【R18】汚くも美しいこの世界で、今日は何を食べようか?

染野

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三、ごちそうさまの、その後に

4.いってきます

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 ふと肌寒さを感じて目が覚める。
 目をつぶったまま布団を手繰り寄せようと手を伸ばしたけれど、そこには冷たい床しかない。仕方なく目を開けてみると、私が眠っていたのはいつものベッドではなく、固い木の床の上だった。
 そのことに気付いた瞬間、昨夜の出来事を一気に思い出して、私は慌てて起き上がった。

「ちっ、千歳っ!?」

 服を着るより先に辺りを見回したけれど、社殿の中はしんと静まり返っている。そこにあるのは、脱ぎ捨てられた服と、奉納された供物だけだった。

「……ちと、せっ……!」

 がくんと、その場に膝をついて泣き崩れる。床板に涙が落ちて、滲んでは消えていった。

 やっぱり、千歳は消えてしまった。彼の言っていた通り、秋祭りの夜だけ現れ、そしてまた消えていったのだ。

 二度と会えないと思っていた千歳に会えたのだから、それだけでいいと思えばいいのかもしれない。でも、再び触れることのできた温もりが去っていくこともまた、同じくらい辛かった。

「千歳の、ばかっ……! こんな、あっさり消えちゃうなんて……っ、ばかっ、大っ嫌いっ、人でなしっ……!」
「あはっ、ひどい言われようだなぁ。知らなかったよ、そこまで嫌われてたなんて」

 頭上から声がして、ぴたりと動きを止める。
 ゆっくりと声のした方を見上げると、にやつきながら私を見つめる千歳がそこにいた。

「な……っ、なんで!? なんでいるの!?」
「あれ、いない方が良かった?」
「ちっ、違う! そういうことじゃなくてっ、なんで!? だって、秋祭りの夜だけなんじゃ……!?」

 状況が理解できずに混乱する私を後目に、千歳は楽しそうに笑いながら落ちていた服を拾って着せてくれる。すでに自分だけちゃっかり服を着ているところを見ると、どうやら社殿の外に出ていたようだ。

「いやあ、僕も目が覚めて驚いたよ。まだ体はあるし、隣でひかりが寝てるし」
「な……なんで?」
「さあ? 何がなんだかよく分からないし、試しに神世に戻ってみようと思ったんだけど、それがどうしてもできないんだよねぇ」

 おかしいなぁ、なんて呟きながら千歳は首を傾げている。千歳自身にも分からないことが起こっているようだが、もちろん私にも理由は分からない。
 一緒になって首を傾げていると、千歳は何かを思いついたように声を上げた。

「……あ。もしかして」
「えっ? な、なに? なんか分かった?」
「いや……もしかしたら、だけど。あの言葉の意味は、そういうことだったのかなって」
「は……? あの言葉って?」

 千歳は何やら意味深なことを言ったかと思うと、供物の中にあった切り花の菊を一本だけ手に取った。水にもつけずに一晩置きっぱなしになっていたせいか、その菊はしんなりと萎れている。
 その菊を手にした千歳は、難しい顔をしてしばしの間押し黙った。声をかけてはいけないような気がして私も黙っていると、一分も経たないうちに千歳は諦めたように嘆息する。

「……駄目だ。やっぱり、そういうことか」
「な……なに? 私、ついていけてないんだけど」
「力が、無くなってるんだよ。神としての力が、これっぽっちも使えないんだ」

 真顔でそう言う千歳を、私はぽかんと口を開けたまま見つめる。そんな私を見て彼は笑ったかと思うと、私にも分かるように説明をし始めた。

「この前……えっと、十年前か。ひかりの前から消えたあと、僕はあの口煩い女神に会ったんだ」
「え……あ、あの海辺で会った神様?」
「うん、そう。そして僕が消える直前に、あの神が言ったんだ。二度と神世に戻ってくるな……って」

