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一、いただきます
3.においとぬくもり
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乗り慣れた通勤電車から降りて、人でごった返す駅の中を歩く。そして地上へ出ると、もわんとした都会の蒸し暑い空気に包まれて、沈んでいた気持ちはさらに深くまで落ちていく。
重い足を引きずるようにして、やっとの思いで会社へと辿り着く。ガラスのドアを開けて、古びたエレベーターのボタンを押して、一人になった空間で長い長い溜息をついた。
今日もまた、一日が始まってしまう。
どんな嫌なことがあるだろう。どんなことで怒鳴られるだろう。何度不必要に体に触れられるだろう。そして、こんな状況から抜け出せない自分に、何度嫌悪するだろう。
もやもやとした黒い気持ちが渦巻いて、吐き気にも似たものが襲ってくる。頭痛も、ここ最近毎日だ。でも、だからと言って会社を休めるわけがないし、もし休んだら後でどんな目に遭うか分からない。
我慢、忍耐、辛抱。
いろんな言葉を自分に言い聞かせて、私は思い切って事務所の扉を開ける。そして、おはようございます、と頭を下げながら、精一杯の作り笑いを浮かべた。
しかし、そんな私に返ってきたのは明るい挨拶ではなく、冷たい視線だった。
フロアにいる全員が、入口に立つ私を氷のように冷たい目で見つめている。いや、睨みつけている。
もしかして、昨日提出した資料に何か不備があったのだろうか。発注を間違えたのだろうか。取引先に何か失礼を働いてしまったのだろうか。
だらだらと汗をかきながら、悪い想像ばかりが頭の中に思い浮かぶ。
とにかく、謝らないと。謝って済むのなら、いくらでも頭を下げよう。
申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません──。
「も、しわけ、ありませ……」
「──ひかり? ねえ、ひかりってば!」
「っは、えっ……!?」
名前を呼ばれていることに気付いて、がばっと顔を上げる。目の前には不思議そうに私の顔を覗き込んでいる千歳だけがいた。凍えるような視線を向ける「誰か」なんて、どこにもいない。
「大丈夫? 魘されてたけど」
「あ、うん……だ、大丈夫。変な夢、見ちゃって……」
「可哀想に。よしよし、怖かったねぇ」
頭を優しく撫でられて、はからずも顔が赤くなる。でも、千歳のその骨ばった大きな手のひらがどうしようもなく気持ちよくて、振り払うことはできなかった。
「あ、ていうか、今どこ!? 乗り過ごしたらっ……」
「大丈夫、もう少しかかるから。まだ寝ているといいよ」
「え、うん……あ、ありがとう、ございます」
がたんごとん、という規則的な揺れで、次の目的地に向かって電車に乗っていたことを思い出す。その鈍行列車のボックス席で、私はいつの間にやら眠っていたらしい。
「ほら、僕が寝かしつけてあげるから。目をつぶって」
「ちょ、ちょっと、子ども扱いしないでくださいっ」
「だって僕からしたら、ひかりなんてまだまだ赤子もいいとこだよ。いいから、ほら」
列車に乗り込んだ時は向かい合いに座っていたはずの千歳は、私が寝ている隙になぜか隣に座っていた。そして半ば無理やり私の頭を自分の肩に寄りかからせて、引き続き優しく髪を撫でる。ふわりと、嗅いだことのあるような不思議な香りが鼻に届いた。
「うん? ひかり、どうかした?」
「あ、いや……神様って言う割に、ちゃんと匂いもするし、あったかいんだなぁって」
「あはは、そりゃそうだよ。だって今は肉体を得てるわけだし」
「ふうん……ってことはさ、この世界にはあなたの他にも、たくさん神様が紛れ込んでるってこと?」
「うーん、それはどうかな。こんな面倒なことしてるのは僕くらいかもしれないね」
千歳の肩にもたれながら、私はまた「ふうん」と気の抜けた返事をした。彼が神なのか人間なのかということをあまり気にしなくなったせいかもしれない。
「着いたら、ちょうどお昼だね。楽しみだなぁ」
「うん……なんか、お腹すいてきたかも」
「あはっ、それはよかった。いっぱい食べられるね」
楽しそうにそう言う千歳に、私も笑みを返す。さっき見た悪夢のせいで気分が重かったけれど、千歳のおかげでどうにか忘れられそうだ。
