで僕は、自分が泣いていたことに初めて気が付いた。
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