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後日談
ふきげんなかみさま 1
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「すみませーん、注文いいですかー?」
「はーい! 少々お待ちくださーい!」
日曜のお昼どき。
ありがたいことに店内のテーブルは満席で、私は朝から休む暇なく厨房に立ち続けている。木製の器にお味噌汁を注ぎ、お茶碗には炊きたてのごはんをよそい、日替わり定食のメインである鶏の唐揚げを盛り付ける。そして仕上げに大根おろしと自家製の和風だれをかければ出来上がりだ。
「千歳、これ窓側のお客様にお願い! それから一番端のお客様の注文受けて!」
「はいはい。もう、本当に人使いが荒いんだから」
「文句言わない!」
お客さんを待たせてはいけない、と忙しく調理している私とは対照的に、千歳はいつもののんびりとした調子で料理の乗ったトレーを手に取る。そして窓際の席に座っている女性二人組のテーブルにそれを置くと、「待たせてごめんね」と砕けた口調で言った。
「はい、日替わり定食二つね。あ、お冷や注ぎ足そうか?」
「はっ……はい! お、お願いします!」
「うん、分かった。あ、でもその前にあっちの子の注文聞かなきゃいけないんだ。ちょっと待っててね、その後また来るから」
「はいっ、待ってますっ!」
狭い店内だから、厨房に立っていても千歳とお客さんの会話がはっきりと聞こえてくる。千歳には接客用語をこれでもかと教え込んだはずなのに、気付けばいつも通りの口調に戻ってしまっているのだ。でも、今のところそれについてお客さんからクレームが来たことは一度もない。それどころか、その人懐こさと見た目の綺麗さのせいかお客さん受けがとても良い。特に、さっきのような若い女性客には大人気なのである。
「おーい、ひかり? 日替わりもう一つ追加ね」
「えっ? あ、うん! 了解!」
「ふふっ、今ぼーっとしてたでしょう。だめだよ、お仕事中なんだから」
「……千歳にだけは言われたくないんだけど。ほら、お冷や注ぎに行くんでしょ? 早く早く!」
「あはは、手厳しいなぁ」
楽しそうに水の入ったピッチャーを手にした千歳は、先ほどの女性客のいるテーブルに向かった。待ってましたと言わんばかりの笑顔で千歳を見つめる若い女の子を見ていると少し心がざわつくけれど、こういったことにももう慣れたものだ。
「千歳くん、大人気だねぇ。いいの? ひかりちゃん。彼氏があんな風にモテてるの、黙って見ててさぁ」
冷やかすように話しかけてきたのは、カウンター席でランチを食べている常連のおじさんだ。家もこの近所だから、私のことは生まれた時から知っている。
「いいの、って言われても……良いことなんじゃないですか? 接客業なんですから」
「ははは、強がっちゃって! でも本当は心配だろ? よく来る人はひかりちゃんと千歳くんが恋仲だって知ってるけど、あの子達はきっと知らないだろうし。ほら、もしかしたら帰り際にメアドなんか渡されちゃったりして!」
「メアドって……おじさん、古いなぁ」
おじさんのお節介な言葉を笑って受け流したけれど、私だって平気なわけではない。でも、接客業としてはお客さんに好かれるのは良いことだし、千歳がいることでリピーターになってくれる人がいるのも有り難いのだ。まあ、本音を言えば私の料理を目当てに来てくれるのが一番嬉しいんだけど。
「はい、これおつり。ありがとう、また来てね」
ガシャン、とレジカウンターを閉める音がしてそちらを見ると、お客さんの一人が会計を済ませて店を出るところだった。毎週末この時間に来てくれる女性のお客さんだ。
千歳が相変わらずの砕けた口調でお決まりの文句を言うと、その女性は何やら一瞬戸惑うような仕草を見せて、それからポケットから小さな紙片を取り出した。
「あ、あの、これ! 私の連絡先なんですけど、受け取ってください!」
