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アンネリーゼ
神の御前
しおりを挟む結局説明は私一人が聞いた。聖堂にいらした司祭様が泣いている私を見て物凄い勘違いをなさったのだ。
そもそも妻のある身で他の女性に心を奪われたリードは教会から苦々しく思われているのだが、司祭様はリードに訳を尋ねる事もなく『神の御前ですぞ!』と厳しい声で窘めた。夫の不貞に苦しむ私が泣いているんだもの、コイツめ、また妃殿下を泣かせたなって思われても仕方がないわよね。
冤罪とはいえ疚しい事が無いわけではないリードは明確な否定もできず、気まずくなったのか『用事を思い出した』という見えすいた言い訳をして逃げ出した。挙式の説明だというのに一人残された私は司祭様と助祭様から大いに同情され、棚ぼた的に支持者を得られて内心ホクホクだ。
説明を終えた司祭様と助祭様は聖堂の外まで見送りに来てくれた。そして司祭様は庭園に面したそこそこ人通りのあるその場所で徐に私の頭に掌を乗せ、唇を噛んで苦悶の表情を浮かべている。
はて?どうなさった?
「神は何故妃殿下に試練をお与えになり給うたのでしょう?」
「…………?!」
えっと、それを説くのが司祭様のお仕事では無いでしょうか?何とも答えようがない私に司祭様は首を振り、いつもと同じ穏やかな笑顔を向けた。
「どんなに虐げられようとも殿下の伴侶は妃殿下お一人なのです。挫けてはなりませんよ」
このただならぬ雰囲気にあちらこちらから視線が飛んでくるのをヒシヒシと感じますっ!これはチャンスのビッグウェーブ到来なのでは?
「司祭様……」
弱々しーく儚ーく、それでも健気に私は微笑んだ。
「人の心は移ろってしまうものなのですわ。それでもわたくしは……どこまでも堪え忍ばなければならないのですね。どんなにお慕いしても、決してこちらを向いてくださらないと解っているのに……」
「…………」
今度は司祭様の方が言葉を無くしていた。孫娘みたいに私を可愛がってくれている司祭様だもん、これぞ忸怩たる思いってヤツで、周囲で様子を伺っていた皆様は何を話しているかまではわからなくても侮蔑に苦しむ王太子妃の悲壮さは大いに伝わったらしい。
『オウタイシヒハ シジシャヲテニイレタ』って文字が頭に浮かび、ますますホクホクで浮かれる気持ちを必死に抑えつけながら私は司祭様達にお礼を言い迎えに来たリリアと薔薇園に向かった。ブーケに使う白薔薇を確認しなければならなかったから戻りがてら見に行く事にしていたのだ。
そこで何が待ち構えているかなんて知りもせずに。
「一緒に遊ぼう!」
突然目の前に飛び出して来た女の子が私の手首を握り走り出した。
『誰?あなたは誰?どこに行くの?』
聞きたいのに声が出ず立ち止まりたいのに手を引くその小さな手に抗う事ができない。そして池に掛かる橋の中央迄きたその時に女の子は振り向きゆっくりと笑顔を浮かべた。口の端が吊り上がり頬が上がると同時に目尻が下がる。それは満面の笑みと言えるものだったけれど瞳だけは冷ややかなままで……
この飴色の瞳は、エレナ様と同じ色。そう気が付いた瞬間小さな手が私を引き寄せて、池に向かって力一杯背中を押した。
ガラスの天井のように陽の光に照らされて水面が輝いているのが見える。すぐ手の届く所にある筈なのに私はただ揺らぐ光を眺める事しかできない。身体が海藻みたいにフニャフニャで力が入らないのだ。立ち上っていく泡は水に溶けた私の身体だろうか?ううん、違う。これは、これは私の額から溶け出している私の中の私。魂とか心とか意識とか、多分そう言うもの。
水の中から浮かび上がるとその『私』は泡から抜け出して漂いながら空へと登って行く。あぁ、きっと空気の娘の所に行くって言うあの場面だわ。それなら『私』は暑い国に飛んで行ってそよ風を送り花の香りを振り撒いて物を爽やかにする仕事をするのかな?
『リセ!』
身体に巻き付いた紐を引っ張られるような感覚と共に『私』は誰かに呼ばれ我に帰った。声のする方に視線を向けると池の畔で全身ずぶ濡れになった私を抱えているアルブレヒト様が大きな声で呼び掛けている。
あぁ、やっぱり私の身体は溶けずに残っていたんだ。『私』は呼ばれるままに自分の身体に近付いてアルブレヒト様の肩に手を触れた。
「リセ、いるな?」
『ここにいるわ!』
答える『私』と視線が合わないところを見ると、アルブレヒト様は『私』の気配を感じているだけのようだ。
「いいか?リセの身体は溺れて気を失っているだけだ。それにリセの魂はまだしっかりと繋がっている、ほら」
アルブレヒト様が手元をくいっと傾けると『私』が風船みたいにひゅうっと引き寄せられた。なんか激しく不愉快なんだけど!
これ、幽体離脱ってヤツよね?どうやって戻るんだろう?取りあえずは力ずく?
『私』は私の上に乗って思いっきり後ろに倒れてみたがバビョーンと跳ね返される。な、何なの、このマシュマロみたいな触感は!マシュマロボディってホントはこれのことじゃないの?
それならばとそろっと寝そべってみたけれどほわんほわんするばかりでちっとも身体に入っていけない。もしかしてとおでこにごつんとしてみてもおでこもやっぱりマシュマロ。どうしましょう!仕事が沢山残っているのよ!
「あれこれ試しているだろうけど……それじゃ戻れないぞ」
アルブレヒト様はまるで見えているみたいに話し掛けている。『私』じゃない方を見ながらだけどね。見えてなくてもやりそうな事は目に浮かぶんだね。ふんだ!どうせ単純ですよーだ!
「刺激を与えて目を覚まそう。そうすれば引き寄せられて元に戻る。今ならエレナの記憶を捕まえられる。『私がやりました』って書いてあるようなもんだからな。そこに行けばなにかしら刺激になるような事が見られるだろう」
今の『私』ならエレナ様の痕跡を辿って何かを探れるってことね。
ぐったりしている私の足元に黒い靄が渦巻いているのが目に入った。
「心配するな。こいつは」
そう言いながら紐をクイクイするのやめて欲しい。不愉快だ。でも絶対にそこのところも解っていながらやっているんだ、この永遠の悪戯坊主は!
「決して切れないし絡まりもしない」
『私』は靄を見つめた。悪意がとぐろを巻いているみたいな黒い黒い靄。恐る恐る指を差し出すと、『私』はその靄の渦に一瞬で呑み込まれていった。
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