 萎れたままの花を床に置いて、千歳は私を見た。千歳自身も自分が今ここにいることに戸惑っていたようだったけれど、今はもう落ち着きを取り戻している。

「僕はあの時、もう消えるんだから当たり前だろ、としか思わなかった。でも、今になってその言葉の意味が分かったような気がする」
「ど、どういうこと……?」

 千歳は納得したように穏やかな笑みを見せたけれど、私にはまだその意味が理解できない。そして千歳は、幼子に教えるように優しく語り始める。

「僕は今、ここにいる。ひかりにも触れられるし、食べ物だって食べることができる」
「う、うん……?」
「でも、僕はもう神世には戻れない。萎れた花を元に戻す力も無い。……これがどういうことか、ひかりなら分かるでしょう?」

 さあ考えて、と言わんばかりに千歳は薄く笑ったまま私を見つめた。そんな彼を見つめながら、必死でその言葉の意味を理解しようと考えて、私はある一つの答えに辿り着いた。

「えっ!? まっ、まさかっ……」
「ふふっ、やっと分かった? あーあ、なんだか一杯食わされた気分だよ。まあ、有り難く受け取っておくけど」

 千歳はちょっと悔しそうにそう言ってから、まだ混乱している私を抱きしめた。それから私の後頭部に手をやったかと思うと、開いたままの口を塞ぐように深く口づける。そして少ししてから唇を離して、潤んだ私の瞳を見下ろして囁いた。

「……それで? ひかりは僕のこと、大嫌いなんだっけ?」

 しれっとそんなことを聞いてくる千歳を見ていたら、胸の底からじわじわと喜びが込み上げてくる。嫌いなわけがない、と言ってやるのはなんだか悔しくて、私は黙って首を振ってから、もう一度千歳の胸に飛び込んだ。





 ・・・





「えーと、余った食材は冷凍したし、お店の鍵もかけたし、荷物も持ったし! 千歳も準備できたー?」
「うん、たぶん大丈夫だよ」

 もう一度お店の鍵がかかっているかを確認して、私はボストンバッグを片手に駅へと向かって歩き出した。隣にはもちろん千歳がいて、左手を差し出すと何も言わずにそっと握ってくれる。

「それにしても、どうして今度の旅は一週間だけなの? もっと長い休みを取ればいいのに」
「そういうわけにはいかないの。再来週は貸切の予約も入ってるし、常連さんたちがお店が開くの待ってくれてるんだから」
「ふうん。大変だねぇ、ひかりは」
「何言ってるの、帰ってきたら千歳にもちゃんと働いてもらうよ? 働かざるもの食うべからず、って言うしね」
「あはっ、怖い怖い。店長殿の言うことには従わないとねぇ」

 茶化したように言う千歳に笑ってから、秋の高い空を見上げる。きっとどこかで私たちを見ているであろう神様に向かって、私は心の中で感謝した。それから、隣に立つ神様にも。

「……ねえ、千歳。遅くなったけど、ありがとう」
「え? それは、何に対してのお礼かな」
「あの時、私を助けてくれたことへのお礼。千歳のおかげで、私は今ここで生きていられるんだよ」

 あの屋上から身を乗り出した私の手を掴んでくれた千歳に、私は「ありがとう」と言えずにいた。その時のことを思い出しては涙を流していたけれど、もうその必要はなくなった。それに、たとえ涙が流れてしまったとしても、今はこの愛しい人がそれを拭ってくれるだろう。

 目を細めて彼を見つめると、珍しくちょっと照れたようにそっぽを向かれてしまった。でも、「僕もだよ」という小さな呟きが聞こえたから、私は黙って握る手の力を強くする。

 そして神社のある森の入り口、真新しい鳥居の前に辿り着くと、私は今日も手を合わせて願った。
 これからも千歳と、おいしいものを食べられますように、と。

「……まだやってるの? その願い事」
「そうだよ?」
「本当に、物好きな子だねぇ。こんな寂れた神社に向かって」

 そんなひねくれたことを言っておきながら、千歳もまた私と同じように目をつぶって手を合わせた。彼が何を願っているのか気になるけれど、聞いたところできっと教えてくれないだろうから、私は何も言わずにただ黙ってそれを見守る。

 そして千歳は目を開けると、再び私の手を取ってから問いかけた。

「……さて、ひかり。今日は何を食べようか?」
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