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一、いただきます
7.きみがため
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ざあざあと、雨が屋根に打ち付けられる音がする。そのトタン屋根の隙間から時折ぽたぽたと水滴が落ちてきて、私はそのたびに身震いした。
千歳の前から逃げ出した私は、あれから無心で砂浜を走った。とにかくどこか遠くへ行かなければならないような気がしていた。
しかし、運悪くその途中で雨に降られ、体力も尽きかけていた私は海辺にあったこの掘建て小屋へと逃げ込んだのだった。
「……さむい」
走って汗をかいた上に雨に濡れたせいで、がたがたと体の震えが止まらない。何か体を拭けるものはないかと小屋の中を見回してみたけれど、切れたロープや穴の空いた網があるだけだ。きっとかつては、漁師さんの物置として使われていた小屋なのだろう。
体を拭くのは諦めて、冷たくなった両手を擦り合わせる。でも、そうしたところでちっとも暖かくはならなかった。
千歳は、あれからどうしただろう。
勝手にすればいいと言ったくせに、千歳が今どこにいるのか、何をしているのか気になって仕方がなかった。
そもそも、どうして私はこんな気持ちになっているのだろう。
ひかりには関係無い、首を突っ込むなと言われて腹が立った。出会ってからこれまでずっと、私を慈しむかのように接してくれていた千歳に突き放されたことが、とてつもなく悲しかったのだ。でも。
『だって僕からしたら、きみが生きていようが死んでいようが関係ないし』
あの屋上で出会った時も、一緒にたこ焼きを食べた時も、千歳はそう言った。
だからこそ私は、安心して千歳と旅を始めることができた。あのとき死のうとしていた私は、励ましの言葉なんか必要としていなかったから。
それなのに、今となってはその言葉だけがちくちくと心を突き刺すのだ。
可愛いと言われるたび、優しく触れられるたびに、千歳は私のことを異性として好きでいてくれているのではないかと思ってしまう。神様のほんの気まぐれだとしても、私を愛してくれているのではないかと。
思い上がってしまいそうになる私を止めるのは、いつだってその言葉だった。
「……ひっ、くしゅん!」
いよいよ全身が冷たくなってきて、私は立ち上がって小屋の外を覗き見た。まだ雨は降り続いている。
どうしたものかとため息をつきながら視線を移すと、小屋の外に見慣れた姿を見つけて、私は一瞬息を止めた。
「ち……ちとせ?」
そこにいたのは、びしょ濡れになりながら小屋の外壁に寄りかかっている千歳だった。
嗄れた声で名前を呼ぶと、ふくれたような顔をこちらに向ける。
「……やあ」
「やあ、って……っ、ずぶ濡れじゃん! は、早く入りなよ!」
「だって、ついて来るなって言われたから」
「うっ……と、とにかく入って! 風邪引くよ!」
自分のことは棚に上げて、全身濡れ切った千歳の手を引っ張って小屋に引き入れた。私よりも冷たくなったその手を握りながら、そういえば神様でも風邪を引くのかな、なんて呑気に考えた。
「いつからそこにいたの!?」
「ずっと。ひかりがここに入るところから見てた」
「えっ!? は、早く言ってよ!」
「ひかりが言ったんだよ? 勝手にしろって。だから勝手にした」
千歳はそう言って、ぷいっとそっぽを向いてしまった。どうやら拗ねているようだ。
そんな彼がおかしくてぷっと吹き出すと、千歳は不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「……なんで笑ってるの?」
「ぷっ、だ、だって……なにそれ。千歳、子どもみたい」
「随分と馬鹿にしてくれるね。僕はこれでも、千歳を生きる神世の者だよ?」
「ふふっ、そうなんだ。あ、もしかして、だから千歳って名前なの?」
「……うん。まあね」