思い切った様子でそう言った彼女の一挙一動を、私は思わず手を止めて見つめてしまっていた。すぐ側で常連のおじさんが「ほら見ろ」とでも言いたげな視線を私に送っていることに気付いて慌てて調理に戻ったけれど、耳だけはしっかり彼女と千歳の会話に向いたままだ。
「え? 連絡先?」
「は、はい……あの、気が向いたらでいいので、よかったら連絡してください……」
恥ずかしそうに俯いてしまった彼女の姿を見ていたら、中学時代に同じように憧れていた先輩へ連絡先を渡した時のことを思い出してしまった。自分の恋人に向かってはっきりと好意を向けられているのは少し複雑だが、彼女の様子を見る限り純粋な気持ちで千歳を好いているのだと分かる。まだ二十歳そこそこに見えるその女の子に敵意を剥き出しにするほど子どもではないし、千歳がうまくその恋心を躱してくれるよう願った……のだが。
「どうして? 僕、きみに連絡するような用件は無いけど」
「えっ……」
「それに連絡しようにも、すまほっていうのを持ってないんだ。あ、ひかりのを借りればできるかな」
「え……あ、あの、えっと」
「まあ、受け取るだけでいいなら受け取るよ。ああそうだ、臨時休業でもするようなことがあったら連絡しようか? 僕は機械が苦手だから、そういうのはひかりに頼むけど。それでいい?」
「え、あ……は、はい……?」
たぶん彼女からしてみれば全く良くないのだろうが、千歳の勢いに負けて頷いてしまっている。そして千歳は連絡先の書かれた紙片を受け取ると、もう一度「じゃあ、また来てね」と悪意の無い笑顔で手を振った。それにぎこちない頷きを返して、彼女は店を出て行く。
「ねえ、ひかり。今の子が臨時休業のときはここに連絡してほしいって。店の電話帳に貼っておこうか?」
「あー……うん。とりあえず、そうしとこうか……」
「うん、分かった」
そう言って千歳は、レジカウンターの脇に置いてある電話帳を取り出して先ほど受け取った紙をぺたりと貼り付けた。きっと、というか絶対にあの女の子はこんな展開を望んだわけではないと思うが、千歳はさっぱり気が付いていないようだ。
「……なんだ、少しはよろめくかと思ったのに。あれか、千歳くんにはひかりちゃんしか見えてないってことか。お熱いねぇ」
「え? どういうこと?」
カウンター席で一部始終を見ていたおじさんが冷やかしてきたけれど、千歳は不思議そうに首を傾げるだけだ。そしてまたすぐに他のお客さんが席を立ったから、彼は再びレジカウンターの方へと戻っていく。その横顔を眺めながら、私は安心していいのか焦ればいいのか良く分からなくなった。
千歳は、人の気持ちというものに鈍感だ。
神として生まれ長い年月を過ごしてきたのだから、それは至極当然のことである。普段一緒に過ごしていても、千歳との意識の違いを感じることがよくあるのだ。
例えば、一緒に映画やドラマを見ていると「この子はどうして怒ってるの?」「今の台詞はどういう意味?」などと、逐一私に説明を求めてくるのだ。千歳いわく、恋愛ものでよくあるちょっとしたすれ違いや焼きもち、それに見栄や強がりといった人間特有の感情が理解できないそうだ。
あとはつい昨日のことだが、新しい化粧品を試していた私に向かって「そんなに顔を白く塗りたくって、明日は祭りでもあるの?」なんて期待に満ちた顔で聞いてくるものだから、怒るより前に脱力してしまった。無邪気なのだとも言えるが、言い方を変えればデリカシーが無いのだ。
普段からそんな調子だから、お客さんからの熱の籠もった視線にも千歳は気付いていないのだろう。かと言って、千歳が他の女の子に好意を寄せられている場面を間近で見ているのは恋人として面白くない。でも、こんな感情を千歳に理解してもらうのは難しそうだから、現状は変わらずというわけである。
「さて、俺もそろそろ帰るかな。母ちゃんに庭の草刈りしとけって言われてたんだ」
「ふふっ、それは奥さんが帰ってくる前に早くやっておかないと」
「その通りだ! それじゃ、お代ここに置いとくから。ごちそうさん!」
食後のコーヒーを飲み干して、おじさんも店を後にした。ランチのラストオーダーである午後二時を過ぎたし、満席だった店内もあとはコーヒーや紅茶を飲むお客さんだけになっている。先ほど千歳に熱い視線を送っていた女の子たちも、いつの間にかお会計を済ませて帰って行ったようだ。
