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1巻
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しおりを挟むプロローグ
「なんで、私がこんな……うぷっ……絶対、見つけて……げほっ、文句言って、やるんだから……っ」
余計な体力を消耗するとわかっていても、どうしても声を出してしまう。声に出して自分を鼓舞しなければ、海の藻屑になってしまいそうだ。懸命に水をかきながら必死の思いで決意を語る。
そんな彼女――加賀野絵里、二十一歳、某大学三年生――がいるのは、広大な海のど真ん中であった。
とあるトラブルに巻き込まれた結果、いずことも知れない空中に放り出され一直線に落下して、たどり着いたのがここである。
数十メートルの高さから海面にたたきつけられれば、その衝撃はコンクリートに衝突したときに匹敵するという。普通であれば全身骨折に内臓破裂だが、それ以上の高さから落ちたにもかかわらず、絵里はそういった目には遭わなかった。
なぜかはわからない。もしかすると、件のトラブルの原因となった存在が何かをしてくれたのかもしれないが、だったら落下地点を変えてほしかったと彼女は切実に思った。
落下の衝撃は大したものでなかったとはいえ、海中に深く沈んで上下の感覚を失ってしまい、浮き上がるまでの間、真剣に死を意識した。やっとのことで海面まで浮上し、呼吸ができたときはしみじみと空気のありがたさを実感したものだ。
しかも、はっきりと確認できたわけではないが、海の中に何やら巨大な影が見えた気すらする。
鯨ならまだいいが、鮫のように人を襲う生き物だったらと想像して、絵里は水を掻く手に力を入れた。
当然、手にしていたはずの通学用トートバッグは影も形もない。おそらく中身もろとも海の底に沈んでしまったのだろう。
突然、着の身着のままで海に放り出されたという踏んだり蹴ったりの状況ではあるが、希望がないわけではない。かなり遠くではあるものの、陸地らしきものが見えている。まずはあそこまで泳ぎ切るのが目標だ。
着いた後どうするかは、そのときに考えればいい。
しかし、小さいころスイミングスクールに通っていて、泳ぎにはそここそ自信のある絵里だったが、二十五メートルのプールを往復するのとはわけが違った。水温は低く、穏やかとはいえ流れがある。何より着衣のまま泳ぐのはかなりの体力を消耗した。
それでも海中で服を脱ぐのは大変だし、上陸後、代わりのものが手に入るとは限らない。幸い、絵里が着ていたのは長袖Tシャツにジップアップのパーカー、ストレッチジーンズにハイカットのスニーカーで、水の抵抗が比較的少なかった。
「とにかく……あそこ、まで……うっぷっ」
じりじりと位置を変える太陽に若干焦りながらも、彼女はクロールと平泳ぎを交互に使い、少しずつ前に進み――やがて、日が傾き切る前にスニーカーの底が柔らかな砂地に着いた。
安堵のあまり涙を流し、そのままよろよろと数メートルを進んだものの、全身が水から出たところで体力と気力が尽きてしまう。
「……ちょっと、だけ……、ちょっとだけ、だか、ら……」
だれに向かって言い訳しているのか、本人にもわかっていなかったが、そんなセリフを口にした直後、絵里はとうとう意識を手放した。カクリ……と力なく砂地に倒れ込む。
故にそのほんのわずかの後、近くの茂みががさがさと揺れ、小さな悪態と共にだれかがその場に姿を現したことも、その人物が倒れ伏す絵里を視界に入れて慌てて駆け寄ってきたことも、知ることはなかった。
第一章 おっさん登場
『……我が呼び寄せたのは一名のはず。なのに、なぜ、ここに二名が存在する?』
どこからか聞こえてきた知らない声に、絵里は周囲を見回した。なぜか、真っ白な空間にいる。
確かほんの一瞬前まで、自分は大学のキャンパスにいたはずだ。今期の単位のためのレポートを提出しようと教員棟に向かっていたときに、同級生である片野春歌に遭遇し、それを奪われそうになったので必死になって抵抗していたところである。
ちょっと参考にさせてもらうだけで直ぐに返す――そんなことを言われたが、それを信じたところ丸パクリされた過去があるので、当然、断ったのだ。
そもそも、春歌という娘は甘ったるい容姿とかわいい言動で男子には人気があるが、女子には自分勝手な横暴ぶりをいかんなく発揮していて、はっきり言って嫌われている。
その上――と、思ったところで、もう一度、先ほどの声が聞こえた。
「……だ、だれっ?」
『我か? 我は******だ』
「は? 何、わからない……?」
『で、あろうな。其方に理解できる概念に置き換えれば神、或いは管理者といったところか。そしてここは、我の管理する世界と、今から其方が向かう世界の狭間の空間だ。其方に頼みたいことがあって――』
声は、よくわからないことを話し始める。
「はい?」
『理解できぬか? まぁ、よい。向こうへ行けば自ずとわかるだろう。それよりも、問題は其方の付属物だな。本当に、なぜにこのような事態になったものやら……』
まったく見知らぬ場所で、正体不明の相手からわけのわからないことを言われ、さらには愚痴っぽいものまで聞かされている。
――私、なんか悪いことしたっけ?