「……最悪」
やっぱり、神様なんてものは存在しないらしい。もし本当にいるとしたら、神様はよっぽど私のことが嫌いなのだろう。
「そんな落ち込まなくてもいいのに。無いと困るの? その、すまほってやつ」
そう。いつも肌身離さず持ち歩いているスマートフォンを、私はどこかで落としてしまったようだ。
半べそをかきながらバッグを漁る私に、千歳は至って冷静に声をかけてくる。
「もう諦めなよ。どうにかなるって、そんなの無くたって」
「だって、電車の時間とか乗り換えとか、どうやって調べるの」
「そんなの、誰かに聞けばいい」
「……泊まるホテルとか、お店とか、どうやって予約するの」
「それも直接聞けばいい」
珍しくごもっともなことを言われて、私は言葉に詰まる。でも確かに、電車だって駅で時刻表を見たり駅員さんに聞いたりすればいいだけだし、ホテルやお店だって予約しなくても利用できるだろう。ただ、少し不便なだけだ。
「誰かから連絡が来るわけでもないし、無いなら無いでどうにかなるんだろうけど……なんか、スマホがないと落ち着かない」
「あはっ、変なの。言っておくけど、死んだらそのすまほともお別れだよ。黄泉には何も持っていかれないからね」
冗談めかした調子でそう言われて、私は納得がいかないながらも頷いた。
少し不安はあるけれど、お金さえあればなんとかなる。それに万が一会社から何か連絡が来たとしても、それを見なくて済むのは好都合だ。
「ほら、早く行こうよ。お腹すいた」
「……うん」
千歳が当たり前のように私の手を取って歩き出す。人懐っこい千歳に引き摺られるように、いつの間にか私も彼に対して敬語を使わなくなっていることに気付いた。
ほとんど素性も知らない男相手に無防備すぎると自分でも思うけれど、千歳は私に危害を加えるつもりなんて無さそうだ。それどころか、不釣り合いなほど優しく、丁寧に扱われているように思えるは気のせいだろうか。
千歳は、どうしてあの時、私が死ぬのを止めたのだろう。「生きていようが死んでいようが関係ない」なんて言うくせに、優しく触れてくれるのはなぜだろう。
胸の中に湧き上がった疑問を千歳にはぶつけられないまま、私は彼の後に続いて歩いた。
「わあ、これが茹でたうどんかぁ。おいしそうだね」
「茹でたうどんって……まあいいか。いただきまーす」
ずるずる、とコシのある麺を啜って咀嚼する。家でもよく冷凍うどんを食べるけど、やっぱりそれとはまったく別物のようにおいしかった。
「うん、おいしい。やっと食べられたよ、茹でたうどん」
「その『茹でたうどん』ってどういう意味? うどんって普通茹でてあると思うんだけど……」
「あれ、言わなかったっけ? 僕、前々からうどんってものを食べてみたかったんだ。でも稀に奉納されても、どれも乾麺でね」
「それを茹でればいいのに」
「お湯も鍋も、社殿には置いてないから」
「ああ、なるほど……」
千歳が神様だということを信じ切ったわけではないけれど、私はもういちいちそれについて考えることはやめた。千歳は自分を神だと言っていて、私はそれを真っ赤な嘘だとは思えない。半信半疑といったところだが、それでいいと思っている。
素性をはっきりさせずとも旅はできるもので、半ば強制的に始まったこの旅を、私は少しずつ楽しめるようになっていた。
「人間が奉納する食べ物って、ほとんど冷たいものなんだ。酒や果物なんかは冷たくてもいいけどさ、やっぱりこういうのは温かい方がおいしい」
「そりゃそうだよね。神社までアツアツのお椀持って行くのも難しいし」
「ふふっ、そうだね」
千歳は目を細めて笑ってから、残りのうどんを大事そうに食べた。一緒に注文した卵の天ぷらに噛り付きながら、私は窓の外に目を移す。
青々とした葉が風に揺れ、店の隣にある田んぼの稲穂には実がつき始めている。休憩中なのか、農作業姿のおばあちゃんたちが畦道に座りながらおしゃべりに興じている姿も見えた。
私の生まれ育った場所も、ここのように緑豊かな田舎町だった。そんな田舎に嫌気がさして都会に飛び出したはずなのに、今ではこの風景を見て心が安らぐような気さえする。
「ここは静かだねぇ。僕がずっといた場所も、こんな感じだったよ」
「え……ほんと? 私の地元もこんな感じだよ。山と田んぼしかない田舎町」