そこでようやく千歳も笑ってくれた。それにほっとしたのも束の間、今度は突然肩を抱き寄せられて、私の体は千歳の腕の中に閉じ込められてしまう。
「わっ、え? な、なに……」
「……みっともない顔して。ひかり、泣いてたでしょう」
「なっ……! わ、悪い?」
「ううん。悪くない」
眩しいものでも見るかのように目を細めながら、千歳が私の顔を見つめる。そして、千歳の指が私の目元を優しく拭った。もう涙は乾いたはずなのに、慰めるようなその仕草に胸がきゅっと締め付けられる。
こうして千歳と触れ合うことに、何の抵抗も感じなくなったのはいつからだろう。抵抗しても無駄だった、というのもあるけれど、千歳の体温を感じるだけでこんなにも安心している自分がいる。
ぎゅっと私を抱きしめる千歳の腕に、恐る恐る手を添えてみる。そして伺うように千歳の顔を見上げると、じっとこちらを見つめる目とかち合った。
「な……な、に?」
「……本当は、こんな風に人間と触れ合うことは、禁忌なんだって。神の力に染まった人間は、人間ではいられなくなるから」
「え……」
唐突に話し始めた千歳は、なぜか苦しそうな顔をしていた。私から目を逸らさず、一言一言を絞り出すように口を開く。
「でも、僕はひかりに触れたかった。触れるつもりなんて、最初は無かったけど……あの日、ひかりが身を投げようとするのを見たとき、咄嗟に手を伸ばしてしまったから」
千歳の言葉で、あの夜のことが鮮明に思い出される。
心身ともにやつれ切っていた私は、死ぬつもりで屋上に向かった。しかし、私はそこで死ぬことはできず、千歳と出会ったのだ。
「あの、さ……千歳は、どうしてあのとき私を止めたの?」
「うーん……どうしてだろう。理由は分からないけど、僕はちょっと前からひかりを見てたんだ。神世からね」
「えっ……み、見てたの!? なんで!?」
「まあ、偶然ってことにしといてよ。そしたらひかりが、急に死のうとするから。慌てて神世から降りてきたんだ」
初めて知るその事実に、私は戸惑いを隠せなくなる。だって、あれより前から千歳が私を見ていたなんて。でも、彼が私に対して保護者めいたことを言う理由がやっと分かった気がした。
「ねえ、ひかり。これ以上僕と一緒にいたら、きっときみは人間でいられなくなるよ。限りなく神に近い存在にはなるけれど、真っ当な神にもなれない。何処にも属さない、中途半端な生き物になる」
「……もしかして私、もうなりかけてる? その、中途半端な生き物に」
「うん。さっきみたいに、現世に降りてきた神を認識できるようになる。でもその次は、きみの方が他の人間に認識されなくなるんだ」
「な、なるほど……透明人間みたいなものか」
冷静に考えればとんでもないことだけど、このときの私はなぜか落ち着き払っていた。いまいち実感が湧いていないせいかもしれない。
私よりも、千歳の方がずっと深刻そうな顔をしていた。こんな真面目な顔もできたのか、なんて失礼なことを思いつつ、私は素直に思ったことを口にした。
「別に、それでもいいよ。私は神様にもなりたくないし、人間じゃなくなったっていい」
「……それ、本気で言ってるの?」
「うん。だって、千歳も分かってるでしょ? 私、死ぬつもりだったんだよ。人間じゃなくなるのと同じようなもんでしょ」
「まあ……うん」
「……それに、さ。どうせ同じなら、私、千歳と一緒にいられる方を選びたい。千歳とおいしいもの探すの、まだ終わらせたくないんだ」
きっぱりと言い切ると、千歳は驚いたように目を見張った。でも、その表情はすぐ笑顔に変わって、嬉しそうに私の髪に頬を擦り付けてくる。
「……うん。分かった。しょうがないなぁ、ひかりは」
「く、くすぐったい! 千歳、そんなに嬉しいの?」
「嬉しいよ。だって、ひかりの命を僕にくれるって言ってるようなものでしょう? 嬉しいに決まってるよ」
冷たくなった私の頬に、千歳の唇が触れる。そのまま頬を唇だけで喰まれた。
