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中編 騙していたのは
しおりを挟むあれからもう、十年以上になるだろうか。彼は29、彼女は26になった。
彼と彼女は手を取り合って、この辺境の地で慎ましく暮らしてきた。
辺境の貧しい領地では、家計の助けになるような税収が見込めない。使用人を雇うような余裕もなかったため、彼らは生活の全てを自分たちでしなければならなかった。
それでも、彼らは領地の小作人たちと意思の疎通を図り、時には農作業を手伝ったりして、領民たちに『畑領主』と親しみを込めて呼ばれるようになった。
また、彼は研究者としての能力を発揮して土壌改良や、安定して収穫を見込める種の作付けを提案した。
王都での評判を耳にして最初は冷たかった領民たちも、次第に心を開いてくれるようになり、彼らは徐々に土地に根付いていった。
「レクシェル!」
嵐の勢いで家に飛び込んできたのは、元王太子であり、今の夫だった。
彼はベッドに横たわる妻の手をきつく握りしめた。
「作業中に倒れたと聞いた。大丈夫なのか?!」
「あなた……」
彼女は、驚くほど顔面蒼白の状態で、ベッドに横たわっていた。
傍らに寄り添っていた女性が、立ち上がりながら言った。
「今、うちの人が村外れのジェイキンス先生を呼びにいってるからね。それまで頑張るんだよ」
「ありがとうございます」
女性に笑いかけようとしているのか、脂汗が滲んだ彼女の顔がわずかに引き攣る。
女性はなおも励ましの言葉をかけながら部屋から出て行き、彼らは二人きりになった。
彼女は、今の彼女と同じくらい青褪めてしまった、彼の冷たい手をぎゅっと握り返した。
「あなた……ごめんなさい」
彼女のその言葉に、彼はハッと息を呑んだ。
「何を言ってるんだ。体調が悪い時など誰にでもある。気にせず休みなさい」
「違うの。今まで黙っていて……騙していてごめんなさい」
「何のことだ……?」
妻が言ってるのが、家の裏に生えている雑草を乾燥させたものをお茶だといって彼に飲ませていたり、楽しみにとっておいた酒を隠れて飲んでしまったという類のものでないことは、彼にも薄々わかっていた。
「もうすぐ私は死ぬでしょう」
「死ぬだなんて……少し調子が悪いだけだよ。気弱になってはいけない。医者に見せればきっとすぐによくなる」
「いいえ。いずれこうなることはわかっていたの。あらかじめ決まっていたことだもの……ずっと黙っていてごめんなさい」
黙っていてごめんなさい。そう呟いた瞬間、彼女の目からぽろり、と涙がこぼれた。
「決まっていたって……どういうことだ?」
彼には妻が正気のようには思えなかったが、弱っている彼女にきつく問いただすわけにはいかない。
それだけ、今は辛いのだろう。痛みもあるのかもしれない。そう思った。
「それから、」
彼は握りしめる手に少し力を入れたが、彼女の瞳は虚空を見つめていた。
「私はあなたを憎んでいました。復讐のためにあなたに近づいたの……騙していてごめんなさい」
そして、彼女は語った。
歳の離れた彼女の兄が、優秀な研究者だったこと。両親と死別した後、親代わりとして彼女を養ってくれていたこと。そして、ある研究を完成させたが、成果を共同研究者に横取りされてしまったこと。
そこまで聞いた彼は、サッと顔を青褪めさせた。
「まさか」
「そうです。兄の共同研究者は当時の王子殿下でした――つまり、王太子になる前のあなたのことです。寝食を削り、全てをかけた研究を奪われた兄は、失意のもとやがて自ら命を絶ってしまいました」
「ネルガーには妹がいたと聞いたことがあったが、君がそうだったのか」
「ネルガー=アーマッド。それが兄の名前です。私は兄の死後親戚の家に引き取られました。その後の話はあなたにも話したことがあると思います」
彼が聞いた話では、彼女は引き取られた後、大変不遇な子ども時代を過ごしていた。
義実家には居場所がないばかりか、幼い彼女に養育費を請求した。
兄は研究に生活費以外の全てをつぎ込んでいたため、彼女にそれを払うことはできず、金を稼ぐために歳を偽って働きに出なければならなかった。