ぼうっと外の景色を眺めている私に気付いて、千歳が声を掛けてくる。なんだか懐かしくなって、私はあの町を飛び出したときのことを話し始めた。
「私、本当はね、短大卒業したら実家の仕事継ぐ予定だったの。あ、うちの実家ってちっちゃい味噌蔵なんだけど」
「うん。でも、継がなかったんだ」
「まあね。なんか急に嫌になっちゃってさ……それで都会に出ようと思って、勝手にそっちで就活してた」
味噌蔵の一人娘だった私は、幼い頃から両親に「大きくなったらひかりが跡を継ぐんだよ」と言われてきた。私もそれを当たり前のことだと思って、何の疑問も持たずに過ごしてきた。
幼稚園の頃、同じクラスの男の子に「味噌くさい」なんて揶揄われても、目にいっぱい涙を溜めながら反論もしなかった。だって、自分でも薄々そんな気がしていたからだ。
それでも、近所のおじさんおばさんたち相手に店番の真似事をするのは楽しかったし、職人さんたちの後ろをついて回って味見をするのも自分の使命とすら思っていた。
そして地元の短大に進学して、同級生たちがリクルートスーツを用意し始めた頃。就活って大変そうだなあ、なんて高みの見物を気取っていた私に、友人がこう言ったのだ。
『やっぱり、味噌屋さん継ぐんだ。ひかりは気楽でいいなぁ』
きっと友人も、深い意味を込めて言ったつもりではないのだろう。これから始まる就職活動に対する不安から、そんなことを口に出してしまっただけかもしれない。でも、その一言は私の心にぐさりと突き刺さった。
やっぱりって、どういうこと?
実家なんだから、私しか跡取りがいないのだから、継ぐのは当たり前じゃないか。
それに、気楽だなんて。父や母を見ていれば、こんな田舎で味噌蔵を経営していくことがどれほど大変かなんて小学生の頃から理解していた。それでも私なりに、覚悟を決めていたつもりだったのに。
でも、周りにそんな私の覚悟が見えるはずもない。私のその大きな覚悟は、傍から見れば「気楽」な選択だったのだ。
「それから、なんかぜーんぶ嫌になっちゃって。蔵は継がない、都会でバリバリ働くんだって決めたの。今思えば、ただの意地なんだけど」
「本当だねぇ。親も怒ったでしょう」
「もちろん。しかも反対押し切って就活始めたくせに、全然内定もらえなくってさ。十月になってやっと一社からもらえて、もうここしかない、ってなっちゃって……」
「それがあの会社か。踏んだり蹴ったりだね」
千歳の言う通り、そこからの人生は踏んだり蹴ったりだった。
家を出て就職するんだと言ったら、父には「もう二度と帰ってくるな」と勘当され、それまで戸惑いながらも見守っていてくれた母にまで「好きにしなさい」と見放された。
言われた通り好きにしてやろうじゃないか、と意気揚々とやってきた都会の生活には馴染めず、会社では散々な目に遭い、結局のところたった一年でこうして逃げてしまった。
「……意志が弱かったのかなぁ。もう少し、頑張れると思ったんだけど……」
覇気の無い声で呟くと、それを聞いて千歳は不思議そうな顔をした。
「もう少し頑張って、どうするつもりだったの?」
「えっ? えーっと、会社で偉くなって、両親に認めてもらって……」
「会社で偉くなったら、親が認めてくれるの? 蔵を継いでほしかったのに?」
「そ、それは……」
ごにょごにょと言い淀んでしまう。そう言われてみれば確かに、あの会社で頑張ったところで両親はさほど喜びはしなかっただろう。
そもそも、すでに勘当されているのだ。認めてもらいたくたって、もう帰ることすら許されていない。
そのことを改めて思い返して、また気分が重く沈んでいった。
「ひかり自身は、どうなりたかったの?」
「え……わ、分かんない」
「そう。じゃあ、今こうして逃げられてよかったんじゃない? 自分がどうなりたいのか、決まってから頑張りなよ」
説教くさい言い方ではなく、ごく自然な口調で千歳はそう言った。でもその一言がいやに胸に響いて、私は千歳の顔を黙って見つめる。
「うん? どうしたの?」
「いや……なんか今の、ちょっと神様っぽいかも。ご神託みたいな」
「あはっ、なにそれ。だから、最初から神だって言ってるのに」
千歳はくすくすと笑ってから、ぎこちない手つきで着ていたシャツの袖を肘まで捲り上げた。暑いのだろうか。