なんだか犬にじゃれつかれているみたい、なんて思いながら、私はずっと胸に引っかかっていたことを千歳に尋ねることにした。
「でも……千歳、前に言ったよね。私が死のうが生きようが関係ない、って」
「うん? ああ、言ったねぇ」
「言ったねぇ、って……!」
「だって、ひかりが黄泉に行ったら神世に連れてくればいいだけだし。生きてるなら、こうして僕が降りてくればいいし。どっちでもいいんだよ」
「……え?」
間抜けな声を出すと、千歳はおかしそうにくすくすと笑った。そして、目を丸くしたままの私をより強く抱きしめる。
心臓がどきんどきんと鳴っているのが分かる。笑うだけで何も言わない千歳に、私は淡い期待を込めて問いかけた。
「あ……あの……もしかして、千歳って……私のこと、かなり好き?」
口に出してから、なんて恥ずかしくて馬鹿らしい質問をしたのかと後悔する。赤くなった頬を押さえながら恐る恐る千歳の反応を窺うと、彼は「うーん」と唸りながら考え込んでしまった。
「好き……好き、かぁ」
「……え。ち、違うの?」
「いや、好きだよ? でも、ひかりは僕の存在する意味そのものだから。まあ、それも好きっていうことでいいのかな」
「どう思う?」なんて逆に聞かれても困る。好きと言われるよりもっと重い愛を受け取った気がして、私はさらに顔を真っ赤にして押し黙ることしかできなくなった。
黙りこくってしまった私を見て、千歳が満足気に笑みを浮かべる。そして、私の耳元に口を寄せてぼそりと囁いた。
「……ねえ、ひかり? こういうとき、人間はあれをするんじゃないの?」
「え……あれ、って?」
言っている意味が分からず聞き返すと、千歳は笑みを崩さないまま顔を覗き込んでくる。そして、その赤い眼をすっと細めたかと思うと、私の顎を上向かせてキスをした。
「んっ……!?」
これまで散々体を舐められてきたけれど、こんな風に唇同士が触れ合うことは無かった。というか、私にとってはこれがファーストキスである。
指の一本も動かせないまま、私はただただ千歳の唇を受け入れていた。口の中まで舐められたらどうしよう、と不安になったけれど、彼はしばらくしてからそっと唇を離した。
「あはっ、変な顔。そんなに驚いた?」
「あ、う……だ、だって、初めて、だったし……」
「うん、知ってる。ねえ、これでひかりは僕のものになったんだよね?」
「え……そうなの?」
「そうだよ? ふふっ、嬉しい。やっと、僕のものになってくれた……」
ちょっと引くくらいにやけた顔をして、千歳が私の手の甲に頬擦りをする。大袈裟だな、と苦笑いしながらも、千歳の気持ちが嬉しかったから私も思わずにやけてしまった。
外ではまだ雨が降り続いている。日も落ちかかって、辺りは暗闇に包まれていた。
いつまでも私の体を抱きしめている千歳の背に、おずおずと腕を伸ばしてみる。まだびちょびちょに濡れてはいるけれど、やっぱりその体はじんわりと温かかった。
その温度を感じながら、家を飛び出してからずっと胸に居座っている孤独を消し去ってほしくて、私は千歳の顔を見上げた。そして、おずおずと口を開く。
「あの……大事に、してくれる? 私が何しても見捨てないで、一緒にいてくれるの?」
馬鹿げた質問をする私に、千歳は柔らかい笑みを返してくれる。こうして近くで見ても、彼はやっぱりはっとするくらい美しかった。
それから千歳は、黙ってこくりと頷いた。彼ならきっと頷いてくれるだろうという根拠のない自信はあったけれど、それでもその笑顔を見た瞬間、胸に熱いものが込み上げてくる。
頭ごなしに否定され、無意味に罵倒され続ける日々を送ってきた私の心が、千歳によって救われたような気がした。誰かに自分を肯定してもらえること自体久しぶりで、安堵からか自然と涙が溢れ出す。
擦り切れて無くなりかけた私の心を取り戻してくれたのは、千歳と、おいしいごはんの数々だった。
泣いているのを悟られないように、千歳の肩に顔を埋める。両腕で力いっぱい彼の体を抱きしめ返すと、「苦しいよ」と苦笑混じりの声が聞こえてきた。自分だって私のことをぎゅうぎゅうに抱きしめているくせに。