「ひと段落したかな。お皿洗うよ」
「うん、お願い」
接客をしていた千歳が店内を見渡して、呼ばれる様子がないことを確認してから厨房に入ってきた。慣れた手つきで流し台にあったスポンジに洗剤をつけて、積まれている食器を洗い始める。
千歳が帰ってくるまではこれらの仕事を全部私一人でこなしていたから、彼が来てくれておおいに助かっている。それにやっぱり、ずっと近くに愛しい人がいてくれるのはこの上なく嬉しいものだ。
「うん? なぁに、ひかり。にやにやして」
「ううん、何でも。ありがたいなぁって思っただけ」
「僕のこと? まあ、最近やっとお皿割ったり注文間違えたりしなくなったしねぇ」
「そうそう。あと、レジの打ち間違えも減ったよね」
千歳にレジの扱い方を教えたばかりの頃、どこをどういじったのかとんでもなく長いレシートが出てきた時のことを思い出した。あの時は二人であたふたしていたが、それも今となっては笑い話だ。
失敗談を思い出しながら二人で笑っていると、ギイッと店の扉が開く音がした。いらっしゃいませ、と声をかけると、すぐに千歳が手を洗ってから対応してくれる。
「いらっしゃい。ごめんね、お昼の定食は終わっちゃったんだ。今の時間は飲み物と茶菓子なら出せるんだけど」
入ってきたお客さんをちらりと見ると、私とそう年齢が変わらなそうな男性だった。その男性は千歳の言葉を聞いて頷くと、先ほどまで常連のおじさんが座っていたカウンター席を選んでそこに腰かける。
「はい、これ。決まったら呼んでね」
「あ、はい」
千歳が飲み物とデザートの書かれたメニューを渡すと、その男性のお客さんはすぐにホットコーヒーを注文した。カップを取り出そうと食器棚を開けて中を覗いていると、突然その人が私に向かって話しかけてきた。
「なあ。清里ひかり……だよな?」
「……え?」
名前を呼ばれて顔を上げると、その男性はほっとしたように笑った。
「やっぱりそうだ! 久しぶりだな、元気にしてたか!? お前んちの味噌蔵の隣だったからまさかと思ったけど、ひかりの店だったのか!」
「え、え? あの……どちら様でしたっけ……?」
「なんだよ、分かんねえのか? 広瀬だよ、広瀬海! 幼稚園で一緒だった!」
「えっ……海くん!?」
その名前を聞いた途端、忘れていた記憶が一気に思い出される。幼稚園の頃、同じクラスでよく遊んでいた男の子だったのだ。
「えー、全然分かんなかった! なんで!? だって、途中で遠くに引っ越しちゃったよね!?」
「ああ、親父の転勤でな! でも来月で親父が定年だからさ、またこっちに戻ってきて暮らすことになったんだ! 俺もちょうど転職考えてたから、ついでに帰ってきた!」
「へえ、そうだったんだ! それにしても海くん、背ぇ伸びたねー!」
記憶の中にいる海くんと言えば、やんちゃなくせに泣き虫で、よく幼稚園の先生に叱られていた男の子だ。同じ通園バスで通っていたから特に仲が良くて、年長さんの頃はいつも一緒に遊んでいたような気がする。
淹れたてのホットコーヒーをカウンター席に置いてから、私は隣の椅子に座って懐かしい思い出を話し始めた。
「年長さんのとき引っ越しちゃったから、二十五年ぶりってこと? 懐かしいなぁ、よくうちに遊びに来てたよね!」
「あー、そうだな! お前んちいっつも味噌臭いなって言ったら、すっげぇ怒られたの覚えてるよ」
「そりゃ怒るよ! そういえば、海くんにはよく泣かされたなぁ」
仲が良かった反面、彼とはしょっちゅう些細なことでケンカをしていたことを思い出した。うちのお母さんなんかは、「あんたたち、ケンカするくせにいつも一緒に遊ぶのねぇ」なんて呆れていたほどだ。よく分からないけれど、子どもなりに波長の合う間柄だったのだろう。
「こっちに戻ってきたってことは、また前のお家に住むの?」
「ああ、あそこにはじいちゃんもいるしな! いつでも来てくれよ、うちの両親もひかりに会えれば喜ぶだろうし」
「うん、行く行く!」