ちなみに、千歳が今着ている洋服一式は私が買ってあげたものである。悪目立ちする和装を身に纏っていた千歳の姿を思い出して、私はぼそりと「ほんとに神様かも」なんて呟いた。
重い足を引きずるようにして、やっとの思いで会社へと辿り着く。ガラスのドアを開けて、古びたエレベーターのボタンを押して、一人になった空間で長い長い溜息をついた。
今日もまた、一日が始まってしまう。
どんな嫌なことがあるだろう。どんなことで怒鳴られるだろう。何度不必要に体に触れられるだろう。そして、こんな状況から抜け出せない自分に、何度嫌悪するだろう。
もやもやとした黒い気持ちが渦巻いて、吐き気にも似たものが襲ってくる。頭痛も、ここ最近毎日だ。でも、だからと言って会社を休めるわけがないし、もし休んだら後でどんな目に遭うか分からない。
我慢、忍耐、辛抱。
いろんな言葉を自分に言い聞かせて、私は思い切って事務所の扉を開ける。そして、おはようございます、と頭を下げながら、精一杯の作り笑いを浮かべた。
しかし、そんな私に返ってきたのは明るい挨拶ではなく、冷たい視線だった。
フロアにいる全員が、入口に立つ私を氷のように冷たい目で見つめている。いや、睨みつけている。
もしかして、昨日提出した資料に何か不備があったのだろうか。発注を間違えたのだろうか。取引先に何か失礼を働いてしまったのだろうか。
だらだらと汗をかきながら、悪い想像ばかりが頭の中に思い浮かぶ。
とにかく、謝らないと。謝って済むのなら、いくらでも頭を下げよう。
申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません──。
「も、しわけ、ありませ……」
「──ひかり? ねえ、ひかりってば!」
「っは、えっ……!?」
名前を呼ばれていることに気付いて、がばっと顔を上げる。目の前には不思議そうに私の顔を覗き込んでいる千歳だけがいた。凍えるような視線を向ける「誰か」なんて、どこにもいない。
「大丈夫? 魘されてたけど」
「あ、うん……だ、大丈夫。変な夢、見ちゃって……」
「可哀想に。よしよし、怖かったねぇ」
頭を優しく撫でられて、はからずも顔が赤くなる。でも、千歳のその骨ばった大きな手のひらがどうしようもなく気持ちよくて、振り払うことはできなかった。
「あ、ていうか、今どこ!? 乗り過ごしたらっ……」
「大丈夫、もう少しかかるから。まだ寝ているといいよ」
「え、うん……あ、ありがとう、ございます」
がたんごとん、という規則的な揺れで、次の目的地に向かって電車に乗っていたことを思い出す。その鈍行列車のボックス席で、私はいつの間にやら眠っていたらしい。
「ほら、僕が寝かしつけてあげるから。目をつぶって」
「ちょ、ちょっと、子ども扱いしないでくださいっ」
「だって僕からしたら、ひかりなんてまだまだ赤子もいいとこだよ。いいから、ほら」
列車に乗り込んだ時は向かい合いに座っていたはずの千歳は、私が寝ている隙になぜか隣に座っていた。そして半ば無理やり私の頭を自分の肩に寄りかからせて、引き続き優しく髪を撫でる。ふわりと、嗅いだことのあるような不思議な香りが鼻に届いた。
「うん? ひかり、どうかした?」
「あ、いや……神様って言う割に、ちゃんと匂いもするし、あったかいんだなぁって」
「あはは、そりゃそうだよ。だって今は肉体を得てるわけだし」
「ふうん……ってことはさ、この世界にはあなたの他にも、たくさん神様が紛れ込んでるってこと?」
「うーん、それはどうかな。こんな面倒なことしてるのは僕くらいかもしれないね」
千歳の肩にもたれながら、私はまた「ふうん」と気の抜けた返事をした。彼が神なのか人間なのかということをあまり気にしなくなったせいかもしれない。
「着いたら、ちょうどお昼だね。楽しみだなぁ」
「うん……なんか、お腹すいてきたかも」
「あはっ、それはよかった。いっぱい食べられるね」
楽しそうにそう言う千歳に、私も笑みを返す。さっき見た悪夢のせいで気分が重かったけれど、千歳のおかげでどうにか忘れられそうだ。
「……最悪」
やっぱり、神様なんてものは存在しないらしい。もし本当にいるとしたら、神様はよっぽど私のことが嫌いなのだろう。
「そんな落ち込まなくてもいいのに。無いと困るの? その、すまほってやつ」