とにかく状況を説明してもらおうと、絵里は口を開きかけた。そのとき、視界に見覚えのある人物が入る。春歌だ。
どうやらこの不思議な声は彼女にも聞こえているようだった。話が進むにつれ、その表情が困惑から怒りへと変わっていく。その挙句に――
「あんたのせいよ! あんたのせいで……っ」
どんっ、という衝撃を背中に感じ、絵里は止まり切れずに床に手をついた。
『何をする!? 早く戻るのだっ。転移陣から出ては……』
慌てた声が聞こえたが、それに従うよりも早く、たった今まであったはずの床が消滅した――
「――っ!?」
意識が戻ったのは、ひどい夢のせいなのか、それとも冷え切った体が温められて、手や足の先がちりちりとした痛みを訴え始めたからなのか。
どちらなのかは判然としないが、むず痒い感覚が絵里にそれ以上の眠りを妨げた。まだ幾分ぼんやりとしていた意識が急速に覚醒する。
まず、最初に気が付いたのは『寒さ』と『温かさ』という、相反する二つの感覚だ。
冷たい海水に何時間も浸かっていたために、絵里の体は冷え切っていた。
どうにか無事に浜辺まで到達し意識が遠のく寸前、ひどい寒さを感じていたのは覚えている。そして、今もまだ寒い。けれど、先ほどに比べればかなり軽減されていた。
また、体幹部分はそこそこ温かく、そこから温められた血液が循環することにより、少しずつ改善されていっている。痛みと痒さは、そのせいだろう。
まるでしもやけになってしまったときのように、耐え切れないほどの痒みをつま先に覚えた絵里は、無意識に小さく足を動かした。
「お? 気が付いたか?」
不意にかけられた声に、ぎょっとして飛び起きようとする。が、彼女の体は大きな布にぐるぐるに包まれていて、身動きができなかった。その上、今、この瞬間まで全く気がつかなかったが、だれかにしっかりと抱きかかえられている。
多少動いたくらいではその拘束から抜け出せないことを悟った絵里は、悲鳴を上げようと口を開いた。身動きはとれないが、至近距離で思い切り叫べば、この不審人物がひるむかもしれない。
「っ、き……ぁ、けほっ、こほっ」
けれど、残念なことにこちらも不発に終わった。
悲鳴どころか、かすれた声しか出せない。
「大丈夫か? かなり海水を飲んでるんだ、喉も荒れてるはずだぞ」
激しくせき込む絵里の背中を、大きな手がゆっくりと撫でてくれる。その手はとても優しくて、悪意のかけらも感じられない。
「気が付いてよかった。喉がつらいだろう、水は飲めそうか?」
その声は低く男性的であるものの、絵里をおびえさせまいとしてか、とてもおだやかだった。
「ほら。ゆっくり飲むんだぞ」
少し落ち着いたところで、木でできた器が目の前に差し出された。絵里はせき込みながらも頷く。
反射的に受け取ろうと手を動かすが、腕も体と一緒に布に巻き込まれている。どうしよう、と困っていると、声の主が器を口元まで運び、ゆっくりと傾けてくれた。
重病人でもあるまいに……と、気恥ずかしく思った絵里だが、相手の言うようにひどく喉が渇いている。水分補給の必要があるのは明らかだし、何より、ひりつくような喉の痛みが耐えがたい。彼女はそっと口を開いた。
「ん、ぅ……ぐっ、くふっ! け、ほっ」
「こら、ゆっくりと言っただろう」
ためらいがちに一口飲んだ後は、もう歯止めがきかなかった。器に食らいつくようにして一気に飲み込み、案の定、むせかえる。
しかし、器を差し出してくれていた相手は、あきれたような声を出しながらも、激しくせき込む絵里を優しく介抱してくれた。そして、落ち着いたところで、また器を差し出す。今度は絵里も慎重にそれを喉に通していった。