彼のお父さんお母さんにはよくお世話になったし、せっかくこっちに戻ってきたのだからゆっくり話がしたい。この辺りの友達はほとんど他の土地に出て行ってしまっているから、海くんが戻ってきてくれたのは私にとっても嬉しいことだ。
「あ、俺そろそろ行かないと。親父たちと新しい家具買いに行くんだ」
「なんだ、もう行っちゃうの?」
「悪いな! また来るよ、今度は家族みんなで!」
「うん! お待ちしております」
ふざけながらそう言うと、彼も明るく笑った。それからコーヒーのお代を支払うと、おもむろにカバンの中を漁って一枚の名刺を取り出す。
「これ、俺の名刺! 今度からここで働くんだ」
「へえ……もらってもいいの?」
「ああ、もちろん! そうだ、裏に俺のスマホの電話番号も書いとくよ。暇なときはこっちに連絡してくれ」
「うん、分かった! ありがと」
電話番号の書かれた名刺を受け取ると、海くんは「またな」と言って店を出て行った。その名刺をポケットに仕舞ってから厨房に戻ろうとして振り向くと、目の前にはなぜか千歳が仁王立ちしていた。
「わっ! び、びっくりした……どうしたの?」
厨房の入り口を塞ぐように立つ千歳は、珍しく真剣な顔で私を見つめている。どうしたのかと首を傾げると、千歳は低く唸るような声で言った。
「……ねえ、ひかり。今の男って」
「ああ、海くん? あのね、幼稚園の頃仲良しだった子なんだ! 家もこの近くだし、よく遊んでて」
「知ってる」
「……え? し、知ってるの? なんで……」
「ずっと見てたから」
それだけ言ったかと思うと、千歳はふいっと私から顔を背けてしまった。どうしたの、と問いかけようとしたのだが、ちょうどお客さんに呼ばれて千歳はそちらの方に行ってしまう。
結局、なんだかんだでその日はお客さんが途切れることなく夜になってしまい、どこか様子のおかしい千歳に理由を尋ねることができなかった。
「はーい! 少々お待ちくださーい!」
日曜のお昼どき。
ありがたいことに店内のテーブルは満席で、私は朝から休む暇なく厨房に立ち続けている。木製の器にお味噌汁を注ぎ、お茶碗には炊きたてのごはんをよそい、日替わり定食のメインである鶏の唐揚げを盛り付ける。そして仕上げに大根おろしと自家製の和風だれをかければ出来上がりだ。
「千歳、これ窓側のお客様にお願い! それから一番端のお客様の注文受けて!」
「はいはい。もう、本当に人使いが荒いんだから」
「文句言わない!」
お客さんを待たせてはいけない、と忙しく調理している私とは対照的に、千歳はいつもののんびりとした調子で料理の乗ったトレーを手に取る。そして窓際の席に座っている女性二人組のテーブルにそれを置くと、「待たせてごめんね」と砕けた口調で言った。
「はい、日替わり定食二つね。あ、お冷や注ぎ足そうか?」
「はっ……はい! お、お願いします!」
「うん、分かった。あ、でもその前にあっちの子の注文聞かなきゃいけないんだ。ちょっと待っててね、その後また来るから」
「はいっ、待ってますっ!」
狭い店内だから、厨房に立っていても千歳とお客さんの会話がはっきりと聞こえてくる。千歳には接客用語をこれでもかと教え込んだはずなのに、気付けばいつも通りの口調に戻ってしまっているのだ。でも、今のところそれについてお客さんからクレームが来たことは一度もない。それどころか、その人懐こさと見た目の綺麗さのせいかお客さん受けがとても良い。特に、さっきのような若い女性客には大人気なのである。
「おーい、ひかり? 日替わりもう一つ追加ね」
「えっ? あ、うん! 了解!」
「ふふっ、今ぼーっとしてたでしょう。だめだよ、お仕事中なんだから」
「……千歳にだけは言われたくないんだけど。ほら、お冷や注ぎに行くんでしょ? 早く早く!」
「あはは、手厳しいなぁ」
楽しそうに水の入ったピッチャーを手にした千歳は、先ほどの女性客のいるテーブルに向かった。待ってましたと言わんばかりの笑顔で千歳を見つめる若い女の子を見ていると少し心がざわつくけれど、こういったことにももう慣れたものだ。