ようやく得られたこの安息を失いたくなくて、私はいつまでも千歳の温もりに浸っていた。
千歳の前から逃げ出した私は、あれから無心で砂浜を走った。とにかくどこか遠くへ行かなければならないような気がしていた。
しかし、運悪くその途中で雨に降られ、体力も尽きかけていた私は海辺にあったこの掘建て小屋へと逃げ込んだのだった。
「……さむい」
走って汗をかいた上に雨に濡れたせいで、がたがたと体の震えが止まらない。何か体を拭けるものはないかと小屋の中を見回してみたけれど、切れたロープや穴の空いた網があるだけだ。きっとかつては、漁師さんの物置として使われていた小屋なのだろう。
体を拭くのは諦めて、冷たくなった両手を擦り合わせる。でも、そうしたところでちっとも暖かくはならなかった。
千歳は、あれからどうしただろう。
勝手にすればいいと言ったくせに、千歳が今どこにいるのか、何をしているのか気になって仕方がなかった。
そもそも、どうして私はこんな気持ちになっているのだろう。
ひかりには関係無い、首を突っ込むなと言われて腹が立った。出会ってからこれまでずっと、私を慈しむかのように接してくれていた千歳に突き放されたことが、とてつもなく悲しかったのだ。でも。
『だって僕からしたら、きみが生きていようが死んでいようが関係ないし』
あの屋上で出会った時も、一緒にたこ焼きを食べた時も、千歳はそう言った。
だからこそ私は、安心して千歳と旅を始めることができた。あのとき死のうとしていた私は、励ましの言葉なんか必要としていなかったから。
それなのに、今となってはその言葉だけがちくちくと心を突き刺すのだ。
可愛いと言われるたび、優しく触れられるたびに、千歳は私のことを異性として好きでいてくれているのではないかと思ってしまう。神様のほんの気まぐれだとしても、私を愛してくれているのではないかと。
思い上がってしまいそうになる私を止めるのは、いつだってその言葉だった。
「……ひっ、くしゅん!」
いよいよ全身が冷たくなってきて、私は立ち上がって小屋の外を覗き見た。まだ雨は降り続いている。
どうしたものかとため息をつきながら視線を移すと、小屋の外に見慣れた姿を見つけて、私は一瞬息を止めた。
「ち……ちとせ?」
そこにいたのは、びしょ濡れになりながら小屋の外壁に寄りかかっている千歳だった。
嗄れた声で名前を呼ぶと、ふくれたような顔をこちらに向ける。
「……やあ」
「やあ、って……っ、ずぶ濡れじゃん! は、早く入りなよ!」
「だって、ついて来るなって言われたから」
「うっ……と、とにかく入って! 風邪引くよ!」
自分のことは棚に上げて、全身濡れ切った千歳の手を引っ張って小屋に引き入れた。私よりも冷たくなったその手を握りながら、そういえば神様でも風邪を引くのかな、なんて呑気に考えた。
「いつからそこにいたの!?」
「ずっと。ひかりがここに入るところから見てた」
「えっ!? は、早く言ってよ!」
「ひかりが言ったんだよ? 勝手にしろって。だから勝手にした」
千歳はそう言って、ぷいっとそっぽを向いてしまった。どうやら拗ねているようだ。
そんな彼がおかしくてぷっと吹き出すと、千歳は不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「……なんで笑ってるの?」
「ぷっ、だ、だって……なにそれ。千歳、子どもみたい」
「随分と馬鹿にしてくれるね。僕はこれでも、千歳を生きる神世の者だよ?」
「ふふっ、そうなんだ。あ、もしかして、だから千歳って名前なの?」
「……うん。まあね」
そこでようやく千歳も笑ってくれた。それにほっとしたのも束の間、今度は突然肩を抱き寄せられて、私の体は千歳の腕の中に閉じ込められてしまう。
「わっ、え? な、なに……」
「……みっともない顔して。ひかり、泣いてたでしょう」
「なっ……! わ、悪い?」
「ううん。悪くない」