一杯では足りず、お代わりも同じように飲み、やっと人心地ついた絵里は、そこで非常に大事なことに気が付く。
ここはどことか、この人はだれとか、ではない。
――まだ、相手にお礼の一つも言っていない。これはとんでもないことである。早急に、改善を図らねばならない。
どうやら、自分はこの人に助けてもらったようだ。
海難事故に遭った者は、必死に岸にたどり着いても、その後で衰弱して死んでしまうことがままあるらしい。自分がそこまで重篤な状態だったかどうかは不明だが、あのままだったら風邪くらいは引いていたかもしれないし、直ぐに飲み水を見つけることができたかどうかも不明だ。
状況を見るに、この人物が冷え切っていた体を温めてくれたに違いない。
目の前にはぱちぱちと燃えている焚火があり、岩場の一角らしくうまい具合に風が遮られている。潮騒の音がするので、海岸からはさほど離れていない場所なのだろう。
わざわざこんな手間をかけずとも、スマホで救急車を呼んでくれれば早かっただろうに、とちらりと浮かんだが、直ぐに打ち消した。助けてもらったことに変わりはない。
絵里は母から基本的な礼儀として、『ありがとう』と『ごめんなさい』をしっかりと躾けられた。早くに亡くなった父も、『かけた恩は水に流せ、受けた恩は石に刻め』という言葉を座右の銘にしていたと聞いている。
なのに、今までの自分の行動はといえば、状況を把握できていなかったとはいえ、悲鳴を上げることと水を飲ませてもらったことのみだ。
もっとも、ぐるぐる巻きは頭部にも及んでおり、絵里の視界は非常に限られたものになっている。周囲の様子は見渡せるものの、視線を上げるのが難しい。
お尻の下がごつごつしているのは、件の人物が胡坐を組み、その上に横抱きの状態で乗せられているせいらしかった。いや、そんなことは後でいい。
お礼を言うのなら、きちんと相手の眼を見ながらだ。そのためには体の向きを変える必要がある。
もぞもぞと身動きをし始めた絵里に、相手は少し驚いたようだが、最初のときとは違い落ち着いているのを悟ったのか、素直に腕の拘束を緩めてくれた。
ぐるぐる巻きのために体のバランスを保つのが難しかったが、そこは根性で相手の体から少し距離を取る。そして、なんとか相手の顔が見えるようになった絵里の眼に最初に飛び込んできたのは、もじゃもじゃした髭だった。
金褐色、とでもいうのだろうか。金というには赤味が強く、また茶色というにはいささか明るすぎる色合いだ。それが鼻から下、もみあげからあごにかけての大部分を覆っている。そしてその間に埋もれそうになっている唇は、荒れてかさかさしていた。鼻はすっきりと高く通っているのだが、その周りの皮膚は日焼けのせいか、やはりかさついていて少し皺もよっているようだ。
さらにその上――髭と同じ色の髪も、あまり手入れができていないようでぼさぼさだった。しかし、脂ぎっていたり変なにおいがしたりするわけではない。それなりに気が配られていて、その髪の間から覗く瞳は青――いや、わずかに灰色が混じっている。
年のころは四十を少し越えたくらいだろうか。彫りの深い顔立ちのため、一見すると怖そうな印象を受けるが、それを裏切るひどく優しい眼差しで絵里を見下ろしていた。
「あ、あの……」
まずは助けてもらったお礼を言おう。それから、ここがどこか教えてもらいたい。そう思っていた絵里だったが、自分を抱きかかえている相手の顔をしっかりと認識した途端、その舌が凍り付いた。
――やばいっ、何これっ……!?