朝夕なく働いていた彼女は、やがて視察のために市井へ降りていた王太子と出会い、恋に落ちた……はずだった。
「私はあなたが王太子だと知って近づきました。兄と一緒にいるところを一度だけ見ていましたから。兄の復讐のためだけに近づいて。そして、何もかも奪ったのです。あなたが継ぐはずだった王位も、あなたに与えられる筈だった公爵令嬢との愛も、あなたに約束されていた未来の何もかもを――」
グッと唇を噛み締めたまま彼は。
彼女の顔から目を逸らせずにいた。
「そうか。だが、復讐というのならば、君は何故ここに留まっていたのだ? 廃太子され、辺境に送られ……そんな時に君が去っていったのならば、一人残された私は発狂していたかもしれないのに。もっとどん底に落とすことだってできただろう。君がいたからこそ、私はここまでやってこられたのだ。私は君に感謝こそすれ恨んだりはしていない。謝られる筋合いはないな」
彼の声は震えていた。
より強く唇を噛み締める。
そうしなければ、涙がこぼれてしまいそうだったのだ。妻に、泣いている姿を見せたくなかった。
「元々私は不治の病に侵されていたのです。二十歳まで生きられるかどうかと言われておりました。若干の延命効果があるとされる治療にも莫大な費用が必要で、兄はそれを稼ぐために研究を完成させようと急いでいました。研究を発表して認められれば、国庫から借入することができるようになるからです」
国家的な功績を納めた者は、研究費用を国庫から借り入れることができるようになる。彼女の兄はそれを狙っていたのだ。
しかし、その研究成果はいつのまにか奪われ、自分の存在は消されていた。
兄が平民であることで、その功績が抹消されたのだろうことは、想像に難くなかった。
研究者だった兄にとって、自分の研究の成果を奪われるというのは、死ぬより辛いことだったのだろう。
まして、信頼していた共同研究者に裏切られて絶望した兄は、安い酒を大量に飲むようになり、ある日道端で冷たくなっているのが発見された。
それは緩やかな自殺と同じだった。
「復讐を兄の墓前で誓った私は……王位確実の王太子を誘惑して全てを捨てさせ、その後献身的に支える妻となりました。ほどよく四、五年経った頃にあなたを残して逝くつもりでした。最期に恨みの言葉を言い連ねて、あなたに後悔と絶望を味合わせてやりたかった。兄がそうだったように。思ったよりも長く生きすぎてしまったみたいですが、やっと望みが叶います」
彼の言葉はもはや声にならなかった。
「もっと早く病のことを告げてくれていれば……」
治すための医者も薬もきっと手配できただろう。
薬がどんなに高額なものであったとしても。
そのために中央へ頭を下げることになったとしても、後悔はしなかったに違いない。
だが、彼はその言葉は飲み込んだ。
これを復讐なのだと言った。そんなことは、望んでいないのだ、彼女は。
「そう……だったのか、私はまんまと君に騙されてしまったわけだね」
彼女は虚に天井を見つめているから、彼の顔までは見えないはずだった。
自分の声が震えているのも、気づかれないといい。
「ああ、悔しいな」
彼女を心ごと救えなかったのが。
「悔しくて泣きそうだ」
彼女から生命の気配が薄れていくのが。
「君の復讐は成功だよ」
既にたくさんの涙が頬を伝っていたが、彼女がそれに気づく様子はない。意識を保つのでせいいっぱいのようだった。
彼女は今、彼の声を聞きながら何を思っているのだろう。
本懐を遂げられて満足しているのだろうか。
それでも、少しは幸せだったと思ってくれはしないだろうか。
「君の復讐は成功したよ。きっと、天国のネルガーも喜んでいるに違いない。だから、ジェンキンス先生が来るまで、少し眠りなさい」
彼女は少し唇を震わせると、ゆっくりとまぶたを閉じた。
その頬を滑り落ちた涙が、シーツに小さな透明のシミを作った。
それはきっと、彼のための涙だった。
そして、彼女の手から力が抜けた瞬間、彼の喉からは堪えていた慟哭が噴き出した。
「ああ、ああ、ああああ―――――――っ!!!!!」
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