眩しいものでも見るかのように目を細めながら、千歳が私の顔を見つめる。そして、千歳の指が私の目元を優しく拭った。もう涙は乾いたはずなのに、慰めるようなその仕草に胸がきゅっと締め付けられる。
こうして千歳と触れ合うことに、何の抵抗も感じなくなったのはいつからだろう。抵抗しても無駄だった、というのもあるけれど、千歳の体温を感じるだけでこんなにも安心している自分がいる。
ぎゅっと私を抱きしめる千歳の腕に、恐る恐る手を添えてみる。そして伺うように千歳の顔を見上げると、じっとこちらを見つめる目とかち合った。
「な……な、に?」
「……本当は、こんな風に人間と触れ合うことは、禁忌なんだって。神の力に染まった人間は、人間ではいられなくなるから」
「え……」
唐突に話し始めた千歳は、なぜか苦しそうな顔をしていた。私から目を逸らさず、一言一言を絞り出すように口を開く。
「でも、僕はひかりに触れたかった。触れるつもりなんて、最初は無かったけど……あの日、ひかりが身を投げようとするのを見たとき、咄嗟に手を伸ばしてしまったから」
千歳の言葉で、あの夜のことが鮮明に思い出される。
心身ともにやつれ切っていた私は、死ぬつもりで屋上に向かった。しかし、私はそこで死ぬことはできず、千歳と出会ったのだ。
「あの、さ……千歳は、どうしてあのとき私を止めたの?」
「うーん……どうしてだろう。理由は分からないけど、僕はちょっと前からひかりを見てたんだ。神世からね」
「えっ……み、見てたの!? なんで!?」
「まあ、偶然ってことにしといてよ。そしたらひかりが、急に死のうとするから。慌てて神世から降りてきたんだ」
初めて知るその事実に、私は戸惑いを隠せなくなる。だって、あれより前から千歳が私を見ていたなんて。でも、彼が私に対して保護者めいたことを言う理由がやっと分かった気がした。
「ねえ、ひかり。これ以上僕と一緒にいたら、きっときみは人間でいられなくなるよ。限りなく神に近い存在にはなるけれど、真っ当な神にもなれない。何処にも属さない、中途半端な生き物になる」
「……もしかして私、もうなりかけてる? その、中途半端な生き物に」
「うん。さっきみたいに、現世に降りてきた神を認識できるようになる。でもその次は、きみの方が他の人間に認識されなくなるんだ」
「な、なるほど……透明人間みたいなものか」
冷静に考えればとんでもないことだけど、このときの私はなぜか落ち着き払っていた。いまいち実感が湧いていないせいかもしれない。
私よりも、千歳の方がずっと深刻そうな顔をしていた。こんな真面目な顔もできたのか、なんて失礼なことを思いつつ、私は素直に思ったことを口にした。
「別に、それでもいいよ。私は神様にもなりたくないし、人間じゃなくなったっていい」
「……それ、本気で言ってるの?」
「うん。だって、千歳も分かってるでしょ? 私、死ぬつもりだったんだよ。人間じゃなくなるのと同じようなもんでしょ」
「まあ……うん」
「……それに、さ。どうせ同じなら、私、千歳と一緒にいられる方を選びたい。千歳とおいしいもの探すの、まだ終わらせたくないんだ」
きっぱりと言い切ると、千歳は驚いたように目を見張った。でも、その表情はすぐ笑顔に変わって、嬉しそうに私の髪に頬を擦り付けてくる。
「……うん。分かった。しょうがないなぁ、ひかりは」
「く、くすぐったい! 千歳、そんなに嬉しいの?」
「嬉しいよ。だって、ひかりの命を僕にくれるって言ってるようなものでしょう? 嬉しいに決まってるよ」
冷たくなった私の頬に、千歳の唇が触れる。そのまま頬を唇だけで喰まれた。
なんだか犬にじゃれつかれているみたい、なんて思いながら、私はずっと胸に引っかかっていたことを千歳に尋ねることにした。
「でも……千歳、前に言ったよね。私が死のうが生きようが関係ない、って」
「うん? ああ、言ったねぇ」
「言ったねぇ、って……!」