一瞬にして、絵里の脳裏に飾られていた初恋である小学校の教頭先生や、「素敵!」と思っていた大学の教授、その他、大好きな国内外の渋い俳優陣、全部が吹っ飛ぶ。
文字通り目と鼻の先で、少し困ったように微笑んでいるのは、まさに理想がそのまま形をとったような男性だ。
そう、彼女――加賀野絵里は、筋金入りの『枯れ専』、或いは『おじ専』なのであった。
そうなった理由は色々とあるのだが、それはさておき、目の前にいるのは渋い男前。少しくたびれた様子がなよなよとした若いイケメンには出せない色気を感じさせる、彼女の好みど真ん中をぶち抜く存在だ。
「……どうした? どこか、具合が悪いか?」
突然フリーズしてしまった絵里を不審に思ったのか、男性が問いかけてくる。改めて聞くその声も低く男性的で、容姿の印象そのままにわずかにかすれている。声すら理想的だ。
うっとりと聞き惚れていた絵里だったが、声をかけられたことで再起動を果たした脳が、やるべきことを指示してきた。
「い、いえ。大丈夫ですっ! それより、あのっ……助けてくださってありがとうございましたっ」
頬が赤くなり、まだ嗄れている声が上ずっているのが絵里自身にもわかっていたが、一息で告げることで当初の目的を達成する。
「ああ、なんだ、そんなことか。気にするな、ちょうど行き合った縁ってやつだ――それよりも腹が減ってないか? あんたの服は乾くのにもう少しかかりそうだし、何か食えそうなら、腹に入れておいたほうがいい」
男性は見かけだけでなく、中身も男前だった。助けたことを恩に着せるでもなく、さらりと流した後、彼女を気遣ってくれる。
そのことにまたも感激した絵里だったが、そこでとあることに気が付いた。
――服?
その単語に引っかかりを覚え、ごそごそと布の内部を確認する。その結果、声にならない悲鳴を上げることになった。
絵里の喉がまだ回復しきっていなかったのは、不幸中の幸いというべきだろう。男性の耳元で金切り声を上げる事態にはならなかったのだから。
「全身ずぶ濡れで冷え切っていたからな。変わった衣装で脱がすのに苦労した。あんたの裸を見てしまったが、そこは仕方ないと勘弁してくれ」
「いえ……私こそお手間をかけてすみません。重ねて、お礼を言わせてください」
低体温症になりかけていたため濡れた服を脱がせる、必要だったからやった。実にシンプルな動機であり、行動だ。
その過程で絵里の裸身を目にすることになったわけだが、それについて変にごまかしたり、照れたりする様子はない。若造ではこうはいくまい、さすがに年の功だ。
おかげで絵里も早めに落ち着くことができた――ついでに、「この人になら見られても……ああ、でも私ガリだしペチャだし、がっかりされたりしなかった!?」とか余計なことを考えていたのは気付かれていないはずだ。
その絵里だが、まだぐるぐる巻きのままなものの、男性の膝からは下ろされている。地面に直接敷いた畳一畳分くらいの敷物の上に、並んで座っている状態だ。
目の前には、赤々と燃える焚火があり、二人の反対側には彼女が着ていた服が並べられている。
パーカーや長袖Tシャツはともかく、下着も同じ扱いをされているのは地味にダメージが大きいが、そこは努めて気にしないようにするしかない。小さな布切れが風で飛ばされないように石をのせてくれているところを見ると、男性はかなり気も利くようだ。
そして、そこでやっと絵里は、自分がまだ命の恩人に名乗りもしていなかったことに気が付く。
「あの……私は加賀野絵里という日本人です。加賀野が姓で、絵里が名前です。絵里・加賀野と言ったほうがいいのかな? 名乗るのが遅れてすみません」