「千歳くん、大人気だねぇ。いいの? ひかりちゃん。彼氏があんな風にモテてるの、黙って見ててさぁ」
冷やかすように話しかけてきたのは、カウンター席でランチを食べている常連のおじさんだ。家もこの近所だから、私のことは生まれた時から知っている。
「いいの、って言われても……良いことなんじゃないですか? 接客業なんですから」
「ははは、強がっちゃって! でも本当は心配だろ? よく来る人はひかりちゃんと千歳くんが恋仲だって知ってるけど、あの子達はきっと知らないだろうし。ほら、もしかしたら帰り際にメアドなんか渡されちゃったりして!」
「メアドって……おじさん、古いなぁ」
おじさんのお節介な言葉を笑って受け流したけれど、私だって平気なわけではない。でも、接客業としてはお客さんに好かれるのは良いことだし、千歳がいることでリピーターになってくれる人がいるのも有り難いのだ。まあ、本音を言えば私の料理を目当てに来てくれるのが一番嬉しいんだけど。
「はい、これおつり。ありがとう、また来てね」
ガシャン、とレジカウンターを閉める音がしてそちらを見ると、お客さんの一人が会計を済ませて店を出るところだった。毎週末この時間に来てくれる女性のお客さんだ。
千歳が相変わらずの砕けた口調でお決まりの文句を言うと、その女性は何やら一瞬戸惑うような仕草を見せて、それからポケットから小さな紙片を取り出した。
「あ、あの、これ! 私の連絡先なんですけど、受け取ってください!」
思い切った様子でそう言った彼女の一挙一動を、私は思わず手を止めて見つめてしまっていた。すぐ側で常連のおじさんが「ほら見ろ」とでも言いたげな視線を私に送っていることに気付いて慌てて調理に戻ったけれど、耳だけはしっかり彼女と千歳の会話に向いたままだ。
「え? 連絡先?」
「は、はい……あの、気が向いたらでいいので、よかったら連絡してください……」
恥ずかしそうに俯いてしまった彼女の姿を見ていたら、中学時代に同じように憧れていた先輩へ連絡先を渡した時のことを思い出してしまった。自分の恋人に向かってはっきりと好意を向けられているのは少し複雑だが、彼女の様子を見る限り純粋な気持ちで千歳を好いているのだと分かる。まだ二十歳そこそこに見えるその女の子に敵意を剥き出しにするほど子どもではないし、千歳がうまくその恋心を躱してくれるよう願った……のだが。
「どうして? 僕、きみに連絡するような用件は無いけど」
「えっ……」
「それに連絡しようにも、すまほっていうのを持ってないんだ。あ、ひかりのを借りればできるかな」
「え……あ、あの、えっと」
「まあ、受け取るだけでいいなら受け取るよ。ああそうだ、臨時休業でもするようなことがあったら連絡しようか? 僕は機械が苦手だから、そういうのはひかりに頼むけど。それでいい?」
「え、あ……は、はい……?」
たぶん彼女からしてみれば全く良くないのだろうが、千歳の勢いに負けて頷いてしまっている。そして千歳は連絡先の書かれた紙片を受け取ると、もう一度「じゃあ、また来てね」と悪意の無い笑顔で手を振った。それにぎこちない頷きを返して、彼女は店を出て行く。
「ねえ、ひかり。今の子が臨時休業のときはここに連絡してほしいって。店の電話帳に貼っておこうか?」
「あー……うん。とりあえず、そうしとこうか……」
「うん、分かった」
そう言って千歳は、レジカウンターの脇に置いてある電話帳を取り出して先ほど受け取った紙をぺたりと貼り付けた。きっと、というか絶対にあの女の子はこんな展開を望んだわけではないと思うが、千歳はさっぱり気が付いていないようだ。
「……なんだ、少しはよろめくかと思ったのに。あれか、千歳くんにはひかりちゃんしか見えてないってことか。お熱いねぇ」
「え? どういうこと?」
カウンター席で一部始終を見ていたおじさんが冷やかしてきたけれど、千歳は不思議そうに首を傾げるだけだ。そしてまたすぐに他のお客さんが席を立ったから、彼は再びレジカウンターの方へと戻っていく。その横顔を眺めながら、私は安心していいのか焦ればいいのか良く分からなくなった。
千歳は、人の気持ちというものに鈍感だ。