そう。いつも肌身離さず持ち歩いているスマートフォンを、私はどこかで落としてしまったようだ。
半べそをかきながらバッグを漁る私に、千歳は至って冷静に声をかけてくる。
「もう諦めなよ。どうにかなるって、そんなの無くたって」
「だって、電車の時間とか乗り換えとか、どうやって調べるの」
「そんなの、誰かに聞けばいい」
「……泊まるホテルとか、お店とか、どうやって予約するの」
「それも直接聞けばいい」
珍しくごもっともなことを言われて、私は言葉に詰まる。でも確かに、電車だって駅で時刻表を見たり駅員さんに聞いたりすればいいだけだし、ホテルやお店だって予約しなくても利用できるだろう。ただ、少し不便なだけだ。
「誰かから連絡が来るわけでもないし、無いなら無いでどうにかなるんだろうけど……なんか、スマホがないと落ち着かない」
「あはっ、変なの。言っておくけど、死んだらそのすまほともお別れだよ。黄泉には何も持っていかれないからね」
冗談めかした調子でそう言われて、私は納得がいかないながらも頷いた。
少し不安はあるけれど、お金さえあればなんとかなる。それに万が一会社から何か連絡が来たとしても、それを見なくて済むのは好都合だ。
「ほら、早く行こうよ。お腹すいた」
「……うん」
千歳が当たり前のように私の手を取って歩き出す。人懐っこい千歳に引き摺られるように、いつの間にか私も彼に対して敬語を使わなくなっていることに気付いた。
ほとんど素性も知らない男相手に無防備すぎると自分でも思うけれど、千歳は私に危害を加えるつもりなんて無さそうだ。それどころか、不釣り合いなほど優しく、丁寧に扱われているように思えるは気のせいだろうか。
千歳は、どうしてあの時、私が死ぬのを止めたのだろう。「生きていようが死んでいようが関係ない」なんて言うくせに、優しく触れてくれるのはなぜだろう。
胸の中に湧き上がった疑問を千歳にはぶつけられないまま、私は彼の後に続いて歩いた。
「わあ、これが茹でたうどんかぁ。おいしそうだね」
「茹でたうどんって……まあいいか。いただきまーす」
ずるずる、とコシのある麺を啜って咀嚼する。家でもよく冷凍うどんを食べるけど、やっぱりそれとはまったく別物のようにおいしかった。
「うん、おいしい。やっと食べられたよ、茹でたうどん」
「その『茹でたうどん』ってどういう意味? うどんって普通茹でてあると思うんだけど……」
「あれ、言わなかったっけ? 僕、前々からうどんってものを食べてみたかったんだ。でも稀に奉納されても、どれも乾麺でね」
「それを茹でればいいのに」
「お湯も鍋も、社殿には置いてないから」
「ああ、なるほど……」
千歳が神様だということを信じ切ったわけではないけれど、私はもういちいちそれについて考えることはやめた。千歳は自分を神だと言っていて、私はそれを真っ赤な嘘だとは思えない。半信半疑といったところだが、それでいいと思っている。
素性をはっきりさせずとも旅はできるもので、半ば強制的に始まったこの旅を、私は少しずつ楽しめるようになっていた。
「人間が奉納する食べ物って、ほとんど冷たいものなんだ。酒や果物なんかは冷たくてもいいけどさ、やっぱりこういうのは温かい方がおいしい」
「そりゃそうだよね。神社までアツアツのお椀持って行くのも難しいし」
「ふふっ、そうだね」
千歳は目を細めて笑ってから、残りのうどんを大事そうに食べた。一緒に注文した卵の天ぷらに噛り付きながら、私は窓の外に目を移す。
青々とした葉が風に揺れ、店の隣にある田んぼの稲穂には実がつき始めている。休憩中なのか、農作業姿のおばあちゃんたちが畦道に座りながらおしゃべりに興じている姿も見えた。
私の生まれ育った場所も、ここのように緑豊かな田舎町だった。そんな田舎に嫌気がさして都会に飛び出したはずなのに、今ではこの風景を見て心が安らぐような気さえする。
「ここは静かだねぇ。僕がずっといた場所も、こんな感じだったよ」
「え……ほんと? 私の地元もこんな感じだよ。山と田んぼしかない田舎町」
ぼうっと外の景色を眺めている私に気付いて、千歳が声を掛けてくる。なんだか懐かしくなって、私はあの町を飛び出したときのことを話し始めた。
「私、本当はね、短大卒業したら実家の仕事継ぐ予定だったの。あ、うちの実家ってちっちゃい味噌蔵なんだけど」
