悪役令嬢、婚約破棄に「御意」と答えて即帰宅。

ちゃっぴー

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誘拐事件から解放され、帰りの馬車の中。

私は揺れる車内で、アレクセイ閣下の隣に座っていた。

「……」

閣下は無言だ。

だが、私の手を握るその力は、これでもかというほど強い。指の骨が軋むギリギリのラインだ。

「……あの、閣下。そろそろ血流が阻害されそうなのですが」

「すまない。離すと、君がまた煙のように消えてしまいそうでな」

閣下はそう言っても、力を緩めようとはしなかった。

その横顔は、いつもの冷静沈着な『氷の宰相』ではない。

眉間には深いシワが刻まれ、瞳にはまだ、先ほどの倉庫で見せたような暗い炎が燻っている。

「……許さん」

ボソリと、地獄の底から響くような声が漏れた。

「私の目の届かぬ場所で、君を危険に晒した。そして君に恐怖(実際は説教していただけだが)を与えた。……万死に値する」

「閣下、実行犯たちは反省して運送業に就きましたよ」

「彼らはいい。問題は、依頼主だ」

ギロリ。

閣下の眼鏡の奥が鋭く光った。

「バロン男爵……だったな。我が国の法務と物流を舐めた罪、そして何より――私の機嫌を損ねた罪。たっぷりと償わせてやる」

怖い。

普段の「仕事の鬼」モードとは違う、「復讐の鬼」モードだ。

私は自分の心臓が、ドクンドクンと高鳴るのを感じた。

(……おかしいわね。危機は去ったはずなのに、動悸が収まらない)

これは医学的に見て『不整脈』か?

それとも、心理学で言うところの『吊り橋効果』――恐怖体験のドキドキを恋愛感情と錯覚する現象だろうか?

(いや、錯覚だ。断じて恋ではない。これは生存本能が彼を「最強の護衛」と認識したことによる依存反応に過ぎない)

私は必死に自己分析を行い、赤くなりそうな頬を冷たい窓ガラスに押し付けた。



翌日。

宰相執務室は、異様な緊張感に包まれていた。

中央に立たされているのは、小太りの男。

誘拐の依頼主、バロン男爵だ。

彼は近衛騎士に両脇を固められ、滝のような汗を流して震えている。

「あ、あ、アレクセイ公爵……ご、誤解です! 私は何も知らなくて……!」

「誤解?」

デスクに座った閣下は、書類から顔も上げずに呟いた。

「実行犯の供述調書、送金履歴、そして貴様が昨夜、愛人に『邪魔な女を消してやった』と自慢していた音声記録。……全て揃っているが、どの辺りが誤解なのかな?」

「ひぃっ!?」

閣下はゆっくりと顔を上げた。

その表情は、笑っていた。

しかし、目は笑っていない。絶対零度の瞳が、男爵を貫いている。

「さて、バロン男爵。君には『誘拐教唆』の罪で法的な裁きを受けてもらうが……その前に」

閣下は指をパチンと鳴らした。

私が待機していたデスクから、うず高く積まれた書類の束を持って進み出る。

「ここにあるのは、貴様の領地の経営報告書、脱税の証拠、違法な裏帳簿のコピー、そして過去十年分の賄賂のリストだ」

「な……なぜそれを……!?」

男爵が目を剥いた。

私が淡々と説明する。

「昨夜、閣下の命令で私が一晩で監査を行いました。貴方の帳簿、穴だらけでしたわよ? 小学生のお小遣い帳レベルです」

「ヨーネリア嬢の計算能力を甘く見ないことだ」

閣下は立ち上がり、男爵の前に歩み寄った。

「貴様には三つの選択肢を与えよう」

閣下は指を三本立てた。

「一つ。全財産を没収され、爵位を剥奪され、北の果ての鉱山で一生強制労働に従事する」

「ひっ……!」

「二つ。全財産を没収され、爵位を剥奪され、南の孤島でワニの養殖の餌やり係として一生を終える」

「い、嫌だぁぁ!」

「三つ。……今ここで、私が直々に『処刑』する」

チャキッ。

閣下が懐から護身用の短剣を取り出した。

冗談に見えない。本気だ。この人は今、法を超越しようとしている。

「お、お助けぇぇぇ! 死にたくない! 鉱山に行きます! 鉱山で働きますからぁぁ!」

男爵は泣き叫び、床に額を擦り付けた。

「賢明な判断だ」

閣下は冷たく言い放ち、騎士たちに目配せをした。

「連れて行け。二度と私の視界に入れるな」

「はっ!」

男爵はズルズルと引きずられていった。

その背中は、見る影もなく小さくなっていた。

執務室に静寂が戻る。

閣下は短剣をしまい、深く息を吐いて椅子に座り込んだ。

「……ふう。不快なゴミ掃除だったな」

彼は眉間を揉んでいる。

その姿を見て、私は――あろうことか、「かっこいい」と思ってしまった。

(な、何を考えているの私!?)

相手は、法的な手続き(監査)と物理的な脅し(短剣)をハイブリッドで駆使する危険人物だぞ?

でも。

私のために、ここまで激昂し、徹底的に敵を排除してくれる姿に、強烈な安心感を覚えてしまったのだ。

「……ヨーネリア」

閣下が私を呼んだ。

「は、はい!」

「怖がらせてすまなかったな。……私の本性を見て、幻滅したか?」

閣下は自嘲気味に笑った。

「私は綺麗なだけの政治家ではない。必要とあらば、手を汚すことも厭わない冷血漢だ。……君が離れていくとしても、責められんな」

弱気だ。

あの「ブチ切れ」モードの直後に、このギャップ。

私は無意識のうちに、閣下のそばに歩み寄っていた。

「……訂正します」

「え?」

「幻滅? いいえ、むしろ『評価見直し(上方修正)』です」

私は閣下の手を取り、自分の両手で包み込んだ。

「敵に対して容赦がないのは、味方にとっては最大の信頼の証です。貴方のその『徹底的な排除能力』は、私の将来の平穏を保証する最強のセキュリティシステムですから」

「……セキュリティシステム扱いか」

「はい。それに……」

私は少し視線を逸らした。

「私のために怒ってくれる貴方の顔、いつもより三割増しで……その、男前でしたよ」

言ってしまった。

顔から火が出そうだ。

閣下は驚いたように目を見開き、やがて耳まで真っ赤にした。

「……君には、本当に敵わないな」

閣下は私の手を引き寄せ、抱きしめた。

「離さないぞ。もう二度と、君を危険な目には合わせない。……私の全てを賭けて、君を守り抜く」

胸板越しに伝わる心臓の音。

それは私の鼓動と同じくらい、速く、強かった。

(……ああ、認めざるを得ないわね)

私は閣下の背中に腕を回しながら、心の中で白旗を上げた。

これは吊り橋効果ではない。

私はどうやら、この不器用で過保護な仕事人間に、完全に『陥落』してしまったらしい。

「……閣下。苦しいです」

「あと五分。いや、十分」

「業務に支障が出ます」

「これは『精神的安定のための必須休憩時間』だ」

「……仕方ありませんね。特別に許可します」

私たちは執務室の中心で、しばらくの間、静かに抱き合っていた。

部屋の隅でミーナ様が「神回……!」と鼻血を出して倒れていたが、今は見なかったことにしておこう。

こうして、誘拐事件は幕を閉じ、私たちの絆は(物理的にも精神的にも)強固なものとなったのである。
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