「リィ・クアーノ? いや、ェリィか? すまん、うまく発音できん。その国の名は聞いたことがないし、名前も変わってるな。ああ、俺はライムート・シルヴァ。ライでいい」
絵里を助けた男性は、見た目からして日本人に見えなかったが、名前も外国風だ。絵里の名も妙な感じに変換されたが、とりあえず呼びやすいように呼んでくれればいいのでそこは流しておく。
というよりも、流さざるを得ない。なんとなれば、それらのやり取りにより――加えて周囲の様子から、確信したことがあった。
どうやらここは、日本――いや、『地球』ではないらしい。
例の『声』にそれっぽいことは告げられていた絵里だったが、そう考えた一番の理由は、このライとの会話だった。
なぜか日本語が通じている。しかも彼は、生粋の日本人である絵里が聞いてもまったく違和感のない発音で、日本生まれの日本育ちと言われても信じてしまいそうなくらいである。ただ、よくよく観察してみると、絵里の耳に届く『音』と、ライムートの口の動きが違う。つまり、絵里には『あ』という音が聞こえるのに、口は横に開かれているとかそういうことだ。
さらには、ライムートはどうやら『日本』を知らないらしい。
日本を知らないのに日本語をしゃべる。
何やら自分の身に妙なことが起きていることを、絵里は理解した。
加えて、ライムートの所持品だ。
ざっと見回した限りではあるが、そこに彼女のよく知る『文明の利器』はまったくない。先ほど水を飲ませてもらったのは木製の器だったし、その水の出どころは革の水袋である。間違ってもステンレス製の水筒ではない。その他にあるのは、粗布でできたリュックに似た鞄と馬の鞍らしき物体。そして、彼の傍らの地面に置かれた『剣』だ。
今どき、剣を所持する人間がいるだろうか。おそらくどこの国でも、一発で官憲が飛んでくるに違いない。気合の入ったコスプレ、と無理やり考えようにも、だったらここはどこのイベント会場だという話だ。
あり得ない。
そのあり得ない事態が、現在進行形で自分の身に起きている。絵里は呆然とした。
名乗った後で急に黙り込み、何事か考え込んで、だんだんと顔色を悪くしていく彼女を、しばらく見つめていたライムートが、やがてぽつりと口を開く。
「どうやらわけありらしいが、とりあえず今は安全と思ってくれ。まぁ、俺みたいなムサい親父が何を言っても信用できんかもしれんが」
「いえ、そんなっ……」
「本当なら町まで連れて行くほうがいいんだろうが、リィ――でいいな。お前さんの服もまだ乾いてない上に、そろそろ日が沈む。命にかかわる事態でもなきゃ夜に動くような真似はしたくないんで、今夜はここで野宿だ。ああ、寝てる間に襲われないかとかは心配するなよ? さすがに、子どもに手を出すほど飢えちゃいない」
今まで短い言葉しか口にしなかったライムートだが、結構饒舌であるらしい。相変わらず絵里の耳に届く音と口の動きはマッチしていないが、よどみない声の調子や口調からして、嘘をついているようには見えなかった。
それにしても、何げに絵里は子ども認定されているらしい。裸を見られた上でのその判断に、こっそりと落ち込むものの、今はそこにこだわっている場合ではなかった。
「あの……私のこと、聞かないんですか?」
「ああ? 聞いてほしいっていうのなら聞くぞ。で、リィは話したいのか?」
質問したのは絵里だが、あっという間に立場が逆転してしまう。改めて問いかけられ、思わず考え込んでしまった彼女に、ライムートはわずかに苦笑しながらさらに言葉を続けた。
「ま、とりあえず飯でも食おう。腹、減ってるんじゃないか? ろくなものはないが、腹ペコでいるよりはましだと思うぞ」
そう言いながら、粗布の鞄に手を伸ばす。ごそごそと中を漁っていたが、やがて薄茶色い干からびたものと、焦げ茶色の塊を取り出した。