「うん。でも、継がなかったんだ」
「まあね。なんか急に嫌になっちゃってさ……それで都会に出ようと思って、勝手にそっちで就活してた」
味噌蔵の一人娘だった私は、幼い頃から両親に「大きくなったらひかりが跡を継ぐんだよ」と言われてきた。私もそれを当たり前のことだと思って、何の疑問も持たずに過ごしてきた。
幼稚園の頃、同じクラスの男の子に「味噌くさい」なんて揶揄われても、目にいっぱい涙を溜めながら反論もしなかった。だって、自分でも薄々そんな気がしていたからだ。
それでも、近所のおじさんおばさんたち相手に店番の真似事をするのは楽しかったし、職人さんたちの後ろをついて回って味見をするのも自分の使命とすら思っていた。
そして地元の短大に進学して、同級生たちがリクルートスーツを用意し始めた頃。就活って大変そうだなあ、なんて高みの見物を気取っていた私に、友人がこう言ったのだ。
『やっぱり、味噌屋さん継ぐんだ。ひかりは気楽でいいなぁ』
きっと友人も、深い意味を込めて言ったつもりではないのだろう。これから始まる就職活動に対する不安から、そんなことを口に出してしまっただけかもしれない。でも、その一言は私の心にぐさりと突き刺さった。
やっぱりって、どういうこと?
実家なんだから、私しか跡取りがいないのだから、継ぐのは当たり前じゃないか。
それに、気楽だなんて。父や母を見ていれば、こんな田舎で味噌蔵を経営していくことがどれほど大変かなんて小学生の頃から理解していた。それでも私なりに、覚悟を決めていたつもりだったのに。
でも、周りにそんな私の覚悟が見えるはずもない。私のその大きな覚悟は、傍から見れば「気楽」な選択だったのだ。
「それから、なんかぜーんぶ嫌になっちゃって。蔵は継がない、都会でバリバリ働くんだって決めたの。今思えば、ただの意地なんだけど」
「本当だねぇ。親も怒ったでしょう」
「もちろん。しかも反対押し切って就活始めたくせに、全然内定もらえなくってさ。十月になってやっと一社からもらえて、もうここしかない、ってなっちゃって……」
「それがあの会社か。踏んだり蹴ったりだね」
千歳の言う通り、そこからの人生は踏んだり蹴ったりだった。
家を出て就職するんだと言ったら、父には「もう二度と帰ってくるな」と勘当され、それまで戸惑いながらも見守っていてくれた母にまで「好きにしなさい」と見放された。
言われた通り好きにしてやろうじゃないか、と意気揚々とやってきた都会の生活には馴染めず、会社では散々な目に遭い、結局のところたった一年でこうして逃げてしまった。
「……意志が弱かったのかなぁ。もう少し、頑張れると思ったんだけど……」
覇気の無い声で呟くと、それを聞いて千歳は不思議そうな顔をした。
「もう少し頑張って、どうするつもりだったの?」
「えっ? えーっと、会社で偉くなって、両親に認めてもらって……」
「会社で偉くなったら、親が認めてくれるの? 蔵を継いでほしかったのに?」
「そ、それは……」
ごにょごにょと言い淀んでしまう。そう言われてみれば確かに、あの会社で頑張ったところで両親はさほど喜びはしなかっただろう。
そもそも、すでに勘当されているのだ。認めてもらいたくたって、もう帰ることすら許されていない。
そのことを改めて思い返して、また気分が重く沈んでいった。
「ひかり自身は、どうなりたかったの?」
「え……わ、分かんない」
「そう。じゃあ、今こうして逃げられてよかったんじゃない? 自分がどうなりたいのか、決まってから頑張りなよ」
説教くさい言い方ではなく、ごく自然な口調で千歳はそう言った。でもその一言がいやに胸に響いて、私は千歳の顔を黙って見つめる。
「うん? どうしたの?」
「いや……なんか今の、ちょっと神様っぽいかも。ご神託みたいな」
「あはっ、なにそれ。だから、最初から神だって言ってるのに」
千歳はくすくすと笑ってから、ぎこちない手つきで着ていたシャツの袖を肘まで捲り上げた。暑いのだろうか。
ちなみに、千歳が今着ている洋服一式は私が買ってあげたものである。悪目立ちする和装を身に纏っていた千歳の姿を思い出して、私はぼそりと「ほんとに神様かも」なんて呟いた。
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