神として生まれ長い年月を過ごしてきたのだから、それは至極当然のことである。普段一緒に過ごしていても、千歳との意識の違いを感じることがよくあるのだ。
例えば、一緒に映画やドラマを見ていると「この子はどうして怒ってるの?」「今の台詞はどういう意味?」などと、逐一私に説明を求めてくるのだ。千歳いわく、恋愛ものでよくあるちょっとしたすれ違いや焼きもち、それに見栄や強がりといった人間特有の感情が理解できないそうだ。
あとはつい昨日のことだが、新しい化粧品を試していた私に向かって「そんなに顔を白く塗りたくって、明日は祭りでもあるの?」なんて期待に満ちた顔で聞いてくるものだから、怒るより前に脱力してしまった。無邪気なのだとも言えるが、言い方を変えればデリカシーが無いのだ。
普段からそんな調子だから、お客さんからの熱の籠もった視線にも千歳は気付いていないのだろう。かと言って、千歳が他の女の子に好意を寄せられている場面を間近で見ているのは恋人として面白くない。でも、こんな感情を千歳に理解してもらうのは難しそうだから、現状は変わらずというわけである。
「さて、俺もそろそろ帰るかな。母ちゃんに庭の草刈りしとけって言われてたんだ」
「ふふっ、それは奥さんが帰ってくる前に早くやっておかないと」
「その通りだ! それじゃ、お代ここに置いとくから。ごちそうさん!」
食後のコーヒーを飲み干して、おじさんも店を後にした。ランチのラストオーダーである午後二時を過ぎたし、満席だった店内もあとはコーヒーや紅茶を飲むお客さんだけになっている。先ほど千歳に熱い視線を送っていた女の子たちも、いつの間にかお会計を済ませて帰って行ったようだ。
「ひと段落したかな。お皿洗うよ」
「うん、お願い」
接客をしていた千歳が店内を見渡して、呼ばれる様子がないことを確認してから厨房に入ってきた。慣れた手つきで流し台にあったスポンジに洗剤をつけて、積まれている食器を洗い始める。
千歳が帰ってくるまではこれらの仕事を全部私一人でこなしていたから、彼が来てくれておおいに助かっている。それにやっぱり、ずっと近くに愛しい人がいてくれるのはこの上なく嬉しいものだ。
「うん? なぁに、ひかり。にやにやして」
「ううん、何でも。ありがたいなぁって思っただけ」
「僕のこと? まあ、最近やっとお皿割ったり注文間違えたりしなくなったしねぇ」
「そうそう。あと、レジの打ち間違えも減ったよね」
千歳にレジの扱い方を教えたばかりの頃、どこをどういじったのかとんでもなく長いレシートが出てきた時のことを思い出した。あの時は二人であたふたしていたが、それも今となっては笑い話だ。
失敗談を思い出しながら二人で笑っていると、ギイッと店の扉が開く音がした。いらっしゃいませ、と声をかけると、すぐに千歳が手を洗ってから対応してくれる。
「いらっしゃい。ごめんね、お昼の定食は終わっちゃったんだ。今の時間は飲み物と茶菓子なら出せるんだけど」
入ってきたお客さんをちらりと見ると、私とそう年齢が変わらなそうな男性だった。その男性は千歳の言葉を聞いて頷くと、先ほどまで常連のおじさんが座っていたカウンター席を選んでそこに腰かける。
「はい、これ。決まったら呼んでね」
「あ、はい」
千歳が飲み物とデザートの書かれたメニューを渡すと、その男性のお客さんはすぐにホットコーヒーを注文した。カップを取り出そうと食器棚を開けて中を覗いていると、突然その人が私に向かって話しかけてきた。
「なあ。清里ひかり……だよな?」
「……え?」
名前を呼ばれて顔を上げると、その男性はほっとしたように笑った。
「やっぱりそうだ! 久しぶりだな、元気にしてたか!? お前んちの味噌蔵の隣だったからまさかと思ったけど、ひかりの店だったのか!」
「え、え? あの……どちら様でしたっけ……?」
「なんだよ、分かんねえのか? 広瀬だよ、広瀬海! 幼稚園で一緒だった!」
「えっ……海くん!?」
その名前を聞いた途端、忘れていた記憶が一気に思い出される。幼稚園の頃、同じクラスでよく遊んでいた男の子だったのだ。
