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にどめの春

ただ穏やかに

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 アルが突然騎士を辞してしまった。


 アルは北方に領地を持つ子爵の三男なのだが、急ぎ領地に帰らなければならない事情ができたと王都を去った。騎士団長に辞意を伝えると直ぐに出立するという慌ただしさで、私は一目会うことすらも敵わなかった。そして、アルの矜持の為にどんな事情があったのかは詮索はしないでやってほしいと騎士団長に言われ、黙って頷くしかなかった。


 新しい専属護衛騎士のビックスとエリアスはどちらもベテランだ。多分凄く偉い人だ。部下達の指導でも忙しいのに私のような平民上がりの護衛などして頂きホントに申し訳ない。ビックスには19歳、エリアスには17歳の私と同じ年頃のお嬢さんがいるという。どちらのお嬢さんも婚約中で嬉しいやら寂しいやらのお父さん達だ。アルは私の癒しだったけれど、このお父さん達もニコニコと優しくて一緒にいるとほっこりさせてくれる。大好きだったアルに会えない寂しさばかりではなく、胸に燻る漠然とした不安を随分和らげて貰った。そう、ニクスの事だ。


 不思議な事にニクスを知っている人は誰もいなかった。ケネスお義兄様には何を言われたかを含めて全部伝えたのだけれど、気にせずにもう忘れてしまいなさいと言われただけだ。つまりニクスには深入りするなという意味だろう。

 ニクスに何を言われようと到底あり得ない話なのに、あの予言じみた言い方は心の中に根を張ったように居座り、私は訳もなく不安になった。それでもニクスが言った通り、彼はもう私の前に姿を表すことは無かったのだけれど。


 離宮は静けさを取り戻していた。子猫や子ども達の前ではにこやかで優しくて、冷たさも刺々しさも何処にもなかった殿下だったけれど、そんな魔法は解けてしまったらしい。せっかく私が視線を合わせるようにしたのに、何故か今度は殿下に目を反らされる。仕返しされているみたいで凄く不愉快だった。


 冬も深まりもうすぐ新しい年を迎える。前世を含めてもこんなに色々な事が次々と降りかかって来る年は無かったが、ここ数日は何が起こるでもない静かな静かな日々が続いていた。そしてそんな日々を過ごしながら年を越すのだと……


 ただ穏やかに新しい年を迎えるはずだと、私はそう信じていた。





 突然理由も告げられぬまま離宮に呼び出され、エントランスで慌ただしく開けられた馬車のドアに向って一人の侍従が駆け寄ってくる。その蒼白な顔が目に入った瞬間、何か大変な事が起きてしまったのだと直感した。


 「ジェフリー様に毒が盛られました」


 馬車から降り切らぬうちに掛けられた言葉に雷に打たれたように動けなくなり、ただ目を見開いて侍従を見つめた。いつの間にかビックスに右腕を支えられている。無意識によろけたのかも知れない。私は目をギュッと閉じて大きく呼吸をし、それからしっかりと目を開けると緊張で声が震えぬようにできるだけ低い声を出した。


 「容態は?」

 「殿下が直ぐに処置をされ、一命を取り留めました。今は本宮の医務室にいらっしゃいます」


 止まっていた心臓が動き出したかのように忘れていた激しい鼓動を感じた。良かった、生きていてくれた……それなのにどうしてこの人はこんなに動揺しているのだろう?


 「ですが殿下が……」

 「殿下?殿下はご無事なのでしょう?」

 「……殿下がご乱心でございます」


 私は無言のままビックスの手を振り払って走り出した。




 執務室の前には何人もの侍従と補佐官と騎士が立っていた。三階まで駆け上がったせいで肩を上下させて息をしながら、一番手前の侍従の腕に縋るように掴まり顔を見上げると、彼は私を宥めるようにぎこちない笑顔を浮かべた。


 「殿下がされた処置が的確でしたのでジェフリー様の事はご心配なさらずとも結構でございます。ですが殿下が……」

 「どうなさったのです?」


 侍従は俯いて首を振った。弾かれたように執務室のドアに近付くとスッと前を塞がれる。騎士団長だった。


 「女性がご覧になるには……殿下は処置の際に大量に血液を浴びておられるのです」


 団長は不安そうに眉尻を下げて私を見下ろしたが、私は口の端をキュッとあげて笑ってみせた。


 「平気です。寧ろ女こそ見慣れているものですよ」


 そのままそっと団長を避けて進みゆっくりとドアを開ける。


 目に入った殿下は部屋の奥の床に片足を投げ出して座っていた。もう片方の足は膝を立ててその膝に肘をだらりと乗せ、頭は壁にもたれ掛けられている。視線は前を向いていたが何も捉えていないようにボンヤリと虚で、その陶器のように滑らかな頬も春の光のような金色の髪も、身体中が浴びた血液で赤黒くで染まっていた。