「食ったことはあるか? ない? ……そりゃ運がいい。少しずつかじって、じっくり噛んでから呑み込むんだぞ」
まるで子どもに言い聞かせるように言った後、薄茶色いものを掌の半分ほどの大きさに引きちぎる。
焦げ茶色のほうはやはりバッグから取り出した小刀で切り分け、拳より少し小さめの塊にして、ぐるぐる巻きからどうにか手だけ出した絵里に渡してくれた。
どうやら、何かの肉を干したものと、パンのようだ。しかし、干し肉はともかく、パンはその大きさからは意外な程にずっしりと重い。切り口を見てみると、絵里のよく知るパンにある発酵の痕跡がない。単に穀物を挽いてこねて焼いただけのものらしい。
それでも、そろそろ空腹が限界になりつつあった彼女は、恐る恐るそれを口に運ぶ。
味は……お世辞にもおいしいとは言えなかった。保存を第一に考えられているみたいで、干し肉は香辛料などを一切使っていない塩辛いだけのもの。しかも、お湯に入れたらそのまま塩味スープができるのではないかというくらいに塩がきつい。減塩などとは、対極にある物体だ。
パンはパンで、堅い上にぼそぼそしていて、あっという間に口の中の水分を全部持っていかれた。絵里は慌てて水を含んで、ふやかしつつ、何度も咀嚼する。そこでやっと呑み込めた。
「まずいだろう? どうしても無理なら残していいんだぞ?」
「いえ、いただきます。ありがとうございます」
ここが絵里のいた『世界』と異なることは間違いない。ライムートの所持品を彼女の知る限りの歴史的知識と引き合わせると、どうも中世ヨーロッパ程度の文化だと思われる。
それはつまり、現代の日本のようにちょっと歩けばコンビニがあったりはせず、人里離れた場所で手持ちの食料が尽きれば、死ぬ可能性があるということだ。
そんな貴重な食料を分けてもらったのだから、味がどうこうというのは贅沢を通り越して傲慢でさえある。
「あの……ライ、さん」
「ん? さんはいらんぞ、ライでいい」
「いえ、年上の方を呼び捨てにするのは抵抗があるので……で、ライさん。食べながらで、失礼してしまうんですけど」
「どうした?」
「話、聞いてもらえますか?」
ほんの少し前まで迷っていた絵里だったが、あまりにもまずい食料で決心がついた。覚悟が決まったというべきかもしれない。
まったくの見ず知らずの――命の恩人ではあるのだが、それ以外は名前しか知らない相手に、洗いざらい身の上を話すのは避けるべき行為かもしれないが、そんなことは関係なかった。
命を救ってもらい、食べ物まで分けてもらったのだ。しかも、明日の朝まで身の安全を保障してくれるという。そんな相手に隠し事をしたままで平気な顔をしていられるような性格を、絵里はしていない。
目の前の彼は、優しい態度だが実は腹の中では別のことを考えているかも、いや、あまりにも奇想天外な話を気味悪がって自分を追い払うかもしれない。
そんな可能性が一瞬、頭をよぎったのは事実だが、それでも聞いてもらおうと決めた。ライムートが助けてくれなかったら自分は死んでいたかもしれないのだ。
何より、こんなことを自分一人の胸のうちにしまっておけるほど、絵里のメンタルは強くない。精神面の安定を考えても、ここはひとつ、全部話してしまったほうがいいと心を決める。
「ものすごく妙……というか、信じられないような話なんですけど、決して嘘はついてません」
そう前置きして、堅い干し肉とパンを苦労して呑み込む合間に、絵里は自分の身に起こったことを、ライムートに少しずつ話し始めた。
応援ありがとうございます!
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