「えー、全然分かんなかった! なんで!? だって、途中で遠くに引っ越しちゃったよね!?」
「ああ、親父の転勤でな! でも来月で親父が定年だからさ、またこっちに戻ってきて暮らすことになったんだ! 俺もちょうど転職考えてたから、ついでに帰ってきた!」
「へえ、そうだったんだ! それにしても海くん、背ぇ伸びたねー!」
記憶の中にいる海くんと言えば、やんちゃなくせに泣き虫で、よく幼稚園の先生に叱られていた男の子だ。同じ通園バスで通っていたから特に仲が良くて、年長さんの頃はいつも一緒に遊んでいたような気がする。
淹れたてのホットコーヒーをカウンター席に置いてから、私は隣の椅子に座って懐かしい思い出を話し始めた。
「年長さんのとき引っ越しちゃったから、二十五年ぶりってこと? 懐かしいなぁ、よくうちに遊びに来てたよね!」
「あー、そうだな! お前んちいっつも味噌臭いなって言ったら、すっげぇ怒られたの覚えてるよ」
「そりゃ怒るよ! そういえば、海くんにはよく泣かされたなぁ」
仲が良かった反面、彼とはしょっちゅう些細なことでケンカをしていたことを思い出した。うちのお母さんなんかは、「あんたたち、ケンカするくせにいつも一緒に遊ぶのねぇ」なんて呆れていたほどだ。よく分からないけれど、子どもなりに波長の合う間柄だったのだろう。
「こっちに戻ってきたってことは、また前のお家に住むの?」
「ああ、あそこにはじいちゃんもいるしな! いつでも来てくれよ、うちの両親もひかりに会えれば喜ぶだろうし」
「うん、行く行く!」
彼のお父さんお母さんにはよくお世話になったし、せっかくこっちに戻ってきたのだからゆっくり話がしたい。この辺りの友達はほとんど他の土地に出て行ってしまっているから、海くんが戻ってきてくれたのは私にとっても嬉しいことだ。
「あ、俺そろそろ行かないと。親父たちと新しい家具買いに行くんだ」
「なんだ、もう行っちゃうの?」
「悪いな! また来るよ、今度は家族みんなで!」
「うん! お待ちしております」
ふざけながらそう言うと、彼も明るく笑った。それからコーヒーのお代を支払うと、おもむろにカバンの中を漁って一枚の名刺を取り出す。
「これ、俺の名刺! 今度からここで働くんだ」
「へえ……もらってもいいの?」
「ああ、もちろん! そうだ、裏に俺のスマホの電話番号も書いとくよ。暇なときはこっちに連絡してくれ」
「うん、分かった! ありがと」
電話番号の書かれた名刺を受け取ると、海くんは「またな」と言って店を出て行った。その名刺をポケットに仕舞ってから厨房に戻ろうとして振り向くと、目の前にはなぜか千歳が仁王立ちしていた。
「わっ! び、びっくりした……どうしたの?」
厨房の入り口を塞ぐように立つ千歳は、珍しく真剣な顔で私を見つめている。どうしたのかと首を傾げると、千歳は低く唸るような声で言った。
「……ねえ、ひかり。今の男って」
「ああ、海くん? あのね、幼稚園の頃仲良しだった子なんだ! 家もこの近くだし、よく遊んでて」
「知ってる」
「……え? し、知ってるの? なんで……」
「ずっと見てたから」
それだけ言ったかと思うと、千歳はふいっと私から顔を背けてしまった。どうしたの、と問いかけようとしたのだが、ちょうどお客さんに呼ばれて千歳はそちらの方に行ってしまう。
結局、なんだかんだでその日はお客さんが途切れることなく夜になってしまい、どこか様子のおかしい千歳に理由を尋ねることができなかった。
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イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
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※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
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