「だって、ひかりが黄泉に行ったら神世に連れてくればいいだけだし。生きてるなら、こうして僕が降りてくればいいし。どっちでもいいんだよ」
「……え?」
間抜けな声を出すと、千歳はおかしそうにくすくすと笑った。そして、目を丸くしたままの私をより強く抱きしめる。
心臓がどきんどきんと鳴っているのが分かる。笑うだけで何も言わない千歳に、私は淡い期待を込めて問いかけた。
「あ……あの……もしかして、千歳って……私のこと、かなり好き?」
口に出してから、なんて恥ずかしくて馬鹿らしい質問をしたのかと後悔する。赤くなった頬を押さえながら恐る恐る千歳の反応を窺うと、彼は「うーん」と唸りながら考え込んでしまった。
「好き……好き、かぁ」
「……え。ち、違うの?」
「いや、好きだよ? でも、ひかりは僕の存在する意味そのものだから。まあ、それも好きっていうことでいいのかな」
「どう思う?」なんて逆に聞かれても困る。好きと言われるよりもっと重い愛を受け取った気がして、私はさらに顔を真っ赤にして押し黙ることしかできなくなった。
黙りこくってしまった私を見て、千歳が満足気に笑みを浮かべる。そして、私の耳元に口を寄せてぼそりと囁いた。
「……ねえ、ひかり? こういうとき、人間はあれをするんじゃないの?」
「え……あれ、って?」
言っている意味が分からず聞き返すと、千歳は笑みを崩さないまま顔を覗き込んでくる。そして、その赤い眼をすっと細めたかと思うと、私の顎を上向かせてキスをした。
「んっ……!?」
これまで散々体を舐められてきたけれど、こんな風に唇同士が触れ合うことは無かった。というか、私にとってはこれがファーストキスである。
指の一本も動かせないまま、私はただただ千歳の唇を受け入れていた。口の中まで舐められたらどうしよう、と不安になったけれど、彼はしばらくしてからそっと唇を離した。
「あはっ、変な顔。そんなに驚いた?」
「あ、う……だ、だって、初めて、だったし……」
「うん、知ってる。ねえ、これでひかりは僕のものになったんだよね?」
「え……そうなの?」
「そうだよ? ふふっ、嬉しい。やっと、僕のものになってくれた……」
ちょっと引くくらいにやけた顔をして、千歳が私の手の甲に頬擦りをする。大袈裟だな、と苦笑いしながらも、千歳の気持ちが嬉しかったから私も思わずにやけてしまった。
外ではまだ雨が降り続いている。日も落ちかかって、辺りは暗闇に包まれていた。
いつまでも私の体を抱きしめている千歳の背に、おずおずと腕を伸ばしてみる。まだびちょびちょに濡れてはいるけれど、やっぱりその体はじんわりと温かかった。
その温度を感じながら、家を飛び出してからずっと胸に居座っている孤独を消し去ってほしくて、私は千歳の顔を見上げた。そして、おずおずと口を開く。
「あの……大事に、してくれる? 私が何しても見捨てないで、一緒にいてくれるの?」
馬鹿げた質問をする私に、千歳は柔らかい笑みを返してくれる。こうして近くで見ても、彼はやっぱりはっとするくらい美しかった。
それから千歳は、黙ってこくりと頷いた。彼ならきっと頷いてくれるだろうという根拠のない自信はあったけれど、それでもその笑顔を見た瞬間、胸に熱いものが込み上げてくる。
頭ごなしに否定され、無意味に罵倒され続ける日々を送ってきた私の心が、千歳によって救われたような気がした。誰かに自分を肯定してもらえること自体久しぶりで、安堵からか自然と涙が溢れ出す。
擦り切れて無くなりかけた私の心を取り戻してくれたのは、千歳と、おいしいごはんの数々だった。
泣いているのを悟られないように、千歳の肩に顔を埋める。両腕で力いっぱい彼の体を抱きしめ返すと、「苦しいよ」と苦笑混じりの声が聞こえてきた。自分だって私のことをぎゅうぎゅうに抱きしめているくせに。
ようやく得られたこの安息を失いたくなくて、私はいつまでも千歳の温もりに浸っていた。
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