 「入るな。誰も来るな」


 殿下は小さな掠れた声で呟くようにそう言った。団長が私の耳元に顔を寄せ囁くように耳打ちする。


 「……激しく取り乱されるので近付く事ができないのです」


 私は心配そうにみつめている団長に頷いてからドアを大きく開けて足を踏み入れた。

 殿下の顔が……別人のように目を吊り上げた血だらけの顔がこちらを向き私の姿を捉えて目を瞠る。それからカクリと力無くうなだれた。


 「君か……」

 「えぇ、なかなか呼んで下さらないのですもの、待ちくたびれて押しかけて来ましたわ」


 殿下はうなだれたままフフっと弱々しい笑い声を上げた。


 「君の口からそんな可愛らしい言葉を聞くとは思わなかったね」

 「あら?……こういうのをお望みだったのかしら?」

 「たまには悪くないなと今思った」

 「殿下こそ、好意的な反応をして下さって嬉しいわ」


 私はゆっくりと部屋を横切り殿下に近寄って行った。ふいと私を見上げた殿下の顔にはさっきまでの釣り上がった眦はもう消え失せて、代わりに寂しそうな微笑みが浮かんでいた。


 「随分冷静だね。……君は血塗れの僕が怖くないの?」


 私静かに殿下の横に腰を下ろし、首を傾げて碧い瞳を覗き数回瞬いた。


 「血塗れだろうとなかろうと、殿下が怖いと思った事なんて一度もありませんわ。強いて言えばとんでもなく意地悪だなとは思っておりましたけれど」

 「僕は君に嫌われていた?」

 「もちろんです!いつもご機嫌が悪くて難しいお顔で黙っていらっしゃるんですから、嫌われるに決まっているではないですか。初めてこちらに呼ばれた時なんて跪いているわたくしを眺めているだけで本当に酷かったわ。殿下はする機会が無いからお分かりにならないんでしょうが、あれね、なかなか辛いのです。膝が痛いだけじゃなくて、お腹にも背中にも力を入れておかないと姿勢を保てないのです。今度やってご覧になれば良いのだわ」


 なかなか本気で殿下を睨みつけたのだが殿下の目は楽しそうに細められている。子ども達がいた頃も、子ども達が媒介で相変わらず殿下と直接言葉を交わすことはほとんどなかったのだけれど、それでもこの笑顔だけは向けてくれていた。子ども達が奇想天外な事を言ったり可愛らしい失敗をしたり……そんな時殿下は子ども達に笑いかけ、その視線は私にも送られたのだ。ほんの少し前の事なのに何だか無性に懐かしく感じる。


 「あの日の君は誰よりも美しかった。それが僕には信じられなくて、だからこのまま黙っていたらボロを出すのではないかと思ったんだ。それなのに君はふらつきもせずいつまでも美しいままだった。それで気が付いたんだ、君はとんでもない負けず嫌いだって。それならば僕も負ける気は無い、そう思ったんだけれどとうとう耐え切れなくなった。だからあの勝負は君の勝ちだ」

 「わたくしに負けたのが悔しくて捨て台詞を?上手く化けたって仰ったのですよ」

 「まあそんなところでもあるし、妙に納得したせいでもあったな。これだけの根性の持ち主なら厳しい淑女教育に音を上げなかったのも尤もだとね」


 私はプイっと顔を背け、不満たっぷりに口を尖らせた。


 「だったら感心して下されば良かったのに。努力を労うのはとっても重要なんです。そうしたらわたくしだってきっと、殿下に媚びの一つも売っていましたもの。可愛いげが無かったのは殿下がいけないのだわ」

 「君は売り物になる媚びなんて持ち合わせていないだろう?」

 「顧客を選んでいるだけです」


 殿下は声を上げて笑った。意地悪そうに私を眺めながら止めようにもなかなか止まらぬ笑いに苦しそうに肩を揺らしている。私はじっとりした冷たい目線を送り不服な声を出した。


 「王子様方にはあんなに優しく笑いかけられるのですから、わたくしにも是非お願いできません?今ご自分がどんなに意地悪な顔をなさっているかおわかりかしら?」

 「君にも随分血が通ったようだね。目も合わせずに黙っているだけで人形のようだったけれど、こうやって僕を睨めば辛辣な口も聞くようになるなんて驚きだよ。でも……でも、そうさせたのは……僕だ」


 あの瞳が真っ直ぐに私の目を見つめている。いつか私に向けられた、ガラス玉のような光を失った空虚な碧い瞳……殿下の青白い顔からは一切の表情が消えていた。


 「君は人形なんかじゃない。生き生きとした水面に揺れる光のような君を、残酷にも何も言わず僕は小さな箱に入れ蓋をしていたんだ」


 俯いた殿下かが首を振るとさらさらと髪が揺れる音がする。そうして額にかかった毛をかき上げた手で、殿下はそのまま踞るように頭を抱えてしまった。


 「ジェフリーが……血を吐いて悶え苦しみながら処置をする僕を押し止め縋り付いて……あたかも自分の命と引き換えにするように言った。君は全部知っている、知っていながら僕らの贖罪に巻き込まれ続ける事を望んだ。もう君を自由にして欲しいと。だからねピピル……破談にしよう。君には側室候補から降りてもらう」


 殿下の疲れたように掠れた声がやけに遠くから聞こえた気がする。それはあの春の日から私がずっと求めていた言葉のはずなのに、何故か私の心をギリギリと鋭く締め上げた。


 何度も口を開きかけるが声にすることができず喘ぐような息の音だけが喉の奥から漏れていた。


 「嫌です」


 漸く言葉を絞り出した私を見上げ、殿下は相変わらず表情が消えた顔でじっと見つめていた。



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